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大阪地方裁判所 昭和62年(わ)2473号 判決

《本籍・住所》《省略》

営業コンサルタント 石川洋

昭和一五年一月二三日生

〈ほか四名〉

右五名に対する各詐欺被告事件について、当裁判所は、検察官小池洋司及び同佐藤信昭出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人石川洋を懲役一三年に、被告人藪内博を懲役一三年に、被告人山元博美を懲役一一年に、被告人石松禎佑を懲役一一年に、被告人道添憲男を懲役一〇年にそれぞれ処する。

被告人五名に対し、未決勾留日数中各七〇〇日を、それぞれの刑に算入する。

理由

第一部認定事実

第一豊田商事株式会社の営業の実態及び本件犯行に至る経緯

一  旧豊田商事時代(昭和五三年七月~昭和五六年四月)

1 旧豊田商事の営業実態

豊田商事株式会社(以下「豊田商事」又は単に「会社」という。なお、その他の株式会社名も、再掲分は「株式会社」を省略する。)は、永野一男が昭和五二年ころから名古屋市で「豊田商事」の商号により金地金の商品取引を始めた後、昭和五三年七月八日、営業目的を貴金属の販売、有価証券の保有利用等と定め、本店を東京都中央区銀座七丁目一八番一三号に置き、名目上の代表者を被告人道添憲男とし資本金五〇〇〇万円で法人化した豊田商事株式会社(以下「旧豊田商事」という。)にはじまる。

この旧豊田商事の実質上の経営者は永野一男で、名古屋を拠点として金地金の先物取引である「予約取引」及び「サヤ取引」を中心に営業活動を行っていたが、その予約取引の営業の実態は、旧豊田商事が、東京貴金属市場という私設市場に加入している業者で、顧客の注文を同市場に取り次ぐ取次代理者であるという触れ込みで、顧客から注文を受けながら、現実は同市場は存在せず、旧豊田商事の前記本社をブラックマーケットの本部として、ファックスで受けたニューヨーク金市場の金価格と為替レートを支店、営業所に送り、各店舗において毎日確定金利表を作成して取り引きをしていたもので、客からの売買注文を同市場に取り次いでいるように見せ掛けて先物取引の委託証拠金名下に客から金銭を受け入れ、これを経費等に費消する一方、ニューヨーク金市場の金の値動きを見ながら、客が儲かっている場合には増契約を勧めるなどし、逆に損をしている場合には手仕舞させるなどして客が損をするように仕向けていたいわゆる金ブラック業者であり、このような呑み行為による導入金によって組織を拡大させ、大阪・福岡各支店、岐阜・三重各営業所等を新設していった。

ところが、昭和五四年末ころから昭和五五年初めころにかけて、純金の価格が高騰(純金の国内値は、昭和五四年一月にグラム一〇〇〇円台であったのがその後じりじり上昇し始め、同五五年一月にはグラム六〇〇〇円台になった。)したため、呑み行為をしていた旧豊田商事は客への精算金の支払いができなくなり、また、昭和五五年一月ころ、名古屋の同業者である株式会社スイスゴールドが警察に外国為替管理法違反で摘発されたことが新聞報道されたことから、不安を感じた客が一斉に解約を求めて旧豊田商事名古屋支店に押し掛け、取り付け騒ぎが発生したため、間もなく名古屋支店は閉鎖状態になり、そのため大阪市東区唐物町所在の大阪支店に拠点を移して営業活動を継続した。

そして永野は、客との間で長期分割方式による和解をして急場を凌ぎ、昭和五五年八月二八日、自ら旧豊田商事の代表取締役に就任したが、営業の実態は従前と同様であったため、客との間でトラブルやクレームが絶えず、また、大阪支店長の甲野一夫が営業社員二〇名位を引き連れて退社したこともあって、営業の行き詰まりを生じていた。その後、金相場が下落し、会社にとって好都合な状況になったが、その一方で、同五六年初めころからブラックマーケットと呼ばれる悪質業者による悪徳金商法の被害が急増したのに対応して、それまで規制の対象外であった金地金が商品取引所法の政令指定商品となる動きが出てきたので、永野は新たに開設される金取引所の取引員の許可を得るため奔走する一方、金地金の先物取引から転換する方法を考え出すに至った。

2 ファミリー契約の発案

昭和五六年初めころ、永野一男は、旧豊田商事の取締役に就任していた乙野二夫、被告人山元博美及び同石松禎佑らに対し、「将来予約取引が出来なくなる。それに代わるものとして純金を扱った元本保証の取引をしていかなあかん。」等と説明して、後述する純金等ファミリー契約証券の原型とも言うべき「純金信託証券」の構想を発表した。右純金信託証券による商法は、客に買ってもらう金地金を預って賃借料を前払いし、一年後に返還するというもので、信託という文言を用いる以外はファミリー契約による商法とほぼ同じ形態のものであったが、顧問弁護士から信託という名称を使うと信託業法に抵触する恐れがあるとの指摘を受け、発売後二、三か月で販売を中止した。

そして、昭和五六年三月ころ、大阪市北区梅田一丁目一番三号大阪駅前第三ビル二六階の旧豊田商事の会議室において、同社の幹部である永野、乙野、丙野三夫、丁月七雄、被告人山元及び同石松らが出席して企画会議が開かれ、その席上、永野一男から純金信託証券に代わるファミリー契約による商法(以下、「ファミリー商法」という。)が発表されて、実施にうつされた。その名称については、永野がいくつか挙がった候補の中から「純金(等)ファミリー契約証券」と命名し、その仕組みは、会社が顧客に純金・純銀・白金(以下、「純金等」という。)を売却するという形をとり、その純金等を顧客から一定期間、一定の「賃借料」を支払って預かり、預託期間満了時に同種・同銘柄・同数量の純金等を返還するというものであった。そして、①売買の対象は、純金・白金(プラチナ)・純銀とし、取り扱う種類は、純金については、一〇〇グラム、五〇〇グラム、一キログラム単位とする。②売買契約の手数料は、純金の場合、いずれも売買代金に対する割合で、一〇〇グラム取引で五パーセント、五〇〇グラム取引で三パーセント、一キログラム取引で二パーセントとする。③ファミリー契約の期間は、一年、二年、三年とし、賃借料は一年もので一〇パーセント、二年もので一七パーセント、三年もので二二パーセントとし、いずれも契約成立時に支払うこととされた。なお、賃借料の率は、収益率等を計算して設定したものではなく、専ら客が飛びつきやすいという観点から、当時の国内の他の金融商品の利率(年五ないし八パーセント)より高く設定し、かつ、前払いにしたものである。しかし、客に支払う賃借料は、一〇ないし二二パーセントという極めて高いいわば確定利率であったから、運用によりこれを上回る高収益を生み出すことが必要不可欠であったのに、受け入れた資金の運用方針や運用計画については、何ら確立されていなかった。

二  第一期(昭和五六年四月~昭和五七年三月)

1 大阪豊田商事の設立とファミリー契約の推進

昭和五六年四月二二日、資本金一〇〇〇万円、本店を大阪市北区梅田一丁目一番三号大阪駅前第三ビルに置く大阪豊田商事株式会社(以下「大阪豊田商事」という。)が設立され、代表取締役社長に永野一男が、取締役に乙野、丙野、被告人山元、同石松、丁月が、監査役に戊野五夫がそれぞれ就任した。

大阪豊田商事は、旧豊田商事の大阪、福岡各支店、岐阜、三重、北大阪各営業所を拠点として、従前の金地金の先物取引に加え純金等ファミリー契約の販売を推進したが、昭和五六年九月二四日施行の政令により、金地金が商品取引所法の政令指定商品となったため、金地金の先物取引を廃止し、以後ファミリー契約を中心とする営業活動を展開していった。なお、大阪豊田商事は、金ブラック業者であったということで、昭和五七年三月開設された東京金取引所の取引員の資格を与えられなかった。

2 ファミリー契約による導入金増大の方策

大阪豊田商事では、ファミリー契約による導入金(同社では、純金等の売買代金と受取手数料の合計額から賃借料を差し引いたものを「導入金」と称していた。)を増加させるため、ノルマの設定、営業社員に対する歩合給及び月間ボーナス等の支給を行う一方、永野の方針は、支店を増やして受け皿を大きくすることによって資金の導入を図るというもので、乙野らに対し、「そのためには一等地の一等ビルに店を出さんと客は拾えん。いかにして客を信用させるかだ。営業マンは、会社に客さえ連れて来ればええんだ。」等と言い、発足当時から店舗増設に非常に力を入れていた。そして、永野は、昭和五六年三月に入社後、短期間で総務課長、総務部長と昇進した被告人藪内に、一県に一支店もしくは営業所を設置するよう指示し、地方店舗の拡充に努めていった。

なお、大阪豊田商事は、資本金を昭和五六年六月一六日に四〇〇〇万円、同年七月七日に一億二〇〇〇万円、同年八月四日に二億円、昭和五七年四月二一日に二億五〇〇〇万円にそれぞれ増資した。

3 第一期における導入金の運用状況

被告人らは、ファミリー契約によって受け入れた導入金の運用については、関心を持たず、もっぱら永野一男に任せ切りにしていたため、永野は旧豊田商事時代から手を染めていた商品先物取引に多額の導入金を投下したが、そのほかには、海外事業関係及び貸金業や不動産業を行っていた程度で、収益は上がっていなかった。

4 第一期決算

大阪豊田商事の第一期の決算報告書を添付した確定申告書は、永野、被告人藪内、同山元が閲覧したうえで、昭和五七年六月三〇日、大阪の北税務署に提出したが、右決算報告書によれば、当期損失は約八億八〇〇〇万円であったが、後記のとおり、被告人藪内の指示により赤字額を圧縮しており、実際の赤字額はそのような金額にとどまるものではなく、後の見直しによれば約三五億円であった。なお、右決算報告書は、同年七月、永野、乙野、丙野、丁月、被告人藪内、同山元、同石松らの役員が出席して開催された役員会議において、出席役員の閲覧に供しており、右役員らは、その内容を知ることが出来た。

三  第二期(昭和五七年四月~昭和五八年三月)

1 第二期前半における組織状況と経営体制

昭和五六年四月に大阪豊田商事が発足した当初はまだ組織が固まっていなかったが、徐々に整備されていき、昭和五七年一〇月ころの組織は、営業、総務、管理監査、関連事業、海外事業の各部門別に構成されていた。「営業」は、豊田商事の最先端部門であって、ファミリー契約の締結、導入金の受入れ等を業務内容とし、「総務」は、導入金の受入れ処理、伝票作成、ファミリー証券の作成等を業務内容とする「業務部門」と、受入れ金の管理、出金処理等を業務内容とする「財務部門」に二分され、その他人事等の業務も担当していた。また「管理」は、契約締結後の顧客の管理を担当する部門であって、客からの解約申込の処理、満期償還を迎えた客に対する再契約(これを「継続」といっていた。)、契約に伴うクレーム、トラブルの処理等を業務内容としており、「監査」は、社内の不正事件を調査する部門で、「関連事業」は、豊田商事が出資して設立したいわゆる関連会社(当時、トヨタゴールド等五社が設立されていた。)の経営及び財務指導等を業務内容とし、「海外事業」は、香港、台湾等で現地法人を設立して、主として海外での商品先物取引をしていたが、これらの経営及び財務指導等を業務内容としていた。

ちなみに、昭和五七年四月当時の地方店舗の数は、一五支店、五営業所であった。

昭和五七年六月一日、乙野が専務取締役から取締役副社長に、丙野及び被告人山元が常務取締役から専務取締役に、被告人石松及び丁月が取締役から常務取締役にそれぞれ昇格したが、同年七月取締役東京支社長の甲山六夫が解雇されたことに伴い、営業については、同年八月から東日本地区(北海道、東北、関東の各ブロック)は丙野(東京支社長兼務)が、西日本地区(中部、関西、中国、九州の各ブロック)は丁月がそれぞれ管掌することになった。

2 社内誌「クラスター」の発刊

大阪豊田商事は、社内の統一と社員の結束を図るため、当時取締役総務部長であった被告人藪内を編集発行人として、昭和五七年四月から、毎月、社内誌「クラスター」を発行し、全社員に無料で配付していた。なお、創刊号において、永野一男は、「限りない挑戦」と題して、昭和五七年度の売上目標を月商三〇億円、年間三六〇億円とする旨檄を飛ばしており、また、被告人藪内は、「発刊のご挨拶」と題して、本部と各支店・営業所のパイプ役として、社員間の交流を深め結束を図ること及び福利厚生の充実等を目的として本誌を発刊することにしたとその目的を述べていた。

3 営業制度の改正

導入金の運用による収益がなく、赤字の状態のままファミリー契約の最初の償還期を迎えた大阪豊田商事は、導入金の増大を図るため、昭和五七年六月二日付け役員通達第一三号「営業制度の改正の件」を各支店長、営業所長宛に発出した。その内容は、①いわゆる純増方式の廃止(従来は解約、キャンセル、期日満期による出金を該当月の営業売上額より控除していたが、今後は営業売上より控除しない。)②係別ノルマ制の導入(従来は課別ノルマ制であったが、これを係別ノルマ制にし、一係の売上より一五〇〇万円を控除し、その売上導入残高に対して一〇〇万円単位に、別途各その係の長に二パーセントの報奨金を支給する。)③個人ノルマ(いわゆる足切り)の変更(従来の歩合支給対象の売上導入金額は三〇〇万円(東京、横浜は四〇〇万円)であったが、これを四〇〇万円(東京、横浜は五〇〇万円)に変更する。なお、従来五〇〇万円以上導入した場合に正社員としていたが、今後は個人ノルマを達成した場合に正社員とする。)④営業社員の給与の変更(改正後の給与は、見習社員、正社員、ヘッド、主任の各基本給は二五万円(東京、横浜地区は、三〇万円、以下、かっこ内の記載は同地区についてのものである。)、係長、課長席、課長、次長、部長の各基本給は三〇万円とし、ヘッドから部長までについては、さらに役職手当として、ヘッド二万円、主任及び係長は各五万円(係長については一〇万円)、課長席一〇万円(一五万円)、課長二〇万円、次長二五万円、部長三五万円を支給する等)⑤営業管理職に対する手当として、支店長に一五万円、同代理に七万五〇〇〇円、営業所長に一〇万円、同代理に五万円支給する。⑥以上は、昭和五七年六月一日より実施する、というものであった。

さらに、継続にも力を入れるため、同年六月九日付け業務通達第一五号「継続及び解約について」を発したが、その内容は、①解約問題に弁護士が介入し、正規の解約手数料が取れない場合に限り、前記の純増方式を採用する。②満期後の継続処理については、継続すべき期限内に継続できなかった顧客は、管理本部及び各支店管理課預かりとする。③管理課管理の顧客を営業社員が引き継いだ場合、二パーセントの継続歩合とする。④現行の継続歩合一パーセントを二パーセントに改定する。⑤以上は、昭和五七年六月一日より実施する、というものであった。

4 第一期分の粉飾決算書の作成

豊田商事の第一期法人確定申告の終わった昭和五七年七月ころ、当時同社の取締役総務部長をしていた被告人藪内は、民間の信用調査機関である株式会社東京商工リサーチ関西支社から豊田商事の公表決算書の交付を要求されたが、公表決算書では約八億八〇〇〇万円の当期損失を計上していたことから、永野に相談したところ、永野は、「公表決算書をそのまま出したらまずい。収支バランスがとんとんになるようなものを作って渡せ。」と指示した。

そこで、被告人藪内は、財務部経理課長であった乙山七夫に対し、「興信所や貸ビルのオーナーに決算書を渡さなければいけないから、黒字一〇〇〇万円程度の決算書を作れ。」と指示し、これを受けて乙山は部下の丙山八夫と二人で作業に取り掛かり、公表決算書のうち貸借対照表の什器備品勘定で九億円を水増しするとともに、損益計算書で販売費及び一般管理費九億円を圧縮し、これらの勘定科目の金額を操作して、豊田商事の第一期の当期利益を一二三六万九一一一円とする粉飾黒字決算書を作成して、被告人藪内に渡した。同被告人は、永野に示して了解をとった後、大阪本社において前記東京商工リサーチの担当者岩本登に一部を交付し、その後も被告人藪内もしくは右丙山において、そのコピーを株式会社帝国データバンクやその他の中小興信所等の民間信用調査機関のほか貸ビルのオーナーらに配付していた。

5 五本部体制の確立

大阪豊田商事は、昭和五七年九月二七日豊田商事株式会社に商号変更登記をし、被告人藪内のもとで組織作りに力を入れ、同年一一月一日、別表一のとおり、営業本部、総務本部、管理監査本部、関連事業本部(実際に稼働を始めたのは昭和五八年一一月一日から)、海外事業本部の五本部体制を確立した。そして、代表取締役社長永野一男の総括の下に、副社長の乙野二夫が西日本ブロックを、専務の丙野三夫が東日本ブロックをそれぞれ管掌する機構となった。このとき取締役名古屋支社長から専務取締役に抜擢された被告人石川が営業本部長に、被告人藪内が総務本部長兼関連事業本部長(関連事業関係は実質的には永野が統括)に、被告人山元が総務本部副本部長(財務担当)に、被告人石松が管理監査本部長に、同年一〇月一日付けで取締役となった被告人道添が総務本部副本部長(総務・業務担当)に、海外事業本部長には取締役の戊野五夫がそれぞれ就任した。

ちなみに、このときの地方店舗(支店、営業所)数は、三三店であった。

6 第二期における導入金の運用状況

(一) 永野の商品先物取引

永野は、かつて商品取引会社に勤務していた経験に基き、旧豊田商事時代から商品先物取引に手を染めていたが、ファミリー契約によって受け入れた現金や有価証券の中から相当多額な金員を、役員会議に諮ることもせず、財務担当の被告人山元に指示して生糸・小豆・乾繭・大豆・ゴム等の国内商品先物取引の差入保証金に投入し、時には社員の給与支払いのために備蓄していた金員を取り崩して差入保証金に投入することもあり、「ゆくゆくは先物取引業界を牛耳ってみせる。」などと豪語していた。このように、永野一男は多額の導入金を投入して派手な仕手戦を演じていたため、業界新聞や雑誌でも「T社」あるいは「金屋の玉三郎」などと書かれて、話題になって業界の反発も強まり、昭和五七年一〇月二〇日、全国商品取引員協会連合会は、私設先物取引市場関連業者、現物取引に仮装した先物取引類似業者等からの商品取引の受託は一切行わないとの申し合わせを行い、ブラック業者の締め出しを図ったが、永野は、昭和五七年六月二二日に設立した関連会社の菊池商事株式会社を通じるなどして商品先物取引を続けていた。

豊田商事の財務部門の責任者として、金庫番の役割を担当していた被告人山元は、永野に命ぜられて、導入金の中から永野が行っていた先物取引関係の約二〇の取引業者の銀行口座に送金していたが、その額は、一日数千万円から多いときは二億円ということもあり、昭和五六年当時、毎日五千万円ずつ一〇日連続して送金したこともあった。

そのころ、永野が商品先物取引をしていることが、豊田商事の他の役員らにも判明し、昭和五七年秋ころの役員会議で、乙野を始めとする役員が永野に対し相場から手を引くよう進言したところ、永野から、「他に導入金運用の方法があるのか。あるなか言うてみろ。他にいい方法があるならやめる。」と言われ、日頃、永野から「運用はわしに任せとけ。」と言われていた被告人ら役員達は、これという導入金の運用方法についての考えを持ち合わせていなかったため、返答に窮し、さらに同人から「二〇億円位儲かっている。五億円儲けを会社に出すから、その残りでやらせてくれ。」等と言われて、結局永野の商品先物取引を黙認せざるを得なかった。

ところが、同年一二月下旬、被告人山元から乙野に対し、「社長に数億円の追い証がかかった。その金を持っていかれると、年を越してからの資金が心配だ。」との報告があり、資金繰りが苦しい状態に立ち至っていることが判明したことから、同月二五日ころ、前記大阪駅前第三ビル二六階の豊田商事の貴賓室において、永野ほか、乙野、丙野、丁月及び被告人五名が出席して、緊急役員会議が開催され、その席上、永野は「相場で追い証が一〇億円位いる。ここで追い証を入れなかったら、今まで注ぎ込んだ金が無駄になる。これが最後だから出してくれ。」等と言って承認を強く求めた。これに対しては、ほとんどの役員が反対し、被告人藪内は「任しとけでこの結果だ。今更勝つ見込みがない。今やめればそれで終わる。これ以上の出金は、ほかの支払いが出来なくなるし、年末でもあり反対だ。」と言い、乙野及び被告人山元もこれに同調したが、被告人石川が「豊田商事の社長が一〇億円位の追い証を出せないということでは、豊田商事に金がないことを公表するようなものだ。」と永野の要求に応ずる意見を述べた。そして、休憩時間に被告人石川が被告人藪内を説得する等した結果、乙野を除く他の役員も賛成するに至り、結局、追い証金の支払いを承認することになった。会議の終了後、被告人山元は永野にいくらできるかを聞かれ、金庫に一億円位、銀行口座に一億円位ある旨説明し、その翌日ころ永野から振込先として指定された三、四の取引業者に合計二億円位の金額を送金したが、結局永野の右商品先物取引は失敗に終わり、約三〇億円の損失を出した。

しかし永野は、その後も規模は縮小しながらも、菊池商事や昭和五八年二月二四日に設立した関連会社の大和商事株式会社を通じて導入金で商品先物取引を続けていた。

(二) 関連会社における運用実態

(1) 海外事業部

永野は、海外事業部担当の戊野五夫に指示して海外でも商品先物取引をするため、昭和五六年三月ころ、ロンドンに現地法人「トヨタショージUKリミテッド」を設立し、ロンドンの一等地のビルの一室を事務所とし、家賃等を支払い、石油取引所の準会員の資格を取得したが、営業活動は全くせず、専ら顧客に海外でも豊田商事が活動しているような印象を与える外観を持たせるだけのものでしかなかった。

また、同年七月ころには、ニューヨークに資本金二万ドルで現地法人「トヨタショージUSAリミテッド」を設立し、ニューヨークの一等地に家賃六〇万円位で事務所を借り受けたが、取引所会員の資格もなく、営業活動は全くしていなかった。

さらに同年一一月ころ、資本金約二億四〇〇〇万円で香港に現地法人「恒成国際有限公司」(エバーウェルシー香港)を設立し、商品取引所会員資格を取得したが、香港政庁は永野に前科があることを理由に営業を許可しなかった。そこで、既に営業中の商品取引会社であるハンウィット、オークラヤを買収した。

昭和五七年八月ころ、台湾に資本金約一三〇〇万円で現地法人「香港商恒昇国際有限公司台湾分公司」(エバーウェルシー台湾)を設立し、昭和五八年三月ころにはインドネシアのPTジャカエバーインターナショナル社(エバーウェルシーインドネシア)を、同年四月ころ約二億四〇〇〇万円でアメリカの商品取引会社エースアメリカンインコーポレイテッドをそれぞれ買収し、さらに同年一〇月ころタイにエバーウェルシーインターナショナルタイリミテッド(エバーウェルシーバンコク)を設立するなどした。

しかしながら、人材不足と無計画のため何ら調査もせず、永野の思い付きで買収するなどしたことから、海外現地法人は、いずれも大幅な赤字で、多額の導入金を浪費するのみであった。

なお、関連会社報告会から独立する形で、昭和五八年四月ころから「海外事業部会議」が開催されるようになったが、この会議には、豊田商事の役員や海外現地法人の担当者、責任者らが出席し、海外事業部が毎月作成する財務関係の資料等に基づき海外事業部門の報告を受け、かつ経営指導をすることとなった。したがって、豊田商事の役員は右会議により海外事業部門の財務状態並びに営業成績が把握できる仕組みになっていた。

(2) その他の関連会社

豊田商事は、いずれも永野の発案で、昭和五七年三月二七日に株式会社トヨタゴールド、同年六月八日に日本高原開発株式会社、同月九日にトヨタツーリスト株式会社(同五八年七月にトヨタワールドツーリスト株式会社と社名変更)、同月二二日に菊池商事、同年九月一日に豊田観光株式会社(同五九年一〇月に日本海洋開発株式会社と社名変更)、昭和五八年一月二四日に海外タイムス株式会社、同年二月八日にベルギーダイヤモンド株式会社、同月二四日に大和商事というように次々と関連会社を設立していったが、いずれの会社もまだ本格的に稼働していなかったため、これらの会社からの収益に期待をかけることは困難であった。

ところで、右関連会社の設立に伴い、昭和五七年八月ころから毎月関連会社報告会(関連会社会議、関連会社説明会とも称されていたが、以下「関連会社報告会」という。)が開催されるようになり、各関連会社の社長及び総務もしくは財務責任者が出席して、豊田商事の各役員に対し、豊田商事の財務部が準備した各関連会社ごとの「月次報告書」に基づき、営業成績や営業方針等を報告し、豊田商事の役員は各関連会社の経営指導をするようになった(但し、永野直轄の商品先物取引は除外されていた。)。なお、右月次報告書は、各関連会社から提出させた財務関係の資料を豊田商事の財務部がチェックしてまとめ、出席者に席上配布していたので、豊田商事の役員は関連会社の財務状態並びに営業成績を把握できる仕組みになっていたが、外部に資料がもれることを防ぐため、永野の指示により、永野、被告人藪内、同山元と財務部が保管する分を除き、会議終了後に回収し、廃棄していた。

7 継続ノルマの新設とノルマ倍増賞金作戦

豊田商事は、前記のように、永野の商品先物取引が、巨額の損失を出し、また、海外現地法人を含めた関連会社も収益を挙げるどころかいずれも赤字であったうえ、導入金の約四〇パーセントは経費に費消していたため、必然的にファミリー契約の満期償還には、新規導入金を充てるという自転車操業を続けていかざるを得なかった。

そこで永野は、さらに導入金を増大させるため、昭和五八年二月ころ、営業本部長の被告人石川に対し、導入ノルマを倍額にし、そのノルマを達成した者には、特別に賞金を支給することにするから、具体的な案を作成するよう指示した。また、そのころ、同被告人は、支店長会議の席上で、出席者から「管理部門は営業部門の落ちこぼればかりであって、管理部門にこのまま継続業務を任せることには問題があるし、特にこれからは継続件数を増やす必要があるので、人員的にも管理部門が対処していくことは難しいから、今後は営業部門が担当してはどうか。」との提案があったことや、月間ノルマを達成できない者がだらけるのを防ぐため週間ノルマを新設することを永野に話して了解を得た。

そして、同年二月二六日、前記貴賓室において、永野、乙野、丙野、丁月及び被告人五名が出席して開かれた豊田商事の役員会議で、永野が、「最近成績がノルマに近づいてきたから、三月からノルマを倍増する。それから、石川から今後継続業務を営業でやることや週間ノルマ設定の申出があるので、石川に説明してもらい、みんなで決めてもらいたい。」と発言し、被告人石川が作成した原案を各役員に配付して「今後継続件数がどんどん増えていくので、人員的にも管理が継続業務を行うのは無理だから、営業に移したい。歩合と賞金は、資料に書いた通りでやっていきたい。」旨説明した。これに対し、管理部門を管掌していた被告人石松は、これまで管理部門が担当していた継続業務を営業部門に移すことに内心不満はあったが、当時継続率は四〇パーセント程度と低かったことから、特に反論を述べるようなことはせず、原案通り決定された。

かくして、同年三月一日、同日付け役員通達第二六号「営業制度改正の件」が発出されたが、その要点は、①継続業務の管理部門から営業部門への移行②継続ノルマの新設(その月の満期到来額に継続可能率八〇パーセントを乗じた額の二分の一を継続ノルマとする。)③継続歩合給は、継続金額の二分の一を新規導入として取り扱い、六パーセントにより計算する(これにより、継続歩合給は、実質的には従来の二パーセントから三パーセントに増加した。)。④週間ノルマの新設(新規導入ノルマと継続ノルマの合計額をその月の実働日数で割り、それにその週の実働日数を乗じた額を週間ノルマとして設定する。)⑤各種賞金の設定(営業管理職に対する週間ノルマ達成賞金及び月間ノルマ達成賞金、営業社員に対する月間ボーナス賞金(新人の場合は新人賞という呼称になる。)及び個人別導入順位賞金、テレフォン社員に対する女子テレフォン順位賞及び女子テレフォンゴールデンリボン賞等)であった。

このように多彩な賞金制度を設定したうえ、導入金の多かった営業社員等は、本社近くの一流ホテルにおいて毎月行なわれる月間表彰式で役員列席の上で受賞し、その模様はビデオに収録され、また社内誌クラスターにも掲載されて全社員に周知させる等徹底した「アメとムチ」の政策を用いて導入金の拡大を目指した。

そして、従来全店に配付していた全店ノルマ表は、月間導入ノルマだけであったが、右の改正に伴い、導入ノルマと継続ノルマを加えた「総合ノルマ表」が役員会議の決定を経たうえ毎月作成され、全店に配付されるようになった。ちなみに、昭和五八年二月度の全店導入ノルマは、四七億九〇〇〇万円であったが、同年三月度の全店の導入ノルマは八二億四〇〇〇万円、継続ノルマは八億六三九四万円(六五九・一キログラム)で、総合ノルマは九一億〇三九四万円と倍増した。

このように豊田商事では、継続率八〇パーセントを目指し、「継続ノルマ」までを営業社員に課し、さらに継続契約特別賞金(昭和五八年一〇月二〇日付け営業本部通達第二三号、同年一二月一日付け同通達第三一号)までを出して、ファミリー契約の満期償還の恒常的な引き延ばしを企図するに至った。

以上のように、継続業務は管理部門から営業部門へ移管されたが、被告人石松は、昭和五八年五月一二日付け管理本部通達第七号を発出し、継続率九〇パーセントを目指すよう指示し、管理部門も継続業務につき協力するよう指令していた。

8 第二期決算

豊田商事第二期の決算報告書を添付した確定申告書は、永野、被告人藪内、同山元が閲覧したうえで、昭和五八年六月三〇日、大阪の北税務署に提出した。右決算報告書によれば、当期損失は約三〇億円で、当期未処理損失は約三九億円であったが、第二期においても、被告人藪内の指示により赤字額を圧縮しており、実際の赤字額は後の見直しによれば約一九三億円であった。なお、決算報告書は、財務内容が外部に洩れることをおそれた永野の指示で、第二期以降は役員会議には提出されなくなった。

四  第三期(昭和五八年四月~昭和五九年三月)

1 二本社体制

豊田商事は、昭和五八年四月一日、大阪本社及び東京本社の二本社体制となり、副社長の乙野が大阪本社を、専務の丙野が東京本社をそれぞれ管掌することとなったが、実質的な本社機能は大阪本社にあった。また、被告人道添は、東京本社総務本部副本部長となり、以後東京本社に常駐することになった。

2 五年もの純金ファミリー契約の導入

前記のノルマ倍増賞金作戦の結果、昭和五八年三月及び四月は月間四〇億円台の導入額を達成したが、依然として関連会社の収益は上がらず、導入金で経費や償還金をまかなう自転車操業の状態が続いていた。そして、二、三年ものファミリー契約は永野の予想に反して余り売れず、主力の一年ものファミリー契約は、一年ですぐ満期が到来し、継続をめぐってトラブルが多発していたため、永野は、償還の先送りができる長期のファミリー契約の導入を思い立った。

そして昭和五八年六月一七日、大阪本社貴賓室において、永野、乙野、丙野、丁月、被告人五名らが出席して豊田商事の役員会議が開催され、永野が五年ものファミリー契約の新規導入の構想を発表した。これに対し、乙野は、事前にクレームの処理に追われていた管理部長の甲塚から「長期のファミリー契約の話が議題に上がった時は反対して下さい。」との要請を受けており、乙野自身もこれに反対だったので、「一年ものでさえ支払が不安がられているのに、五年ではなおさら客が不安がって売れないのではないか。」と反対意見を述べたところ、永野が「アメリカでは五〇年とか一〇〇年とかいった長期の割引債のようなものがあるくらいだ。」等と反論した。また、被告人石松も「長期になれば苦情も増える。むしろ半年位のファミリーはどうか。」と意見を述べると、永野は「管理の立場だけでものを言うな。五年ものファミリーだと、五年間償還しなくて済む。」と述べ、さらに被告人道添が、「五年も先ということになると、その間に純金が値上がりしたらどうしますか。」と質問したところ、永野は「そんなことわかるわけがない。とにかく五年ものにすれば会社が楽になる。」と言うので、永野のねらいが償還の引き延ばしにあることが他の役員にも読みとれた。そして、永野は、「賃借料」を年一五パーセントにしたい旨提案したところ、乙野や財務担当の被告人山元らは、あまりにも高すぎるとして反対したが、営業担当の被告人石川も、「五年ものが売れれば会社が楽になるから、営業はやります。」と賛成意見を述べ、被告人藪内も「台所を預かっている者としてはありがたい。御苦労ですがやって下さい。」と賛意を表明し、年一五パーセント、五年で七五パーセントにものぼる高額な賃借料をどうしてまかなうかについての議論はないまま、右の率が決定された。さらに、永野は、歩合給をこれまでの六パーセントから、五年ものファミリーについては倍額の一二パーセントにすることを提案したが、ほとんどの役員が経費負担が重すぎるとして反対し、結局五割増の九パーセントにすることになり、また一年ものファミリーを五年ものファミリーに「継続」した場合は、四・五パーセントの継続歩合を出すことになった。乙野は、「マスコミが騒いでいる中で、こんな五年ものの長期ファミリーを売り出しておいて、五年後に返すだけの自信があるのか。営業本部は、カネを出さんと導入できんというが、そのようなことをいう営業本部の力の無さにはつくづく情け無いと思う。」旨発言すると、被告人石川は「副社長は甘い。そんなきれいごとでは社員は動きませんよ。」と言い、永野も「お前、何を甘いことを言うとるんや。今この現状のままではやっていけへんやないか。ほっといたら、会社の寿命が尽きるのが早くなるだけや。背に腹はかえられん。」などと言い、結局、乙野の反対があったが、他の役員の賛成で五年ものファミリー契約を導入することに決定した。

右役員会議の決定に基づき、豊田商事は昭和五八年六月二八日業務通達第六二号「五年ファミリー証券販売に伴う事務手続き要項の件」を発出したが、乙野はあくまで反対であるとの意思を明らかにするため、わざと右通達の決裁印をさかさまに押捺した。右通達により、昭和五八年七月一日から五年もの純金ファミリー契約証券の発売を開始し、従来の二、三年ものファミリー契約は廃止すること、五年もの純金ファミリー契約証券は、契約期間を五年間とし、賃借料を五年間で七五パーセントとし、五分割で契約時及び翌年以降契約応当月に各一五パーセントずつ分割で支払うこと、営業社員の歩合は、五年ものの場合が、新規及び増契約が九パーセント、継続が四・五パーセント、一年ものの場合が、新規及び増契約が六パーセント、継続が三パーセントとすること等が各支店、営業所に通知された。

なお、営業本部長の被告人石川は、右通達の発出に先立ち、同年六月二七日開かれた人事支社長会議で、各支社長に対し、「五年ものファミリー契約をやるので絶対新規契約をとるように。一年ものは、出来る限り継続し、五年ものをメーンとして新規契約をとって導入金をふやしてくれ。」と発破をかけた。

しかし、被告人らは、五年間で七五パーセントという法外な賃借料や高額な歩合給を賄うに足りるだけの確実に高収益を生み出す運用計画については、何ら検討していなかった。

ちなみに、昭和五八年七月現在における市中の主要金融商品の利回り(元本一〇〇万円でマル優を利用した場合の五年後の受取利息で換算)は、定期預金六・六六六パーセント、定額郵便貯金六・八七八パーセント、貸付信託八・九〇パーセント、新型貸付信託(ビッグ)八・九三パーセント、新型利付金融債(ワイド)八・九〇二パーセントであり、五年ものファミリー契約の一年で一五パーセント、五年で七五パーセントというのは常識では考えられない利率であった。以上のような役員会議でのやりとりや会社には収益もないのに高額な賃借料や歩合給を支払ってまで五年ものファミリー契約を導入することは、償還の先送りを意味していることからみても、被告人らは、五年ものファミリー契約の償還の見通しについての危険性を十分認識していながら、それでもあえてこれを導入せざるを得ないところまで豊田商事が追い込まれていることを知るに至った。

3 その後における永野の商品先物取引

商品先物取引に手を染めた永野は、ブラック業者の排除をはかる業界から締め出された後も、相場を張ることへの執着を断ち切れず、関連会社の菊池商事や大和商事を通じ、多額の導入金を投じて、商品先物取引を継続していた。

すなわち、大和商事の代表取締役丁山九夫は、昭和五八年二月ころから、毎朝永野が電話で、買、売、商品名、数量等を指示して来るのに従って、小豆、大豆、ゴム、生糸、砂糖等の売買を仲買店に注文した。そして同年五月ころ、乾繭の買いで勝負をし、三か月ほどの間に約一一億円の損失を招いた。永野は、普通の相場師の三倍ほども売買をし、買いと言い出せば、資金が続く限り買いを続けた。そして「相場はマネーゲームや。」と言っていた。同年七月ころから資金が足りず、一億円位の小口の相場しか張らなくなり、昭和五九年九月ころまでの間に三億円ほどの損失となったが、遂に資金がなくなり休憩を指示して来た。

一方、菊池商事の代表取締役戊山十夫も、毎日、豊田商事の社長室へファックスで相場の変動を報告し、永野の指示どおり、大豆、小豆、生糸等の売買を仲買店に注文した。送金は、主に山元博美、豊田商事の名義であり、月一億円ないし五億円位であった。昭和五七年七月ころから一一月ころまでは永野の勘がさえ、生糸、小豆で七、八億円もうけたが、永野は「これ位の利益で、一万人の者がメシを食えるか。月に五〇億円の経費がかかるんだ。」と言って、利益をそのまま保証金にしてさらに大口の相場を張ったりした結果、大豆の値くずれで二〇億円位の損失を出してしまった。永野は、値がくずれても意地になって買いまくるので、結局大損することになり、それでもカネの続く限りやめようとしないまことに危険性の大きい博打的なやり方で、その後も損失を続け、昭和六〇年四月ころ、約四〇億円の損失を出して商品先物取引から手を引いた。

なお、大和商事と菊池商事はいずれも商品取引員の資格を持たなかったので、永野は右取引員の資格を有する山文産業、石原産商、五菱商事を次々に買収して、これらに取引を委託して、商品先物取引を行なっていた。

4 顧客及び社員に対する内情の秘匿と契約獲得対策

永野をはじめ被告人らは、豊田商事の劣悪な財務状態などの内情を顧客に知られると、導入がストップしたうえ取り付け騒ぎが発生して倒産することを恐れ、顧客はおろか社員に対しても極力豊田商事の内情を知られないようにして導入を続けていた。

(一) クラスター昭和五八年七月号における被告人石川の発言

営業本部長の被告人石川は、社内広報誌クラスター紙上において、「五年ものファミリーは、一年ものでは出来なかったことが出来るようになる。(客は)不動産投資や証券投資を続けながらそれらを担保に金融機関より借入しても十分利鞘が稼げる。」「社員にとっても単に歩合が良いということだけでなく、五年たって満期、継続にお伺いした時、一年ものより確実に金価格が上がっているので福の神社員が来たといって喜ばれるでしょう。継続もスムーズにいくと思います。」「五年もの純金ファミリー証券は運用にも自信をつけてきた当社にとって、またひとつ大きな発展の原動力となるでしょう。」などと語り、全国の支店、営業所の社員らに対し、五年ものファミリー契約が、客にとっても社員にとっても極めて有利な商品である旨を強調して契約獲得に発破をかけた。

しかし、豊田商事の実態は、前記のとおり、導入金の運用利益はなく、自転車操業の状態が続いており、五年ものファミリー契約も償還を先送りするための苦しまぎれの商品であって、満期償還するための具体的な方策も立っていなかったのであるから、被告人石川の右発言は明らかに事実に反するものであった。

(二) 第二期分の粉飾決算書の作成

被告人藪内は、豊田商事第二期の法人税確定申告の終わった昭和五八年七月ころ、第一期に続き第二期についても粉飾決算書を作成するよう財務部次長の乙山七夫に指示した。そこで、同人は、第二期の公表決算書上、当期損失が約三〇億円となっていたので、貸借対照表の設備造作、什器備品の各科目の金額を水増しし、損益計算書の販売費及び一般管理費の金額を減額するなどして、約一九六〇万円の当期利益を計上した黒字の粉飾決算書を作成したうえ、同人らから第一期の分と同様に前記民間信用調査機関等に配付していた。

(三) 朝日新聞における被告人藪内のインタビュー発言

被告人藪内は朝日新聞のインタビューに応じ、同被告人の回答が昭和五八年八月一二日付け朝日新聞(名古屋版等)に掲載された(同年九月九日付けの朝日新聞夕刊にも掲載。)その内容は、「人件費や事務所経費は売上の一八ないし二〇パーセント、客に先払いしている運用益は一〇パーセントなので、三〇パーセント以上の利益を挙げる必要がある。しかし、海外の先物取引や不動産売買などで高い利益を挙げており、支払い不能になることはない。」「お客のほとんどに金地金の現物で返している。そうしなければお客さんが納得しない。」「常時(金地金は)二、三〇億円分は持っている。客に返した分はすぐに買い増している。昨年一年間の購入量は約八トンになった。」というものであった。

しかしながら、前記のとおり、海外事業部門は、大幅な赤字が続いており、不動産事業部門においても、大阪豊田商事の不動産事業部並びにこれが独立する形で出来た日本高原開発で、不動産の売買や仲介、建売住宅の販売等をしていたが、三重県の青山高原に取得した山林を別荘地として開発する計画が、造成規制区域で実施出来ないなど収益は上がっていなかったし、また、同年三月に継続可能率を八〇パーセントとして「継続ノルマ」を設定したことから明らかなように、以前にも増して償還を先送りする方針をとったことにより、顧客との間のトラブルが多発し、さらに、豊田商事は、ファミリー契約締結時には対象となる純金等を仕入れておらず、償還の間際に仕入れてきていたものであって、各支店、営業所で保有していた純金は、後記のとおり現物取引用以外は見本用のみで、しかも、その保有量、年間の購入量ともに被告人藪内のいう程にはなかったこと等からみて、同被告人の右発言は、明らかに事実に反するものであった。

なお、そのころ、被告人藪内の右発言を知った永野は、同被告人を叱責し、各役員に対し、今後マスコミには一切ノーコメントで通すように指示した。

5 マスコミの報道と高額賞金作戦

(一) マスコミの報道

豊田商事のファミリー商法に対しては、既に昭和五六年当時から新聞等のマスコミがこれを取り上げ、「悪徳商法」「現物まがい商法」「詐欺まがい商法」等という表現で、これを批判する報道がなされていたところ、豊田商事が昭和五八年三月、社員に「継続ノルマ」を課して発破をかけたのに伴い、顧客との間に償還拒否をめぐるトラブルが多発し、同年夏ころから豊田商事に対する民事訴訟の提起、弁護士等からの公開質問状の提出、国会での質疑、告訴等豊田商事をめぐる一連の動き等が逐一報道されるようになった。これに対し、豊田商事では、同社の記事が掲載された各地の新聞の写しを、全国の地方店舗から管理本部まで送付させ、これを本部長の被告人石松が永野に届ける等して、マスコミ報道には常に注意を払っていた。

(二) 月間ノルマ達成賞金の支給

以上のように、マスコミの批判が一段と厳しくなってきて、導入への影響が懸念される状況となった昭和五八年七月ころ、被告人石川は、社長室で永野から「マスコミに叩かれてみんなもしんどくなっているだろうから、管理職手当やノルマ達成賞金を管理職に出してやれ。」と指示を受け、管理職に対する手当及び賞金の原案を作成し、同月ころ、大阪本社貴賓室において、永野、乙野、丙野、丁月、被告人石川、同藪内、同石松、同道添が出席して開催された役員会議の席上、永野が「マスコミの批判が厳しいから、管理職手当をつけることにした。ノルマ達成賞金を改正したい。」旨発言した後、被告人石川作成の原案を討議したが、特に異論も出ず原案どおり決定した。これに基づき、同年八月五日付け営業本部通達第三号「管理職手当及び月間ノルマ達成賞金の支給について」が発出されたが、その内容は、支店、営業所の月間ノルマ達成率四〇パーセント以上を条件として、支店長・所長に月間総合売上の〇・五パーセント、部長席に同〇・二パーセント、課長席に同〇・三パーセントを「管理職手当」として給与支給日に現金支給し、さらに、支店・営業所が月間ノルマを達成した場合には、達成店の全管理職に対し、右管理職手当と同額を「月間ノルマ達成賞金」として表彰式において現金支給するというものであった。

(三) 即日賞金等の支給

前記ノルマ倍増賞金作戦や五年ものファミリー契約の実施に伴う歩合給の引き上げ等により、ファミリー契約による導入額は、昭和五八年七月に約五九億円に上昇したが、前記マスコミによる報道の影響を受け、同年八月には約四二億円に落ち込んだ。

そこで、同年八月二二日、永野、乙野、丙野、丁月、被告人石川、同藪内、同石松、同道添が出席して開かれた役員会議で、永野が「どうしても売上が伸びんから、日を限って賞金を出したらどうか。入金があったらすぐに営業マンに支給してやるようにすれば、その日暮らしの連中は喜ぶだろう。」と提案し、役員も賛成して「即日賞金」の支給をはじめ第二次特別賞金作戦を展開することを決定し、同年九月から実施した。

その主な特別賞金は、即日賞金、日割ノルマ達成賞金、継続契約特別賞金、テレフォン即日賞金、優良面談賞等で、即日賞金は、例えば、一キロ契約をとると、歩合のほかに四万円を支給するというものであり、また日割ノルマを達成したときは、支店長、営業所長、部課長席に対しては、四万円(従来の倍額)から六万円(従来の三倍)を、支社長に対しては、一〇万円(従来の倍額)から一五万円(従来の三倍)をそれぞれ支給し、支社が総合ノルマを達成すると、支店一課当り五〇万円の賞金が支給された。このようにして、例えば、甲月こと甲川一郎が大阪支社長当時の昭和六〇年三月ころ、同支社ではそのノルマを達成し、一四課あったため七〇〇万円の賞金の支給を受け、大阪ミナミの料亭で宴会を開いてこれを使用した。また同人は、支社長通達を発して、各課長席等の営業成績を個別に批評し、成績の良好なものには、「パワフル軍団」「史上最高の課長席」などと煽って、週単位で最高位の課長席にスーツ一着を贈与したりしていた。

右特別賞金実施については、大阪本社営業本部が中心となり、営業本部長であった被告人石川が、昭和五八年九月以降、賞金を出す日の朝、全国の支社長にファックスで営業本部通達を発して指令し、支社長から管内の支店長・営業所長に連絡させることとしていたが、右賞金は昭和五九年二月ころまではほぼ連日のようにかけられて、導入アップを図った。

6 五年もの白金、純銀ファミリー契約の発売

豊田商事は、五年もの純金ファミリーに準じて五年もの白金・純銀ファミリーを発売することにし、昭和五八年八月九日付け業務通達第六七号「五年ものの白金ファミリー発売について」及び同月二二日付け同通達第六九号「五年もの純銀ファミリー発売について」を発出して、いずれも同月二二日から発売することを各支店長・営業所長・総務責任者宛に通知した。

7 大阪国税局の調査と第一期及び第二期決算の見直し

昭和五八年九月五日、大阪国税局が豊田商事の税務調査に入ったことにより、豊田商事では後記のとおり第一期及び第二期決算の全面的な洗い直し作業をし、その結果、第一期の当期損失は、約八億八〇〇〇万円から約三五億円に、第二期の当期損失は、約三〇億円から約一五八億円に、当期未処理損失は約一九三億円にそれぞれ修正された。

8 銀行口座の個人名義化

豊田商事では、昭和五七年一二月二一日付業務通達第三八号により、支店等からの導入金の振込先として、第一勧業銀行梅田支店豊田商事名義の普通預金口座とする旨通知していたが、昭和五八年四月一四日付業務通達第五〇号により、導入金の振込先を同年四月一五日から大阪本社管内では第一勧業銀行梅田支店山元博美口座に、東京本社管内では第一勧業銀行昭和通り支店の道添憲男口座に変更し、また振込名義人も、絶対に豊田商事とか豊田とかを記入せず個人名を使うように指示した。これは、永野がかつて予約取引の際に、客から銀行口座の差押を受けた経験があったことから、大阪豊田商事設立のころ、同社の財務責任者となった被告人山元に、こんな商売だから客とのトラブルにより預金の差押をされる可能性があるので、売上金は個人口座に入金するよう指示していたことからも明らかなように、客からの差押をおそれての措置であった。

ところが、前記国税局の税務調査の際、被告人山元の個人名義の口座にファミリー契約の導入金を受け入れていたことについて指摘され、会社名義の口座に受け入れるように変更したが、乙山が銀行側と交渉して、午後三時の営業終了時間後直ちに会社口座から山元個人名義の口座に振り替えてもらうことにし、以後そのような形で客からの差押に備えていた。

なお、豊田商事では第一勧業銀行梅田支店の豊田商事名義の口座を「A勘」、山元博美名義の口座を「F勘」と呼んで区別していた。

9 弁護士らの公開質問状とその回答

前記朝日新聞の被告人藪内のインタビュー記事がきっかけとなって、昭和五八年一〇月六日「先物取引被害全国研究会」を中心とした全国の弁護士約二〇〇名と被害者の団体である「悪徳商法被害者対策委員会」の代表らが、豊田商事に対し、①純金等の運用先及び運用方法②契約者に支払う賃借料及び経費の調達方法③先物取引及び不動産売買に対する投資額及び損益額等九項目にわたる公開質問状を発した。豊田商事では、導入金の運用において利益を上げておらず、会社の実態を明らかにすることができなかったので、永野らが顧問弁護士と相談して検討した結果、同年一〇月一五日付けで「豊田商事は顧客との契約は完全に履行しており、約束通りの事以外の要求は一切していない。また、社会問題についても、去る昭和五七年七月六日の参院商工委員会で警察庁仲村保安課長も犯罪に該当しないと答弁している。したがって、他の質問内容については企業秘密でもあり、回答の義務はない。」旨の回答書を送った。

これに対し、右弁護士らは、同年一二月八日、仲村保安課長の答弁を曲解して引用し、回答を拒否したことを非難するとともに、不特定多数の市民から多額の金銭や金地金を預かっている会社として、その内容を公表する社会的責務があるとして再度公開質問状を発したが、豊田商事はこれを黙殺した。

10 被告人藪内の辞職申し出とその撤回

被告人藪内は、昭和五八年夏ころ、大阪本社総務部長の乙川二郎に対し、「俺はもう永野社長にはついていけん。社長は、土地の買収やら何でもかんでもパッパパッパ金を使ったり契約したりしてどうしようもない。このままやっておったら豊田はつぶれてしまう。俺はもう年をとっているからやりたいことをやるだけや。あとはどうなってもええんや。」などと言っていたが、同年一〇月ころ、永野に辞職を申し出たものの、同人から、「これからゴルフ利用権を売っていきたい。ゴルフ場の運営をやれる者は君しかいない。ゴルフ場の運営を任せるからやってほしい。」と慰留され、当時、手取りで月約二〇〇万円の役員報酬を得ていたことや既に五五歳という年齢を考えて再就職も無理だと判断し、辞意を撤回した。そして、被告人藪内は、従来の常務取締役総務本部長に加え、同年一一月一日に正式に発足した関連事業本部の本部長を兼任することになり、さらに、同月三〇日関連会社として設立された株式会社豊田ゴルフクラブの代表取締役社長に就任した(なお、右豊田ゴルフクラブは、昭和五九年一月一〇日豊田マリーンクラブに商号変更登記されたもので、同年八月二五日に設立された株式会社豊田ゴルフクラブとは別法人である。)。

11 資金繰りの悪化

豊田商事は、前記のとおり、高額賞金作戦等を実施して導入額の増大を目指したが、昭和五八年八月以降、導入額は月間三〇億円台から四〇億円台を推移する一方、五年ものファミリー契約の年一五パーセントという高額な賃借料の支払や高額な歩合給・賞金の支給による経費の増大により、資金繰りが一層悪化するに至った。

(一) 資金ミーティングの開始

そこで豊田商事財務部では、資金繰りの悪化に伴い、昭和五八年九、一〇月ころから、被告人山元、乙山、出納担当者ら財務部関係者が毎夕午後五時すぎころから集まり、出納係が作成した支払予定表やその日の入出金実績表等を資料として、支払予定順位を検討する「資金ミーティング」と呼ばれる会議を始めた。なお、この資金ミーティングは、昭和五九年四月に銀河計画株式会社が設立されてからは、同社と豊田商事の各財務担当者が出席して協議するという形で続けられた。

そして資金ミーティングで決まった支払予定は、銀河計画の丙川副本部長、乙山常務、山元専務、藪内副社長、永野会長の決裁を受けて処理していた。

(二) 業者払の遅延

豊田商事では、昭和五八年秋ころから、家賃の支払その他の業者に対する支払が遅れがちになり、以後その遅れは慢性的になっていった。

(三) 手形による社会保険料の支払

昭和五八年一一月ころ、専務の被告人山元、乙山財務部長、丙川三郎財務部次長、丁川四郎財務部係長らのいた財務部ミーティング室に呼ばれた戊川五郎(現姓丁沼)人事部次長は、右丙川から社会保険料を手形で支払うよう指示を受け、同年九月分の社会保険料約八〇〇〇万円につき手形を五通振り出して支払った。

(四) 給料支給日の繰り延べ

資金繰りの悪化は、永野が最優先で支払うよう指示していた社員給与の支給にも影響を及ぼし、昭和五八年一〇月ころには、遅配する寸前までいった。そして、同年一二月下旬ころ、被告人山元から前記戊川に対し、「資金繰りが苦しいので、給料は一五日支給を翌年一月分から二〇日支給に変更したい。」との指示があり、同年一二月二七日付け役員通達第三七号「給与支給日変更の件」により、事務処理に時間がかかることを理由に、給与支給日を昭和五九年一月から毎月二〇日に変更することを各社員に通知した。

その後も、被告人山元は、給料日近くなると償還用のインゴットを換金して資金を捻出するなどして、苦しい資金繰りが続いた。

(五) 償還遅延の指示

昭和五八年一二月ころ、永野が、管理本部長の被告人石松に対し、ファミリー契約の満期償還を全部一か月間遅らせるように指示したことにより、昭和五九年初めころから慢性的に二、三か月の償還の遅延が生じるようになった。

12 乙野らの集団退社と新役員体制

副社長の乙野二夫は、昭和五八年に入ったころから豊田商事の将来に不安を感じるようになり、このままでは豊田商事は早晩倒産し、詐欺の共犯で検挙されるに至ることを恐れ退社することを決意し、同年一二月二五、六日ころ辞表を提出し、昭和五九年一月二〇日ころから出社しなくなった(昭和五九年二月一七日退任登記)。また、取締役営業副本部長の甲原六郎ら幹部社員を含む約三〇名も、乙野に同調して昭和五八年秋ころから昭和五九年初めにかけて次々と退社していった。

そこで、永野は、社内の動揺を押さえるため、昭和五九年一月二八日の役員会議において、同年二月以降の新役員構想を発表して、被告人らの了解を得た。それによると、丙野三夫(同人は、昭和五八年一月一日に一旦取締役副社長になったが、不祥事により同年二月一日専務取締役に降格されていた。)、被告人石川、同藪内の三名を取締役副社長に昇格させ、被告人石川には営業本部及びテレフォン本部を、被告人藪内には総務本部、財務本部、関連事業本部(本部長)、海外事業本部(本部長)をそれぞれ管掌させることとし、また、被告人山元を専務取締役(財務本部長)、被告人石松を専務取締役(管理本部長)、被告人道添を常務取締役(総務本部長)に昇格させるものであった。そして、右新役員体制は、同年二月一日付け役員通達第三九号「役員会議決定通達」及び社内誌クラスターにより社内に発表された(右役員通達には取締役副社長として乙野の名前があるが、これはその時点ではまだ同人の退任登記がなされていなかったためである。)。

13 営業体制の強化と高額給与・歩合作戦

(一) 東西営業二本部体制

導入額の伸び悩みは、昭和五九年に入ってからも続いたため、永野は同年二月ころ、被告人石川に対し、「賞金作戦をやってきたが、マスコミが叩いてどうしようもない。この際、営業本部を東京と大阪に分けてそれぞれに本部長を置き、君は東京へ行って両本部を統括してもらいたい。歩合も大幅に上げよう。歩合や管理職手当などを全部見直してアップするよう調整してほしい。」と指示した。被告人石川は、東京の知人に約三二五〇万円の借金をしていたことから一旦東京勤務を断ったが、永野が会社から弁済資金を貸してやる旨約束してくれたので、右要請を受け入れた。

永野の右方針に従い、同年三月一日から、営業本部を東京、大阪に分離する体制になり、大阪本社営業本部長に乙原七郎、東京本社営業本部長に丙原七郎がそれぞれ就任し、被告人石川は東京に常駐して東西の営業本部を統括することになった。そして同被告人は、同年五月ころ会社から金を借りて、前記の借金を返済した。

(二) 管理職手当の大幅引き上げと高額給与・歩合作戦

同年二月一八日、大阪本社貴賓室において、永野、丙野及び被告人五名ら全役員が出席して豊田商事役員会議が開催され、永野が「乙野副社長が辞めて社内に動揺があるようだし、マスコミが叩いて売上が伸びない。ゴルフ場の売り込みがたくさん来ているが、買いたくても金がない。導入も継続もうんと増やさないといかん。この際社員の給料と歩合を大幅に上げてカンフル剤にしよう。五年ものとゴルフ会員権は、新規も継続も一律一五パーセントでいくことにしたい。一年ものはその半分にしよう。」と提案し、被告人石川は「それでいいと思う。さらに正社員の資格も緩和して導入額三〇〇万円以上ということにし、継続も新規導入と同じ率の歩合にしたい。」旨を述べ、被告人藪内も「営業が落ち込んだら困るから、歩合も手当も上げんとしょうがないですね。」と言って賛成した。これに対し、管理本部長の被告人石松は、歩合のない総務や管理等の内勤部門から不満が出るのではないかと思い、「少し高いのではないか。」と言ったが、永野は「そのくらいにせんと導入は殖えんぞ。」と言い、さらに丙野も「それで導入が殖えるのだから私は賛成だ。」と言い、他の役員らも豊田商事の置かれた状況を考えれば、右方法もやむをえないとして、結局、全員一致で高額給与・歩合作戦の実施を決定した。そして、被告人石川に一任して、営業本部サイドで原案を作成し、同年三月一日から実施することになった。

右役員会議の決定に基づき、昭和五九年三月一日付け業務通知第四〇号「給与改正に関する業務処理の件」、同日付け営業本部通達第四五号―一「月間ノルマ達成賞金」、同日付け営業本部通達第四五号―二「ゴルフ会員権賞金」、同日付け営業本部通達第四五号―三「個人表彰賞金」、同日付け営業本部通達第四六号「支店・営業所日割ノルマ達成賞金」、同営業本部通達の補足「日割ノルマ達成賞金」、同月六日付け営業本部通達第四八号「外勤社員の昇格基準」、同日付け営業本部通達第四九号「外勤社員の降格基準」同日付け営業本部通達第五〇号「管理職の昇格給、降格給基準」等の通知通達が発出されたが、その概要は、次の通りである。

(1) 歩合給

ア 五年ものファミリー契約の新規導入とその継続は、従来の(導入額×一・五―四百万円〈東京・横浜地区は五〇〇万円〉一〇〇万円未満切捨)×〇・〇六の算式を変更し、(導入額―四百万円〈全店共通〉円単位まで)×〇・一五の算式による歩合給を支給する。

イ 満期の到来した一年ものファミリー契約を五年ものファミリー契約に切替継続した社員には、右と同様の算式による継続歩合給を支給する。

ウ 一年ものファミリー契約の新規導入とその継続は、いずれも(導入額×〇・五―四〇〇万円〈全店共通〉円単位まで)×〇・一五で算出した歩合給を支給する。

エ ゴルフ会員権の新規導入及び継続は、五年ものファミリー契約と同様の算式による歩合給を支給する。

というものであって、ここで特徴的なことは、「継続」について新規導入と同じ歩合率がとられたことであり、会社に一円も入ってこない「継続」に高い歩合を出すということは、それだけ会社に資金がなくなって来ていることを如実に示すものであった。

(2) 給与・管理職手当

営業管理職の給与については、係長課長席五〇万円(基本給と役職手当の合計、以下同じ。)、課長三級~一級(六〇万円~八〇万円)、次長三級~一級(九〇万円~一一〇万円)、部長三級~一級(一二〇万円~一四〇万円)と従来に比べ大幅に引上げ、さらに管理職手当として、課長席については、担当営業課の総合ノルマ四〇パーセント以上達成を条件として、担当課の月間総合ゲージ(「ゲージ」とは、歩合や賞金の対象となる売上げを意味する。)の〇・六パーセントを、部長席については、支店(営業所)の総合ノルマ四〇パーセント以上達成を条件として支店(営業所)の月間総合ゲージの〇・五パーセントを、支店長(営業所長)については、部長席と同じ条件で支店(営業所)の月間総合ゲージの一パーセントをそれぞれ支給することとし、概ね従来の二倍に引上げた。また、営業社員についても、同様に引上げ、正社員は基本給三〇万円、ヘッド、主任、係長は基本給三〇万円に役職手当としてそれぞれ二万円、五万円、一〇万円を支給することとした。

(3) 賞金

ア 月間ノルマ達成賞金

支店長・所長、部課長に右管理職手当と同額を支給する。

イ 支社一位賞金

支社長経費の半額を支給する。

ウ ゴルフ会員権賞金

エ 個人表彰賞金

一位から二〇位まで、営業社員については二〇万円から六〇万円、テレフォン女子については一〇万円から三〇万円を各支給する。

オ 日割ノルマ達成賞金

(部課長席、支店長・所長各六万円、支社長一五万円)

この外に日割ノルマ達成倍率賞金として、二ないし八倍達成賞金があり、たとえば、日割ノルマの八倍を達成すると右の各一〇倍とする。

(4) 継続ノルマ

当該月の満期額の七五パーセントとし、従来四〇パーセントであったのを引上げた。

(5) 人事異動

人事の昇降格については、すべて顧客からの導入額の成績を基準とするほか、地位に応じてバッヂの色分けをしていた。

ア 外勤社員の昇格基準

見習社員→正社員(黒バッヂ)

月間の導入ゲージ三〇〇万円達成

正社員→ヘッド(黒バッヂ)

二か月導入ゲージトータル八〇〇万円以上

ヘッド→主任(赤バッヂ)

右同 一六〇〇万円以上

主任→係長(緑バッヂ)

右同 二四〇〇万円以上

係長→外勤係長(課長待遇)(金バッヂ)

右同 三二〇〇万円以上

イ 外勤社員の降格基準

正社員→見習社員

二か月導入ゲージトータル二〇〇万円以下

ヘッド→正社員

右同 四〇〇万円以下

主任→ヘッド

右同 六〇〇万円以下

係長→主任

右同 八〇〇万円以下

外勤係長(課長待遇)→係長

右同 一〇〇〇万円以下

但し、ヘッド以上係長課長待遇までの役職者で月間導入ゲージ〇のときは罰則として翌月より降格

ウ 管理職の昇降給・昇降格基準

支店長・所長、部課長席の管理職については、二か月トータル月間総合ノルマ全国平均達成率の一・五倍以上は昇級、同〇・五倍以下は降級とし、月間総合ノルマ率が一〇パーセント以下は一か月で降級とする。

その結果、管理職は自分の地位を守るためにも、部下の尻を叩いて導入の成績を上げざるを得なかった。

以上のように、豊田商事は、きびしいアメとムチの政策により導入額の増大、とくに五年ものファミリーの新規契約及び継続に力を入れた結果、五年ものファミリー契約の一五パーセントの高額歩合作戦の効果は絶大であり、導入額は、右作戦実施前の昭和五九年二月が約四七億円であったのに対し、同年三月が約五六億五〇〇〇万円、同年四月が約五八億八〇〇〇万円、同年五月が約六〇億円、同年六月が約七九億八〇〇〇万円、同年七月約八九億円と上昇した。そして、昭和五九年二月ころまでは、ファミリー契約のうち売上の八割方が一年ものであったのが、その後は、その比率が完全に逆転して五年ものの方が八割ないし九割を占めるようになった。しかし、五年ものを中心に売上が増えたということは、豊田商事にとって、五年間で七五パーセントという極めて高額の賃借料を支払ったうえ、満期償還しなければならない債務が増えたということにほかならないが、被告人らは、これに対処すべき具体的かつ合理的な償還計画は全く持ち合わせていなかった。

また、一年ものファミリーから五年ものファミリーへの継続についても、従前と異なり一五パーセントもの歩合給を支給することにしたため、一部営業マンが強引にこのような継続に持ってゆく傾向があり、そのため以前にも増して顧客ともトラブルが多発し、その結果マスコミ等の批判をさらに招くことになった。

14 金銭償還条項の削除

被告人らは、ファミリー契約約款第一〇条の金銭償還条項が出資の受入れ、預り金及び金利等の取締り関する法律(以下、「出資法」という。)の違反に問われる恐れがあるとの顧問弁護士の指摘により、同年三月五日、同条を削除する旨の業務通達第九二号を発出し、各支店・営業所に周知徹底した。

15 ゴルフ会員権の企画立案と発売(割引方式とシステムⅠ)

永野は、豊田商事が巨額の満期償還債務を抱えながら、これを返済するための運用計画もなかったうえ、昭和五八年夏ころから激しくなったマスコミによるファミリー商法に対する批判を受けて、そのころから、周囲の者に「いずれファミリーはやめないかん。マスコミに叩かれないような正業といわれる事業をやりたい。」との意向をもらすようになっていたが、同年一二月ころ、大阪本社秘書室長兼関連事業本部副本部長の乙川二郎に対し、「ファミリーはマスコミが叩くし、いつまでもやれない。ゴルフの会員権販売に切り替えたいので、割引方式の会員権システムを考えてくれ。」と指示したので、乙川二郎は、昭和五九年一月に「割引方式」と呼ばれるシステム(「旧システム」とも称していた。)を考案したが、これは、豊田商事が経営するゴルフ場の一般会員権(正会員の場合一〇〇万円)を購入した顧客は、特別会員権を三分の一の価格で購入することができ、特別会員権を購入した顧客に対しては、一〇年後に三倍の価格で払い戻すというものであり、昭和五九年一月一八日付け営業本部通達第三八号「ゴルフ会員権発売の件」により、同年四月オープン予定の札幌栗山コースにつき(当時、使えるのはこのコースのみであった。)、同年二月一日からゴルフ会員権を発売し、契約をとった社員には、契約の種類に応じて賞金を支給することなどを各支店長・営業所長らに通知し、発売を開始したが、ほとんど売れず、同年二月中旬ころ、営業サイドから、右「割引方式」では売りにくいからファミリー契約の様に賃借料や利息でも払えるような形にならないかと言ってきていることや顧問弁護士から割引方式は出資法に抵触するおそれがあると指摘を受けたことなどを理由に、発売を中止することとした。

そして永野から右乙川二郎に対し、それに代わるものとしてファミリー契約と同様のシステムでゴルフ会員権を販売し、そのゴルフ施設利用権を豊田商事が賃借料を支払って購入者から預託を受ける方式にするが、借りっぱなしでは辻褄が合わなくなるので、その利用権をプレーヤーに賃貸するシステムを考えるよう指示した。そこで、乙川は、右指示に沿った新しいシステムを考案し、同年三月から始まった顧問弁護士会議等で顧問弁護士に法的問題点を検討してもらった結果、会員権を一〇年後に会社が買取ることを約束するのは、元本保証と同じで出資法違反のおそれがあるから、責任をもって売買の斡旋をするというような形が良いとの指摘を受け、修正を施したうえ、「システムⅠ」と称するゴルフ会員権を同年四月一日ころから販売することにし、同年三月二三日開催の総務責任者会議において、永野が右システムの説明をしたうえ、被告人石川らとともに各支社長、支店長、総務責任者らに販売を指示した。なお、この「システムⅠ」が、割引方式と異なる主な点は、預託金制から権利の賃借に変更し、一〇年後の返済に代えて、売買の斡旋とすること、「オーナーズ契約」(会員権を購入した顧客から、会社が年間、額面額の一二パーセントの賃借料を支払って一〇年間ゴルフ場の施設利用権を賃借するという契約)及び「マスターズ契約」(会員権を二回から三六回の割賦販売により購入した顧客が、分割払いの期間中金利の代わりとして年間一二パーセントの賃借料を支払ってプレーすることができるいう契約)の新設などであった。なお「新ゴルフシステムⅠ」と題する綴には、「オーナーズ契約は、ファミリー契約の一〇年もの類似の契約である。」との記載があるが、元本償還を伴わなくなったところが、ファミリー契約とは異なっていた。

そして、以上のようなファミリー契約からゴルフ会員権への転機を図る構想は、そのころ豊田商事の役員会議等において発表されたが、被告人らとしても、当時売上を急激に伸ばしていたベルギーダイヤモンドを除けば、ほとんどの関連会社が赤字で期待が持てず、償還計画も立っていなかったこと、マスコミや弁護士からの追及が激しさを増していたうえ、支店展開も限界が近付きファミリー契約をいつまでも続けられる情勢ではなくなってきていることを認識していたことから、右永野の構想に賛成し、ゴルフ会員権の発売を推進していくことになった。

16 ペーパー会社の設立と関連会社の状況

(一) ペーパー会社の設立

昭和五八年一二月ころ、永野は、前記乙川二郎に対し、「マスコミが叩くし、弁護士も導入金の運用いかんでは詐欺になると言ってるから、導入金を運用する会社を作る必要がある。どんな事業をするかは後の問題でいいから、俺がいう社名の会社を作ってくれ。事業目的は社名のイメージで適当に決め、役員は豊田商事の役員や部課長の名前を使えばいい。資本金はみんな一〇〇万円でいい。そして、東京と大阪には実際に動く会社を置くから、それ以外の土地に置け。」と指示し、その場で二四の会社名を書き上げたが、さらに、そのころ、乙川二郎に対し、右の会社名を豊田商事のパンフレットにのせるよう指示した。

そこで、乙川は、その後、永野が実働させるから外すように指示した豊田住宅株式会社、豊田貿易株式会社、豊田信販株式会社の三社を除いた二一のペーパー会社につき、昭和五九年二月から三月にかけて、札幌、仙台、広島、福岡などに本店所在地を振り分けてその設立手続きをとった。

そして、豊田商事では、これらの会社名を同社のパンフレットに記載して支店等に置き、来社した客に見せていた。

(二) 第三期に設立・買収した関連会社の状況

第三期においては、関連会社として、昭和五八年四月一三日にトヨタハウス工業株式会社(後に豊田住宅に商号変更)を、同年六月二〇日に株式会社ジャパンファイナンスを、同年一一月二八日にベルギー貿易株式会社を、同月三〇日に豊田ゴルフクラブ(後に豊田マリーンクラブに商号変更)を、同年一二月八日に白馬高原開発株式会社を、同月二〇日に瀬戸内海牧場株式会社を各設立し、その後前記のペーパー会社を設立したが、稼働の関連会社は殆ど赤字であった。

(三) ベルギーダイヤモンドの状況

大阪市南区船場に本店を置き、ベルギー製ダイヤモンドの裸石の会員制システム販売を行っていたベルギーダイヤモンドは、昭和五八年一〇月ころ、豊田商事の専務取締役であった丙野三夫が常駐して経営全般を統括するようになって売上が伸び、昭和五九年三月の売上高は、約二六億円で、経常利益は約三億五〇〇〇万円となったが、同年三月期の第二期決算では、当期損失約四億八〇〇〇万円、当期未処理損失約五億円を計上した。

右販売システムは、同社の常務であった甲畠一雄、コンサルタント乙畠二雄らが考案したものであって、「三〇万円以上のダイヤモンドを買って会員になればもうかる。三名以上を紹介すれば会員のランクが上がり、販売媒介手数料がもらえる。」等と客に申し向けて勧誘し、ベルギー製ダイヤの販売形態をとりながら、客を会員にしてさらに客を紹介させ、子孫会員がネズミ算式にふやすもので、購入者の紹介数や販売額に比例して会員にランク付けをし、販売額の一五ないし四七パーセントの販売媒介手数料(コミッション)を支給するというものであり、いわゆるネズミ講的色彩の強いものであった。

そして、被告人らは、これらの関連会社の経営状況については、関連会社報告会やそこで提出される月次報告書等により十分認識していた。

17 銀河計画の設立構想

永野一男は、今後もさらに豊田商事の資金をつぎ込んで関連会社をふやしてゆくため、これを統括する組織を作る必要が出てきたことや、豊田商事に対するマスコミや捜査機関からの追及をかわすため、豊田商事を含めた関連会社を統括する会社の設立を考案し、昭和五九年三月ころ、前記乙川二郎に対し、「これからどんどん会社をふやして豊田商事の資金をつぎ込んでいくが、グループ全体をまとめる会社が必要だ。社名は銀河計画にしようと思う。資本金は五〇〇〇万円で、役員は豊田商事の役員全員を入れ、代表取締役は丙野にしておけ、俺は世間の怨みを買ってるからはずせ。」と指示した。

そして、同年三月下旬、大阪本社貴賓室で開催された役員会議において、右構想は承認された。

18 第三期決算

第三期の決算報告書を添付した確定申告書は、永野と被告人山元が閲覧したうえで、昭和五九年六月三〇日、大阪の北税務署に提出された。右決算報告書によれば、当期未処理損失は約四一七億円となっていたが、後記のとおり数か所の誤りがあった。なお、被告人藪内は、エバーウェルシー台湾で不正を行っていたことが判明して当時永野の信頼を失っており、同人の指示により、右決算報告書は見せられなかったが、決算の途中で乙山が被告人藪内から様子を聞かれるたびに報告していたので、同被告人も、その内容を認識し得た。

五  第四期(昭和五九年四月~昭和六〇年三月)

1 銀河計画の設立とその後の運営状況

(一) 銀河計画の組織、運営体制

このようにして、昭和五九年四月一四日、本店を大阪市北区梅田一丁目一番三号大阪駅前第三ビルに置き、資本金五〇〇〇万円で、銀河計画株式会社が設立され、代表取締役社長に丙野三夫、取締役副社長に被告人藪内、同石川、専務取締役に被告人山元、同石松、常務取締役に被告人道添、取締役に乙川二郎、監査役に丁原九郎がそれぞれ就任した。永野一男は、銀河計画設立の主目的が、前記の通り、豊田商事に対するマスコミや捜査機関からの追及をかわすところにあり、社会的な批判の矢面に立っていた自分を表面に出すことはまずいという配慮から、表向き役員には就任しなかったが、銀河計画の持株会社として設立した白道株式会社の代表取締役に就任することによって、実質的には同人が銀河計画の経営全般を統括し、以後「会長」と呼称されるようになった。

被告人らはいずれも銀河計画の役員に就任した後も、引き続き豊田商事の役員を兼務して、従来通りの職務を担当し、被告人石川は営業部門を、被告人藪内は総務、財務部門を、被告人山元は財務部門を、被告人石松は管理部門を、被告人道添は総務、業務部門をそれぞれ担当して永野を補佐していた。なお、被告人道添は、昭和五九年六月三〇日付けで豊田商事の、同年七月一日付けで銀河計画のそれぞれ専務取締役に昇格した。

銀河計画の組織は、役員会議の下に経営指導(企画)部門(責任者乙川二郎)と財務管理部門(責任者乙山七夫)があり、前者は、新会社の設立、新事業の企画等、後者は、関連会社への資金貸付け、財務指導、財務調査、決算指導等を行っていた。

(二) 銀河計画の役割とグループ統制状況等

銀河計画は、豊田商事を含む全関連会社を統括する会社として位置付けられ、全関連会社の経営に関する重要事項はすべて、永野、丙野及び被告人らで構成する銀河計画の役員会議で決定されることとなり、これがそれまでの豊田商事役員会議に代わる豊田商事グループ全体の最高意思決定機関となった。さらに、豊田商事が主宰していた関連会社報告会も昭和五九年六月ころから銀河計画が主宰し、被告人らが銀河計画の役員としてこれに出席して、関連会社の経営、財務内容の把握や経営指導を行うようになった。なお、海外事業部会議は、同年六月に設立された株式会社エバーウェルシー・インターナショナルが関連会社報告会に出席するようになり、行われなくなった。

また、同年三月からほぼ月一回、豊田商事東京本社で開催されていた顧問弁護士会議も銀河計画が主宰することとなったが、右会議は、戊原十郎、甲谷一男、乙谷二男らの顧問弁護士、永野一男及び被告人ら銀河計画の主要役員で構成され、豊田商事のファミリー商法のみならず、関連会社であるベルギーダイヤモンドのシステム販売あるいは鹿島商事株式会社のゴルフ会員権販売などグループ全体の法的な問題点を討議するようになっていた。なお、被告人山元は、大阪本社の留守番役として残り、代りに乙山七夫を右会議に出席させていた。

そして、顧問弁護士らは、ファミリー契約が詐欺になるかどうかの点については、導入金を運用して、顧客に対し約束どおり償還すれば詐欺にならない旨、豊田商事の役員らに回答していた。

ところで、銀河計画設立以前は、関連会社への運営資金の貸付けは、豊田商事の財務部門を通じて行われていたが、銀河計画が実質活動を始めた同年五月以降は、豊田商事がファミリー商法によって導入した資金のほか、主要関連会社で現金収入のあるベルギーダイヤモンドや後述するゴルフ会員権の販売会社である鹿島商事から銀河計画が資金を吸い上げて集中管理し(豊田商事に対しては「借入金」として処理し、ベルギーダイヤモンド及び鹿島商事には貸付金が多額にあったので「貸付金の返済」として処理した。)、各関連会社からの資金繰表・支払予定表(毎月)、資金申請書(毎週)等に基づく運営資金の申請、稟議書に基づく新店舗設置等の特別資金の申請を銀河計画の財務部門で受理して、決裁に回し(決裁は、通常被告人藪内までで処理され、場合により永野までいくこともあった。)、それらをもとに毎夕行われる銀河計画と豊田商事の各財務部門担当者の「資金ミーティング」によって、支払額や支払の優先順位などの調整をして最終的に被告人山元、同藪内、永野が決定し、銀河計画においてこれを各関連会社に貸し付けるという体制となった。そして、特に同年六月ころ以降は、豊田商事のファミリー商法の行き詰まりを打開するため、後述するゴルフ共通会員権販売のためのゴルフ場買収資金に巨費を投下していくようになった。

銀河計画の営業収益は、関連会社のうちベルギーダイヤモンドや株式会社豊田ゴルフクラブ等から、収益状況を勘案して月利〇・五パーセントないし二パーセントの割合で徴収することとしていた貸付利息並びに豊田商事、ベルギーダイヤモンド、鹿島商事、豊田ゴルフクラブ及び日本高原開発の五社から売上の一ないし三パーセントの割合(但し、日本高原開発は定額)で徴収することとしていた経営コンサルタント料収入のみであったが、昭和六〇年三月期に貸付利息及びコンサルタント収入として計上した約四七億円のうち約二六億円が未収であった。

以上のように、銀河計画は、新たに収益を生み出す会社ではなく(前記の貸付利息やコンサルタント収入は、関連会社から入ってくるものでグループ内での内部的な収入にすぎない。)、財政的な面からみれば、経費を使う分だけ豊田商事グループにとってはマイナスであり、このことからも銀河計画設立の狙いが、関連会社に投資して収益を上げているように装ってマスコミや捜査機関からの追及を免れるためにあることが看取できた。したがって、被告人らの間でも、銀河計画の設立は無駄であるとの考えが強く、被告人石川や同道添らは、「銀河計画なんて後からできて何が親会社だ。豊田グループはあくまで豊田商事が親会社だ。」などと陰で文句を言ったり、昭和五九年八月三〇日開催の銀河計画の役員会議で、被告人石川が、鹿島商事の店舗の開設が遅れていることに関連して、「銀河計画は一体何をしているんですか。こんなことなら銀河計画は必要ないんじゃないですか。豊田商事を中心にして各会社を見ていけばいいのではないか。」などと発言したりしていた。

2 永野のファミリー契約廃止の提案と被告人らの反対

永野は、かねがね、側近に「豊田商事は、もはや俺の力ではどうすることも出来ない手の届かないところまで来てしまった。最終的には潰すしか方法がない。」などともらしており、また、ファミリー契約をやめてゴルフ会員権に切り替えたい意向を折りに触れ口にするようになっていたが、同年五月二九日ころの銀河計画役員会議において、「ファミリーを昭和六〇年三月ころまでにはやめて、ゴルフ会員権でやっていこうと思う。ゴルフやマリーンの会員権はカネを返さんでええからな。」とファミリー契約廃止の意向を明らかにした。被告人らは、永野がファミリー契約による自転車操業ももはや限界に近付いたという情勢認識のうえに立ち、ファミリー商法に見切りをつけてゴルフやマリーン等のレジャー会員権に活路を見出す考えでいることを改めて認識するに至ったが、しかし、ゴルフやマリーンの会員権を販売するとはいっても、そのための施設の建設や買収に莫大な費用がかかり、ここでファミリー契約を廃止すればたちまち倒産することは被告人らも十分認識していたから、右会議において、被告人石川は「ファミリーを急にやめるのは危険ですよ。」と反対し、被告人藪内も同様に「ファミリーをやめるということはできませんよ。」と強く反対し、他の役員も同意見であったため、豊田商事においてファミリー商法をさらに継続してゆくことになった。

なお、昭和五九年七月九日の豊田商事の部課長会議において、豊田商事の店舗は六一店で終了する旨の発表があったが、これも支店展開が限界に近付いたことを示すものであった。

3 全国共通ゴルフ会員権の発売

(一) 全国共通会員権販売システム(システムⅡ)

永野は、従前から豊田商事グループ傘下のゴルフ場の数を殖やして全国共通の会員権を発売する意向を示していたことから、乙川二郎は、昭和五九年三月下旬ころから永野の右意向に沿った新企画の検討に入り、顧問弁護士とも相談のうえ、「システムⅡ」と称する新システムを考案して、同年五月中旬ころ、永野及び豊田ゴルフクラブの社長である被告人藪内の了解を得た。右システムの主な改正点は、豊田商事グループの保有する全ゴルフコースの共通施設利用権(共通会員権)を販売対象としたことのほか大口会員権を加えたこと等であった。そして、同年五月一五日付け営業本部通達第五三号により、札幌栗山コースの会員権(システムⅠ)販売を停止し、同年六月一日から全国共通会員権(システムⅡ)として発売することを各支店長、所長等に通知した。しかし、その当時使用できたのは、札幌栗山、旭川ひばりケ丘の二コースのみであった。

ところで、右ゴルフ会員券は、豊田商事グループの保有する各ゴルフコースの経営主体会社と位置付けられた豊田ゴルフクラブ(昭和五九年八月二五日設立、代表取締役社長被告人藪内)が発行し、同社は、鹿島商事(昭和五九年八月一〇日設立、代表取締役社長丙谷三男)が法人として設立される前の同年五月三一日付けで、鹿島商事との間でゴルフ会員権委託販売契約を締結し、これにより鹿島商事が、ゴルフ会員券の販売、オーナーズ契約及びマスターズ契約の代行並びにそれに附随する業務を行うことにし、その業務委託手数料として、豊田ゴルフクラブが鹿島商事に売上高の四〇パーセントを支払い、また、オーナーズ契約の賃借料は、豊田ゴルフクラブの負担とし、鹿島商事がその支払業務を代行すること等が定められた。

(二) ゴルフ場の買収状況と経営状態

右のように、全国共通会員権としてゴルフ会員権を販売していくためには、ゴルフ場の確保が急務であり、永野は、役員会議等で当面三〇コースを目標とし、行く行くは一〇〇コースを目指す旨発言して積極的にゴルフ場の買収に乗り出したが、ゴルフ場の買収は、永野が自ら行ったほか、被告人藪内、日本高原開発社長の丁谷四男、銀河計画秘書室の戊谷五男らが担当した。

ところで、経営状態が良好なゴルフ場は売りに出されるはずもなく、売りに出されるゴルフ場は、経営難で立地条件も悪いうえ、会員数が多くしかも預託金の返還時期が到来しているかあるいは到来間近のもの等しかなかったが、豊田商事グループの買収方法は、事前にゴルフ場の営業成績や財務内容を調査してから買収するというのではなく、事前にほとんど調査もしないで、契約を締結してから本格的な調査を行うという杜撰なものであり、しかも、ゴルフ場経営についての具体的な事業計画の策定もないまま、とにかく数さえそろえればいいという場当り的なやり方であった。このことは、永野が、右丁谷に、ゴルフ場買収の方針として「ゴルフ場は少々高くてもいいから、長期分割支払が可能で、しかも、営業権がすぐに手に入るところであれば、どこでもいいから買収してくれ。」と言ったり、パリのゴルフコースを買うことになった昭和五九年一〇月ころの役員会議か関連会社報告会で、被告人石川が永野に、「海外のコースを買っても人が行きません。国内で買うことを考えてください。それに買うのなら完成品を買ってください。どのコースも金をかけて手を入れないと使いものにならないのでは困ります。ゴルフ場が足許にないのに、共通会員権といっても鹿島商事としては売れませんよ。」と言ったところ、永野は、「数をそろえるのが目的や。海外のコースがあると、客に恰好がええ。会員権の売上に響いてくる。買うてくれというコースはなんぼでもあるが金がない。だから営業は頑張って会員権を売ってくれ。豊田商事も頑張ってファミリーを売ってくれ。」等と言っていたことからも窺えるところであった。

そして、豊田商事及び豊田ゴルフクラブ等が、昭和六〇年七月に破産するまでの間に買収したゴルフ場のコース名、所在地、買収契約内容、代金支払状況等は、別表六のとおりであり(買収契約は、ほとんど銀河計画設立以降の昭和五九年六月から昭和六〇年六月までの間に集中している。)、契約不成立になった二件を除き一七コースである。このうち昭和五九年中にゴルフ場としての営業を始めていたのは、国内では札幌栗山、旭川ひばりケ丘、岡山湯の郷の三コース、国外ではグアム、サイパンの二コースであり、豊田商事の破産宣告までに営業を開始したのは、洞爺湖レイクサイド、福岡イーグル、旭川白樺国際を加えた計八コースであった。

右買収にかかる一七コースの契約額、支払済金額、未払額は、次のとおりである。

国内一三コース及びハワイオロマナコース

(契約額) 約三四九億円

(支払済金額) 約六三億円

(未払額) 約二八六億円

グアムコース

(契約額) 四〇〇万USドル約九億円

(支払済金額) 二六〇万USドル約六億円

(未払額) 一四〇万USドル約三億円

サイパンコース(賃借)

(契約額) 賃料・年一二万USドル約〇・三億円

(支払済金額) 六〇万USドル(五年分先払)約一・五億円

パリ・セランクールコース

(契約額) 四四〇〇万フラン約一一億円

(支払済金額) 一六〇〇万フラン約四億円

(未払額) 二八〇〇万フラン約七億円

右のうち、全額支払済のコースは、札幌栗山、旭川ひばりケ丘、旭川白樺国際カントリーの三コースのみで、全体の支払済金額は約七五億円、未払額は約二九六億円であって、全契約額の約五分の一が支払われているにすぎず、未払分は、一コースにつき毎月額面一億円ないし二億円程度の関連会社である日本高原開発株式会社等振出にかかる約束手形で分割支払いをしていくというものであった。そして右買収資金は、銀河計画において豊田商事のファミリー商法による導入金を吸い上げて捻出するしか方法はなく、豊田商事の破産までの銀河計画から豊田ゴルフクラブ等ゴルフ関係関連会社へ流出したゴルフ場買収・運営資金の合計は約八五億円という巨額に達していた。

しかし、買収したコースは、北海道、東北地方等東京などからの遠隔地にあるコースや海外コースであったり、既に多数の会員がおり、その預託金の償還時期が到来しているか到来間近のものであったり、多額の債務を抱え、コース上の抵当権が設定されている等の条件の悪いゴルフ場であったために手放されたもので、いずれも資産価値に乏しいうえ、北海道地区のコースは降雪によるクローズ期間が長いこと等もあって、ゴルフ場として収益力のあるものはほとんどなかったにもかかわらず、豊田商事は、数をそろえるため実勢よりはるかに高い価格で急いで買収していたものである。

なお、営業を開始した前記八コースは、いずれも赤字経営であり、将来的にも好転する見込みはなかったが、このことは、被告人藪内が各ゴルフ場の責任者らに、「赤字ばかりでどうするんや。コース改良費も銀河計画で出せる間は出してやるから、販売促進をして、もっと客に来てもらえるようにせんか。」と言って発破をかけたり、また、銀河計画の関連会社報告会において、ほとんどの役員がゴルフ場の営業成績が悪いことを指摘して叱責する等していたことからみても、被告人らは十分認識していたところである。

買収したゴルフ場の主なものについて、その買収状況や営業状態をみてみると、

(1) 札幌栗山コースは、約一四〇〇人の会員預託金八億円弱が支払えないので手放されたもので、二億円で買収し、さらに約二億円を投じて改修した。このコースは、冬季に降雪のため閉鎖せざるを得ず、昭和六〇年三月期の当期利益は約一七〇〇万円であったが、前記繰越損失が約一億二〇〇〇万円であり、当期未処理損失は約一億円であった。

(2) 旭川ひばりケ丘コースは、男山カントリーとして営業していたが、赤字続きのため手放され、五億五千万円で買収し、設備に一億円余を投入した。預託会員数約一三〇〇人、預託金約九億円で、昭和六〇年六月現在で合計約一億九〇〇〇万円の償還請求があった。このコースも冬季に降雪のため閉鎖せざるを得ず、しかもベルギーダイヤモンドの物品税滞納に関し、数次にわたり抵当権が設定され、その設定総額は一八億円を上回っていた。なお、昭和六〇年三月期で当期利益約三〇〇〇万円を計上しているが、前期繰越損失が約二億八〇〇〇万円であり、当期未処理損失は約二億五〇〇〇万円であった。

(3) グアムウインドワールヒルズコースとサイパンウイスパリングパームスコースは、いずれも収益性の乏しいコースで、サイパンコースは九ホールしかなかった。しかも、グアムコースについては、約一四〇万ドルの抵当債務を引受けるという約定になっていた。

(4) 富士御殿場(東名小山)コースは、造成中で、昭和六〇年一月ころで三、四割の進捗状況であり、オープンまでなお二年位かかるもので、しかもこれまで何回も倒産して経営者が代わっているうえ、経営者が代わる毎に会員を募集しているので、会員数は一万人以上おり、アップダウンのきついCランクのコースであること等問題点の多いコースであったが、東京から比較的近いところにもぜひコースを持ちたいためあえて買収した。そこで、昭和五九年一二月当時における丁谷四男の査定価格は、約九六億円であったが、実際の買収価格五〇億円に預託金償還債務約一八〇億円を加えると、極めて高い価格で買収していた。

(5) 山形蔵王コースは、豪雪地帯にあって岩が多く、到底採算がとれないコースであったが、被告人藪内がすすめて七億円で買収した。買収後、コース維持のためセルフ方式で細々とプレーを受付ていたが、コース内に他人の土地が入っており、また一〇年近く閉鎖されていたため、本格的に営業を開始するには、改修に相当の費用を要するコースであった。

(6) 千葉成田コースは、造成中であり、預託会員は一万人以上おり、昭和五九年一二月当時における丁谷の査定価格は、約一〇四億円であったが、実際の買収価格六〇億円に預託金返還債務約一三〇億円を加えると、極めて高い買収価格であった。なお、右コースの造成工事を請負った業者が工事代金全額を同コースのゴルフ会員権によって取得し、これを売り出していたことから、銀河計画の方で買収してゴルフ会員権を売り出すのと競合するため、二年間は営業しないという約束がなされていた。なお、永野は、このようなデメリットの多い千葉成田コースの契約をするには、その前に被告人藪内と同石川を納得させないと自分の立場がなくなる旨関係者に語っていた。

(7) 岡山湯の郷コースは、コース自体は比較的良かったものの、預託会員が約八〇〇〇人、預託金が約四七億円でその償還期が昭和六〇年四月から始まること、ゴルフ場は約三二億円の担保に入っていたこと等を考えると、約四三億円で買収するのは採算のとれるものではなかった(ちなみに、昭和五九年一二月当時における右丁谷の査定価格は、約六六億円であった。)。

(8) 洞爺湖レイクサイドコースは、雪や霧のためクローズが多く、事前に調査した戊谷五男は、消極的な意見を述べたが、被告人藪内が一三億円で買収した。昭和五九年四月一日から同年一二月三一日までの当期損失は約四〇〇〇万円で当期未処理損失は約四億七〇〇〇万円であった。

(9) 福岡イーグルカントリークラブは、営業中であったが、コースが短くてせまく丁谷の評価ではCクラスで、預託会員数約二〇〇〇人、預託金約七億七〇〇〇万円であったが、株式譲渡の形で一八億円で買収した。現金三億円のほか手形で一五億円を支払い、月一億円の金利を決済することになっていた。なお、買収した昭和六〇年四月期の当期利益は約四〇〇万円であったが、前期繰越損失が約一億七〇〇〇万円あった。

(10) 仙台グリーンクラブは、前記丁谷が調査したところ、Cクラスの評価であった。なお、昭和五九年一月一日から同年一二月三一日までの当期利益は約六〇〇〇万円で、前期繰越損失が約二億三〇〇〇万円であったことから、当期未処理損失は約一億七〇〇〇万円であった。

(11) ニセコカントリークラブについては、丁谷は北海道には既に札幌と旭川ひばりケ丘の二つのゴルフ場があるので、必要はない旨永野に報告したが、コース数をふやすため結局買収したものである。なお、昭和五九年一月一日から同年一二月三一日までの当期損失は約一七〇〇万円、前期繰越損失が約五億四〇〇〇万円であるので、当期未処理損失は約五億六〇〇〇万円であった。

(12) 旭川白樺コースは、預託会員数約六〇〇〇人、預託金約九億九〇〇〇万円であり、また、総額約五億八〇〇〇万円の担保権が設定されていた。なお、昭和五九年一月一日から同年一二月三一日までの当期利益は約二四〇〇万円で、当期未処理損失は約二億円であった。

(三) 豊田ゴルフクラブ及び鹿島商事の運営状況

ゴルフ場の経営主体会社である豊田ゴルフクラブは被告人藪内が統括し、ゴルフ会員権の販売会社である鹿島商事は被告人石川が統括しており、鹿島商事の営業に関しては、毎日の営業成績はもとより、銀河計画に提出する稟議書や社員の昇格、降格等を含む人事異動はすべて、被告人石川の決裁を受けていた。

そして、右両社とも、営業方針、人員体制、支店運営等は、すべて銀河計画の指導監督のもとに行われており、財務部門についても銀河計画の財務本部と直結していた。すなわち、豊田ゴルフクラブには、会員権の売上状況について、鹿島商事から毎日、銀河計画所定の「ゴルフ会員権発行日報」並びに「オーナーズ契約一覧表」がファックスで送られ、この他、毎月、月次の精算表である「会員権受託販売精算表」がファックスで送られてきていた。また、各ゴルフ場の売上状況については、毎日、各ゴルフ場から豊田ゴルフクラブへ銀河計画所定の「フロント日報」がファックスで送られ、また、毎月、月次の「営業損益報告書」がファックスで送られてきていた。そして豊田ゴルフクラブの財務部では、前記の各ゴルフ場及び鹿島商事からの報告に基づいて、「月次報告書」並びに月次の「試算表」を作成し、銀河計画へファックスで送付し、その他に、豊田ゴルフクラブ本社の金銭出納帳に基づき作成した「現金・預金出納日計表」、豊田ゴルフクラブ本社の振替伝票や業者からの請求書等に基づいて作成した「資金繰表・支払予定表」をファックスで銀河計画財務部へ送付していた。また、毎月一回銀河計画会議室で開催される関連会社報告会においても、各ゴルフ場の経営状況につき、月次報告書に基づいて報告していた。

一方、鹿島商事も、「現金・預金出納日計表」、「資金実績表」、「資金予定表」等を作成して、ファックスで銀河計画財務本部に送付し、銀河計画の資金ミーティングで決まった支払順位の指示等を受けており、また、関連会社報告会において月次報告書に基づき会員権の売上状況につき報告していた。

そして、ゴルフ会員権の販売代金については、銀河計画から鹿島商事への送金要請により、借入金の返済という形で銀河計画に送金しており、逆に鹿島商事の方で資金不足が生じると銀河計画に要請して送金してもらっていた。なお、豊田ゴルフクラブの収入となるはずの売上高の六〇パーセントは、現実には豊田ゴルフクラブへ入金されず、帳簿上の経理処理をしていただけであったから、豊田ゴルフクラブにおいて必要な資金は、すべて毎月銀河計画に資金申請書又は稟議書を提出して貸付けを受けていた。また、各ゴルフ場の経営については、各ゴルフ場の収入で経費を賄い、不足が生じたときは、豊田ゴルフクラブを通じて銀河計画から借入をしていた(この場合は、銀河計画が豊田ゴルフクラブへ貸付け、豊田ゴルフクラブがさらに各ゴルフ場に貸付けるという経理処理をしていた。)。

(四) 鹿島商事の会員権販売状況

(1) セールストークの実態

ゴルフ会員権の販売は、ファミリー契約という預り金商法から脱却するために始めた筈のものであったが、「売り切り」では、施設の利用権が対象なので、専ら利殖目的の老人や主婦には売りにくく、売上げが大幅に激減することが目に見えていたので、ゴルフ会員権販売の最高責任者であった被告人石川は、会員権の販売実績をあげるためには、年間一二パーセントの賃借料を支払う投資向けの「オーナーズ契約」を販売していく必要があり、実際にゴルフ場でプレーをする人のためのマスターズ契約は売れないことは予め予想しており、昭和五九年五月三〇日ころ、乙川二郎が、鹿島商事の社長予定者の丙谷三男ら幹部に、マスターズ契約の説明をしようとしたところ、被告人石川が「マスターズ契約については営業上問題があり説明する必要はない。鹿島商事はオーナーズ契約によって売上を伸ばし、どれだけ導入できるかが問題だ。」と述べ、専らオーナーズ契約により会員権を販売していく意向を示した。

しかしながら、オーナーズ契約を締結すれば、これに伴う賃借料の原資がないので、早晩行き詰まることは明らかであった。のみならず、このような会員権販売による売上げは、多額の経費や新たなコースの買収費等に費やされて、ファミリー契約の償還にまで回せないことは、役員会議や関連会社報告会を通じて、被告人ら役員には十分認識できた。

そして、銀河計画では、鹿島商事の幹部らに、セールストーク等の営業方法について指示説明し、営業社員用の手引を配付したが、右資料には、「五時間トークが鹿島商事の基本トーク時間である。」、「会員権の三大利点として、①いつでも売れる=現金と同じ②税金がかからない③値上りが大である旨説明する。」、「オーナーズ契約については、一二パーセントの賃借料の話をし、これを金利として置きかえてみると、今までの会員権と比べ非常にメリットの高いものであると話をし、銀行定期、国債等他の投資との比較もする。」等と記載されていた。

さらに、昭和五九年七月初めころの鹿島商事の支店長会議の席上、被告人石川が、営業方針を発表し、ノルマ制、歩合給及び賞金制の採用、表彰制度の説明、ノルマ算定の基礎となる売上高の計算方法は、純増方式を採用すること(なお、その後、昭和五九年八月二五日付け総務通達第四号により、同年八月より純増方式を廃止し、会員権販売代金額により算出する旨通知された。)等を述べるとともに、勧誘方法について、「テレフォン嬢が電話をかける時間帯(午前一〇時ころから午後三時ころまで)に、自宅にいる人は、自由業の人か主婦または年寄りが多く、実際にゴルフをする人が家にいることは少ないから、ゴルフのプレーの話より会員権がいかに投資に向いているかという点に重点を置いて勧誘せよ。」と指示した。

このようにして、鹿島商事の営業社員に周知徹底された同社の営業方針は、豊田商事のファミリー商法とほとんど同様であり、まず、テレフォン嬢が電話帳によって無差別に電話をし、豊田ゴルフクラブのゴルフ会員権がいかに投資に向いているかという点に重点を置いて話しをするとともに、年齢、家族構成、収入等を聞き出して面談用紙にその要旨を記載するが、このうち、老人であること、一人暮らしもしくは小家族であること、一戸建住宅に居住していること等の条件の良いものを「A面談」と称していた。そして、営業マンがこの面談用紙の写しを持って顧客方を訪問し、いつでも転売でき、税金がかからず、値上りするという会員権の三大利点を強調するなどして勧誘するというものであった。

ところで、ゴルフ会員権は、契約書上は、一〇年後に額面又は時価により会員権の売却斡旋をするというにすぎないもので、ファミリー契約とは異なり償還(元本保証)の伴わない構造であったにもかかわらず、そのとおりトークしたのでは契約をとりにくいので、会員権取得後一〇年内にいつでも一定の手数料を払えば解約できる旨の中途買戻しの約定を入れていたことから、事実上営業社員において、いつでも売れ、現金と同じであるというあたかも元本保証のあるかのようなトークをし、加えて、預貯金より高率の賃借料が前払いでもらえ、しかも会員権自体の値上りと二重のもうけになるなどとその有利性を殊更強調して勧誘していたものであるが、買収したゴルフ場は前記のとおり問題点が多く、資産価値は極めて低く、しかも、買収資金の財源が見当たらず、目標どおりのゴルフ場を確保することも極めて困難な状況にあったから、一〇年後に値上りするどころか、購入価格で売却することさえ難しいと考えられるにもかかわらず、このような資産的な裏付けのない紙切れ同然のゴルフ会員権を前記のようなセールストークで販売させたことは、まさにファミリー商法と軌を一にするペーパー商法そのものであった。また、その販売方法も老人や主婦をターゲットにし、長時間粘るように指導する等反社会性の強いものであった。

(2) 販売実績

鹿島商事では、昭和五九年六月から昭和六〇年五月までの間に、約九七億円の会員権を販売(鹿島商事へ入る販売手数料はそのうちの四〇パーセント)したが、そのほとんどがオーナーズ契約によるもので、マスターズ契約の方は、豊田商事の破産に至るまでわずか、一、二件しかとれず、オーナーズ契約者への賃借料支払をマスターズ契約者からの賃借料収入で賄うというシステム本来の目的は、全く画餅に帰していた。

(五) 豊田ゴルフクラブ及び鹿島商事の営業成績並びに財務状態

(1) 豊田ゴルフクラブの第一期(昭和五九年八月二五日から昭和六〇年三月三一日)決算報告書は、昭和六〇年五月下旬ころ銀河計画財務部によって完成し、乙山七夫財務本部長、被告人山元、同藪内の順で決裁を受け税務申告されたが、右決算報告書によれば、当期利益は約一〇〇〇万円であった。その財務状態は、資本金五〇〇〇万円で、資産約七三億円に対し、負債約七三億円であり、営業成績は、売上総利益約四四億円から販売及び一般管理費約四〇億円を差引いた約四億円の営業利益を計上していた。なお、豊田ゴルフクラブは、ゴルフ場に関しては、自らはこれを所有せず現地のゴルフ場に運転資金を貸付け、もしくは関連会社の株式会社ワールドゴルフディベロップメントに所有させ、賃借料を払って賃借するにとどまり(したがって、旧会員の預託金の償還債務は、豊田ゴルフクラブでは計上していない。)、ゴルフ会員権販売に関しては、売上高の四〇パーセントを販売委託している鹿島商事に支払う約定になっていたことから、販売費及び一般管理費中の販売手数料として計上するほか、オーナーズ契約者に対する年一二パーセントの賃借料も自己の負担において計上していた。

(2) 鹿島商事の昭和六〇年三月期の第一期決算報告書は、豊田商事及び銀河計画の破産宣告後に破産管財人のもとで作成されたもので、右決算報告書によれば、当期損失は約一九億円であり、その財務状態は、資本金五〇〇〇万円で、資産約四〇億円に対し、負債約五九億円であって、約一九億円の債務超過であった。なお、借入金残高約二〇億円のうち約一九億円は銀河計画からの借入であった。営業成績については、売上総利益約三〇億円から販売費及び一般管理費約四八億円(うち約三一億円が給与で、約五億円が地代家賃)を差引いた約一八億円の営業損失を計上していた。なお、鹿島商事の月次の営業成績をみると、昭和六〇年三月が約一億円の黒字になっているが、これは、ファミリー契約からゴルフ会員権への切替が約七億円あったことによるものであった。

鹿島商事の赤字の原因は、ファミリー契約と同様、売上の増加を図るために急激な店舗展開(鹿島商事発足当初の三店舗から昭和六〇年六月現在で二六店舗となった。)を実施したことによる経費の増大、営業社員への高額歩合の支給、役員に対し正規の役員報酬のほかに裏報酬を支給していたこと等のため販売費及び一般管理費が販売手数料収入をはるかに上回ったことによるものであった。

(3) ところで、ゴルフ会員権販売の営業損益は、鹿島商事と豊田ゴルフクラブがゴルフ会員権販売高を相互に分け合っているところから、両社の営業損益を合算してみると、約一四億円の営業損失であった。

そして、以上の点については、被告人らは、関連会社報告会で、月次報告書に基づく報告を受けたり、役員会議でのやりとりにより知り得たし、被告人藪内、同山元については資金申請書や稟議書による決裁を通じてもこれを知り得た。

(六) ゴルフ会員権販売の破綻

前記のとおり、豊田商事グループのゴルフ場買収には、合理的な計画性が全くなく、条件の悪いゴルフ場ばかりを買収したため、ゴルフ場経営は、人材不足もあって慢性的な赤字経営の状態であり、また、会員権販売に関しては、前記のとおり、豊田ゴルフクラブは、わずかに黒字を計上していたものの、鹿島商事においては販売手数料収入をはるかに上回る販売費及び一般管理費の支出等により赤字経営に陥っており、両社を合わせると約一九億円という大幅な赤字であったうえ、鹿島商事が豊田商事の関連会社であることが次第にマスコミや顧客の知るところとなり、昭和五九年一〇月ころからゴルフ雑誌において、豊田商事グループのゴルフ会員権商法が問題にされはじめたため、鹿島商事が販売しているゴルフ会員権の市場価格はゼロに等しいとか鹿島商事が売った会員権では実際にプレーすることは困難であるという理由により解約の申出が相次ぐようになったことや資金不足により目標どおりゴルフ場を確保することが難しかったことから、将来的な見通しも暗かったこと、そして、オーナーズ契約者への二年目以降の賃借料支払債務(マスターズ契約はほとんど売れなかったので、財源にはなり得ないし、ゴルフ場の利用人員の関係から無制限には販売できない。)に加え、各ゴルフコースの旧会員に対する預託金の償還債務、ゴルフ場の買収費用等を捻出する財源確保の目途が全く立っていなかったこと等から、ゴルフ会員権の販売は、早晩行き詰まることは目に見えており、ゴルフ会員権の販売による利益によりファミリー契約を償還していくという当初の構想は到底実現不可能であって、被告人らは、役員会議や関連会社報告会等においてこれらの事情を十分に認識していた。

4 第三期分の粉飾決算書の作成

昭和五九年三月、大阪国税局の調査が終了したころ、乙山七夫は、永野から第三期についても黒字の粉飾決算書を作成するよう指示された。そこで、乙山は、同年七月ころ、部下の丁川四郎に指示して第三期の公表決算書の多数の勘定科目を操作し、公表決算書上は当期損失が約三七八億円であったのを、逆に約五五三〇万円の当期利益を計上した黒字の粉飾決算書を作成し、上司の被告人山元に提出するとともに、大手信用調査機関である株式会社帝国データバンク、株式会社東京商工リサーチの担当者らに手交した。また、その他の中小の興信所(一〇社位)には、場合に応じて粉飾決算書を見せながらあるいは見せないまでもその内容を説明していた。

そして、東京商工リサーチでは、その内情を知らないまま、同社発行の東商信用録近畿北陸版(昭和五八年及び五九年版)に、豊田商事の右粉飾にかかる決算内容をそのまま掲載し、一般に販売していた。また、豊田商事に関する信用調査依頼が、明確に分かっているだけでも、東京商工リサーチでは、昭和五九年から昭和六〇年六月までの間に四七件あり、帝国データバンクでは、九七件あり、これらの会社では調査報告書に粉飾決算書を添付もしくは引用して報告していた。

なお、被告人石松が、昭和五九年夏か秋ころ、豊田商事の民事事件を担当していた乙塚九雄弁護士から決算書の写しを見せられて、「相手弁護士から黒字の豊田商事の決算書が裁判で提出されたが、本物だろうか。」と聞かれたので、永野にその決算書写しを見せて尋ねると「詳しいことは藪内に聞け。」と言われ、被告人藪内に決算書写しを見せて事情を聞いたところ、同被告人は「実は興信所など外部用に黒字の決算書を作っているのだ。」と説明した。

以上のように、豊田商事では、永野並びに被告人藪内、同山元、乙山ら財務担当幹部が中心となって、組織ぐるみで粉飾決算書を作成し、これを民間信用調査機関に配付する等して、豊田商事の赤字を隠蔽し、あたかも優良堅実な会社であるかのように装っていた。

5 被告人藪内の使い込み発覚と社員の不正

(一) 被告人藪内の使い込みの発覚

昭和五八年一二月下旬ころ、豊田商事東京本社の秘書室長をしていた丁原九郎のもとに、エバーウェルシー台湾の経理部長らから現地で不正が行われている旨の連絡があったことから、丁原は永野に報告したところ、昭和五九年一月中旬ころ、現地に調査員を派遣して調査した結果、不正はないという報告がなされた。

しかし、同年六月、銀河計画の監査役をしていた丁原や監査室長の甲海六男らが永野の指示で二度にわたり現地調査をしたところ、被告人藪内が台湾でブティックを経営している愛人のために、海外事業部からエバーウェルシー台湾に送金させた金員の中から、判明しただけで総額約三〇〇〇万円を使い込んでいることが発覚したほか使途不明金があることが判明した。そこで、右報告を受けた永野が被告人藪内に問い質したところ、同被告人は使い込みの事実を認めたが、永野は、被告人藪内が豊田商事の内情を知りすぎていたこともあり、結局辞めさせることはしなかった。

(二) 社員の不正による内部腐敗

豊田商事においては、被告人石松のもとにある管理監査部門において社員の不正の調査や処理を行っていたが、昭和五八年二月ころ永野直轄の監査室を設けて監査業務を行わせることにし、監査の結果は、監査室長の甲海六男が直接永野に報告することになった。その結果判明した客から預かった導入金の横領、客に支払うべき賃借料、償還金の横領、歩合給、賞金等の不正取得等の手口による社員の不法領得金額は、昭和五八年度約四億円、昭和五九年度約三億円という多額にのぼっていた。

なお、不正事件は、役員クラスにもあり、取締役東京支社長の甲山六夫が、会社の金合計約三六〇〇万円を使い込んだことが判明し、昭和五七年七月に解雇処分になったほか、同年一〇月度の名古屋支社管内全店ノルマ一〇〇パーセント達成を不審に思った甲海が調査したところ、名古屋金山支店において、架空売上げを計上していることが判明し、同支店の支店長が当時取締役名古屋支社長であった被告人石川の指示により架空計上を行い、支給された歩合給や賞金等は支店長や支店管理職らに分配したことを認めたため、永野にその旨報告したが、永野は、石川に代わるような人材はいないという理由で同被告人を処分しなかった。なお、この件に関し、甲海は被告人石川から「うちは道徳の会社じゃないんだ。営業会社だ。お前に営業ができるのか。」といって怒鳴られた。

さらに、関連会社にも不正があり、たとえば、昭和五九年六月ころ、海外タイムスの広告会社である海外広告株式会社の社長が愛人に会社の金を注ぎ込んでおり、また、同年九月ころ、大和商事の営業マンが約一〇〇〇万円使い込み、さらに同年一二月ころには国際情報サービス株式会社の社長が三〇〇万円位の隠し預金を銀行にしていること等が判明した。

以上のように、豊田商事においては、巨額の赤字を抱え、自転車操業の状態でありながら、末端社員のみならず役員クラスまで不正を働いて、会社の金すなわち顧客からの導入金を不正に着服使用していたもので、内部腐敗が相当進行していた。

6 豊田商事大阪本社の移転

豊田商事は、昭和五九年八月一七日、本店所在地を大阪市北区梅田一丁目一一番四号の大阪駅前第四ビルへ移転し、それまで豊田商事が使用していた大阪駅前第三ビルの二六階は、銀河計画が二七階と併せて使用することになった。

7 顧問弁護士会議における永野の赤字発言

昭和五九年九月初旬、豊田商事東京本社会議室において、永野、被告人石川、同石松、同道添、乙山、乙川らの役員が出席して開催された顧問弁護士会議の席上、顧問弁護士から「民事裁判で裁判所から決算書類を出すように言われているが、出してもらえないか。」との発言があったが、これに対して永野は「マスコミの問題がありますから、ちょっと出すわけにはいきません。」と回答し、出せない理由について説明を求められると、永野は「関連会社から金が来んので、豊田商事も関連会社も全部赤字ですわ。そんな決算書類はどこにも出せませんよ。」と答えた。そこで、顧問弁護士が「そしたら事業計画書はどうなっていますか。」と質問すると、永野は、困ったような顔をして「わしの頭の中ですわ。」と答えたところ、顧問弁護士から「頭の中に入れているだけとか、一回こっきりで出来たような事業計画書では駄目ですよ。たえず現状と比較検討して、見直しをしなければいかんのですよ。」と言われ、永野は「財務で作らしている。」と言ったが、豊田商事では、それまで事業計画書のようなものは全く作成していなかった。

以上のようなやりとりにより、被告人らは、豊田商事が関連会社も含めて巨額の赤字を抱えており、しかも、償還資金を生み出すだけの具体的な運用事業計画も全く策定されていないことを重ねて認識するに至った。

8 資金繰り悪化の進行

豊田商事は、ファミリー契約の満期償還債務や高額歩合・賞金の支給等による販売費及び一般管理費の増大に加え、経費倒れで収益力の全くない多数の関連会社の設立、運営資金を銀河計画を通じてこれらに貸し付けたことによる資金の流出、永野のゴルフ会員権商法への転換構想により、ゴルフ場の買収を場当り的に進めたことによる莫大な費用負担などから、昭和五九年秋ころから資金繰りが極度に悪化してきたが、被告人らは、豊田商事がこのような状況に陥ったことを知り、かつ、後記のとおり、関連会社のうち最も期待していたベルギーダイヤモンドの経営も悪化したことやゴルフ事業の見通しが暗いことを知ったこと等により、遅くともこのころまでには、ファミリー契約による満期償還債務の履行が不可能になるかもしれないとの認識を有するに至った。

(一) 歩合給の引き下げの断行

昭和五九年九月ころ、永野は、被告人石川に対し、「金が足りないので歩合を少し下げようと思う。一二パーセント位にしようと思う。但し、九〇億円を達成したら今までどおり一五パーセントということでどうだ。」と言って、同被告人の同意を得たうえ、同月二八日、貴賓室で、永野、丙野及び被告人らが出席して開催された銀河計画役員会議において、永野が「金が足りんので営業の歩合を下げようと思う。」と提案したところ、被告人石川が「一〇月には九〇億円を達成したいと思います。もし、それができなかった場合には、歩合を下げてもらっても結構です。」と発言した。これに対し、永野が「そうか。未達成の場合は一二パーセントということでどうだ。」と言ったところ、被告人石川が「分かりました。頑張ってみます。」と応え、被告人藪内も「御苦労だが営業の方よろしく頼みます。」と言い、被告人道添も「頑張って下さい。」と言って被告人石川を激励したほか、他の役員も口々に賛成意見を述べた。

豊田商事では、これまで高額な歩合給・賞金の支給により導入金の拡大を目指してきたが、後述するとおり、大幅に償還が遅れるなどますます資金繰りが悪化してきているのを少しでも解消するため、営業社員の士気の低下をもたらす恐れのある歩合給の引き下げという非常手段をとらざるをえないところまで追い込まれていたものであり、被告人らは、この間の事情を良く知っていたから、以上のように全員一致で一〇月の導入額目標を九〇億円とし、それが達成できない時には歩合給を一二パーセントに引き下げることを決定した。

そこで、右役員会議の決定に基づき、同年一〇月三日付け営業本部通達第六一号「営業社員歩合給改定の件」を発出し、売上に対する給与、経費等の比率緩和と関連会社育成資金の調達を理由に、一〇月度導入売上九〇億円を達成できなかった時は、同年一一月一日から、営業歩合給を新規、増契約、継続のすべてにつき一五パーセントから一二パーセントに引き下げることを通知した。しかし、同年一〇月度の導入額は約七九億円にとどまり、右歩合給の改定実施を内容とする同年一一月一日付け営業本部通達第六三号が発出された。

さらに、同年一〇月二九日付け営業本部通達第六二号「営業管理職手当変更について」が発出され、営業管理職手当の支給条件である総合ノルマ達成率も従来の四〇パーセントから五〇パーセントに引き上げられ、実質的な管理職手当の引き下げとなった。

(二) ファミリー契約の満期償還遅延の進行

前記のとおり、ファミリー契約の満期償還は、昭和五九年初めころから慢性的に二か月程度遅延するようになっていたが、同年秋ころから一層遅延がひどくなって、三、四か月程度の遅れが生じるようになり、そのころには、豊田商事が償還をしなければならない金額は約一〇〇〇億円に達していた。

このように満期償還の遅れが顕著になったのは、豊田商事では永野の指示により、社員の給与支払を最優先とし、次いで協定書払(弁護士が入って和解になったもので、この支払が遅れると仮差押などの法的措置をとられるおそれがあった。)、解約金や賃借料、家賃その他の一般支払の順とし、満期償還は一番後回しにしていたため、資金繰りの悪化に伴い満期償還がそのしわ寄せを受けていたからであり、このような順位付けからみても、豊田商事では満期償還ということを重視していないことがよく示されていた。

右満期償還の遅れに対応して、昭和五九年夏ころから、財務本部の被告人山元、乙山、丁川らと管理本部の丙畠三雄らの間で、毎月末にファミリー契約の元本償還について折衝を行うようになったが、管理本部では、弁護士の介入や顧客の態度硬化等でどうしても継続に持ち込めなかった満期償還分について、支店・営業所が作成して送って来た「限月償還払出書」を毎月集計して、満期償還に必要な純金などの仕入量を計算し、財務本部と折衝していたが、財務本部で資金手当ができるのは、償還遅れを含む限月到来分のうち四〇パーセント位のものであり、折衝の結果、財務本部が翌月の仕入額を割り出して表にまとめてこれを管理本部に渡し、管理本部においてそれを各支店・営業所に振り分けていた。

ところで、豊田商事の純金等ファミリー契約の限月償還払出書は、その多くが証拠湮滅されたが、発見押収されたものを集計分析したのが、別表七の限月償還状況表である。

これによると、たとえば、昭和五九年一一月限月(満期)分については、同月に満期が到来する純金の数量は三六店分で四八六・二キログラム(注文金額一四億〇三六五万七五〇〇円)で、ファミリー契約上満期到来月の翌月すなわち同年一二月に全額償還を要するところ、実際の償還状況を見ると、

昭和五九年一二月 七一・〇キログラム

〃六〇年一月 五〇・二キログラム

〃六〇年二月 八六・二キログラム

〃六〇年三月 七二・九キログラム

〃六〇年四月 七五・一キログラム

〃六〇年五月 二五・六キログラム

〃六〇年六月 一・五キログラム

となっており、残り一〇三・七キログラムは償還できず、そのうち六三・九キログラム分を顧客と再交渉のうえ継続に持ち込み、残り三九・八キログラム分が破産宣告時点で未償還のままで終わっている。

また、昭和五九年一二月満期の純金の数量は、四七店分で六〇三・三キログラム(注文金額一七億七二二三万二三〇〇円)であるが、同月以降の実際の償還状況を見ると、

昭和五九年一二月 〇・四キログラム

〃六〇年一月 七九・〇キログラム

〃六〇年二月 七一・七キログラム

〃六〇年三月 五〇・三キログラム

〃六〇年四月 一一七・三キログラム

〃六〇年五月 五四・四キログラム

〃六〇年六月 四・九キログラム

継続 八一・七キログラム

未償還 一四三・六キログラム

となっており、さらに、昭和六〇年一月限月分に至っては、五一店分の償還を要する純金の数量六一九・一キログラムのうち、一〇二・三キログラムが継続、二一八・三キログラムが未償還となっており、約二分の一に相当する三二〇・六キログラムが継続又は未償還に終わっていた。

そして、このような満期償還の遅れは、昭和五九年秋ころからの役員会議の席上で、被告人石松が具体的数字をあげながら、元本償還が昭和五九年に入ってから二、三か月遅れ、翌月分の資金として八〇億あるいは一〇〇億位が必要であると述べていたこと、さらに、支店長会議の席上で、支店長から、「最近償還がひどく遅れるので何とかして欲しい。営業がやりづらい。」という発言が出たのを聞いた被告人石川が、役員会議の席上でその話を各役員に伝えたり、管理部門の被告人石松に対し、「償還が遅れて増し契約がとれず困っている。」と申し入れ、これに対し被告人石松は、「金がないんだよ。管理に金が回ってこないんだよ。」と答えていたこと、また、昭和六〇年二月ころの役員会議において、被告人山元が永野や被告人藪内らの無計画なゴルフ場買収を牽制する意味で、ファミリー契約の未償還額が一〇〇〇億円以上になっている旨実情を報告したこと等から、被告人らは十分認識していた。

(三) 役員会議における被告人藪内の態度

被告人藪内は、役員会議において、支払予定表を見ながら、経費や償還の支払予定額を説明していたが、昭和五九年夏ころになると、「これは支払を後回しにする。これほどは支払えない。」などと支払を渋る言い方をすることが非常に多くなっていた。

(四) ゴルフ場買収による資金逼迫の状況

前記のとおり、豊田商事では全国共通ゴルフ会員権を販売するために、ゴルフ場を買収していったが、その支払については、日本高原開発、日本海洋開発、トヨタゴールドの振出にかかる手形による分割払いで行っていたため、昭和五九年末ころないし昭和六〇年初めころから右手形の決済をする必要に迫られ、不渡りを出せばたちまち倒産に至るため、右決済は最優先にせざるを得なかったが、永野や被告人藪内がゴルフ場等を場当り的に買収していったため、財務関係は完全に圧迫されつつあった。ちなみに、支払を要する手形は、東名小山など一〇か所のほかベルギーダイヤモンドの物品税支払分等があり、永野や被告人藪内から手形に準じた扱いで支払うよう指示されていた分割支払分は、釜房湖など三か所のほかマリーナ、病院買収代金、内装工事業者スルガに対する支払等があった。その合計額は、昭和六〇年一月分は約八億七〇〇〇万円であったが、同年六月には約二三億七〇〇〇万円にも達していた。

財務部門では、「支払手形期日管理表」を作成して決済日等を把握していたが、永野や被告人藪内があまりにも無計画に買収をするので、被告人山元は、昭和六〇年二月ころ、支払手形期日管理表の写しを右両名に渡したり、「ファミリーの未償還分が一〇〇〇億円以上にもなっている。」旨発言したりした。

なお、昭和五九年一二月一五日ころの関連会社報告会で、ファミリー契約の償還をゴルフ会員権に切替える方針が出され、被告人藪内、同石川らもこれに賛成して、実行に移された。

さらに、昭和六〇年三月二九日の銀河計画役員会議で、ファミリー契約からゴルフ会員権への切替えの業務は、銀河計画総合販売で行なわせることになった。

9 経営企画書の検察庁への提出

永野は、昭和五九年九月ころ、乙川二郎に対し、顧問弁護士から、関連会社全部の事業計画書を検察庁に提出する必要がある旨言われているのでこれを作成するよう指示するとともに、その作成方法として、豊田商事が将来償還しなければならない一五〇〇億円位を五年間で償還できるだけの利益を計上するように会員権販売やベルギーダイヤモンドその他の関連会社につきそれぞれ数字をあげて指示した。

そこで、乙川二郎は部下に対し、黒字になるような関連会社全部の事業計画書(五年間)を作成するよう指示したが、前記のとおり、永野がファミリー商法は昭和六〇年三月まででやめると発言していたことから、その点について永野に尋ねたところ、同人は、昭和六〇年度は現状維持として昭和五九年度と同じ位にし、その後は毎年二〇〇億円位減らして三年(昭和六三年度)で全面的に廃止する形にするよう指示した。これに対し、乙川二郎がそれではファミリー契約は続けるのかと再度確かめたところ、永野は、「ファミリーは昭和六〇年三月でやめるが、これは計画書だから、数字が必要なら入れておけばいいんだ。」と答えたので、乙川二郎は部下にファミリー契約について永野の指示どおり伝え、また、関連会社への投資金額等についても永野が指示した数字を部下に伝えた。

そして、二か月位後に、ファミリー契約の償還と各事業への投資が十分可能な数字を記載した経営計画書を作成し、昭和五九年一一月一六日の検討会において、戊原及び甲谷両顧問弁護士の了承を得た後、被告人藪内及び被告人山元にも手渡し、昭和六〇年一月三〇日ころ、大阪地方検察庁に対し、「関連会社別経営計画書(昭和五九年一〇月作成)」及び「関連会社グループ経営計画書(昭和五九年一〇月作成)」として提出した。

しかしながら豊田商事及び銀河計画の役員会議では、ファミリー契約の償還計画を検討したことは一度としてなかったにも拘らず、右経営計画書は、その作成経過からも明らかなように、豊田商事が導入金を関連会社に投資して収益をあげ、その運用利益により導入金の償還をする計画を立てているように装い、捜査機関からの追及を免れんがために作成されたものであって、その記載内容も、適当に数字を並べただけの何ら合理的根拠のないものであった。

たとえば、豊田ゴルフクラブの経営計画書において、ゴルフ会員権販売口数の計算として、一四五人(一日当りの利用者数)×一八ホール×三二コース(豊田ゴルフクラブが買収することを計画していたゴルフ場の数)=八万三五二〇(口)とし、さらに、豊田ゴルフクラブのゴルフ会員権にはオーナーズ契約があるので再利用できるとして右数字を二倍して一六万七〇四〇(口)としているが、豊田ゴルフクラブの場合、既に営業しているゴルフ場を買収する場合が多かったのであるから、旧会員の存在を考えるべきであるのにこれを無視していること、右の二倍するという計算は、マスターズ契約が分割販売と組み合わされたものであることを前提としているが、昭和五九年秋ころ分割販売というのはやめて、プレーを希望する人に賃借料をとって利用権を賃貸する契約に改めたのであるから、会員権募集による収入とは無関係となり、右計算は誤りであること、予定どおり三二コース買収できるかどうかも不確実であること等問題点が多く、合理性があるとはいえず、また、鹿島商事の会員権販売による損益計算についても、経営計画書に記載されている数字から算出される昭和五九年七月から昭和六〇年三月までの月平均受取販売手数料は、約五億五〇〇〇万円、同期間の月平均経費は約四・六億円で、対受取販売手数料比は、八四パーセントであるのに対し、昭和五九年八月一〇日から昭和六〇年三月三一日までの月平均の実際売上高は約四億三〇〇〇万円、販売費及び一般管理費は約七億円で、対売上比は約一六二パーセントであって、右計画と相当の開きがあることからもわかるように、右計画の実現可能性は極めて少ないものであった。

10 被告人らの豊田商事役員辞任とこれに伴う新体制

昭和五九年暮れか昭和六〇年一月ころ、被告人石川は、永野から「昭和六〇年二月一日付けでみんな豊田商事を抜けて銀河計画に移ることにするが、君は社長として残ってくれ。まだ、社長になれる器の者が出来ていない。わしも会長として残るし、体制は今までと変わりはない。」と言われ、これを了承した。

昭和六〇年一月三〇日、貴賓室において、永野、丙野、被告人五名、乙山、乙川らが出席して銀河計画役員会議が開催され、永野が「今まで豊田商事のために頑張ってきた幹部社員を役員に抜擢して、今まで以上に頑張らせようと思う。このため君らは豊田商事の役員を外れることになるが、新たに役員になった者を指導監督して、今後も豊田商事の業務を引き続き見ていくことになる。これからは、豊田商事とその他の関連会社の統括も合わせてやっていくことになって忙しくなると思うが、頑張ってほしい。」などと発言したが、被告人らも、永野の狙いが、幹部社員を役員に抜擢すれば、本人はもとよりそれに続く社員らも励みが出て、意欲的に仕事に取り組み、導入額の増大をもたらすことになるということを理解し、全員一致で賛成した。そして、被告人石川を除く被告人四名は豊田商事の役員を退任することとなったが、その後も仕事の中味は従前と全く異ならなかった。そして、豊田商事に人材がいないことから、永野は会長として、被告人石川も社長としていずれも豊田商事に引き続き残留し、永野は豊田商事の経営全般を、被告人石川は主として営業部門を、また銀河計画役員のうち、被告人藪内は豊田商事の総務と財務部門、被告人山元は同財務部門、被告人石松は同管理部門、被告人道添は同総務、人事部門をこれまでと同様に、引き続き統括してそれぞれ永野を補佐していくこととなり、豊田商事の運営についての重要事項は、従来通り、被告人らが役員である銀河計画の役員会議で決定していくこととなった。

そして、銀河計画グループの販売会社である豊田商事、鹿島商事、大洋商事並びにこれらの中間管理会社である銀河計画総合販売株式会社の新役員の人選について協議を行った結果、豊田商事については、取締役副社長に前記乙原七郎、丙原八郎を、専務取締役に丁畠四雄のほか三名、常務取締役に丁川四郎ほか四名、取締役に乙海七男のほか一三名、監査役に丙川三郎、以上合計二六名を抜擢し、同年一月三一日付け銀河計画役員通達第六号「関連会社の役員構成について」を発出して、全関連会社に通知した。なお、豊田商事では、昭和六〇年二月以降は、大阪、東京の二本社制が廃止され、東西の二営業本部制がとられた。そして、同年二月からは、豊田商事も一関連会社として銀河計画の関連会社報告会に出席して、月次報告書を提出するようになり(昭和六〇年一月、二月度は、「導入経費対比表」、「販売費及び一般管理費の導入対比表」、「店舗数の導入対比表」、「社員数の導入対比表」等を、同年三月、四月度は、「導入経費対比表」、「全店導入売上高推移グラフ」、「導入に対する経費率順位表」、「導入に対する経費率表」等を、それぞれ資料として提出した。)、被告人らは、銀河計画の役員として右報告会に出席し、以後豊田商事を含む全関連会社の経営指導を行うようになった。なお、同年二月ころの関連会社報告会において、被告人藪内が、経費率を四〇パーセントまで下げるのを目標とする旨発言し、被告人らは、それまでの経費率が四〇パーセント以上であることを重ねて認識するに至った。

そして、前記のとおり、豊田商事を含む銀河計画グループの経営方針等の重要事項並びに全関連会社の役員等の人事等は、昭和六〇年二月以降も、従来どおりすべて最高意思決定機関である銀河計画役員会議において、被告人石川を含む被告人ら最高幹部役員が決定しており、豊田商事の役員会議では、社長である被告人石川からの銀河計画役員会議での決定事項の伝達程度が行われていたにすぎず、実質的な権限は失われ、被告人石川以外の豊田商事新役員は、いずれも銀河計画役員を兼ねておらず、したがって豊田商事の経営を統括する実質的な権限を持っていなかった。

11 豊田商事元社員らによる恐喝事件の発生と被告人らの対応

元豊田商事東京本社財務部長丙山八夫は、昭和五九年八月三一日同社を退職した際、密かに財務部から同年三月期(第三期)の決算報告書が添付された法人税確定申告書の写し及び関連会社一覧表等の秘密書類を持ち出していたが、約一六〇〇万円の使い込みが発覚して退職していた元豊田商事東京本社人事部長丙海八男や同社の元営業社員丁海九男、山口組系X組々員戊海十男らと相謀り、右秘密書類をマスコミに公表暴露すると脅して豊田商事から金銭を喝取しようとして、昭和六〇年一月、丙海が大阪駅前第三ビルの銀河計画本社に赴き、被告人山元に面会を求めた。

被告人山元は、自己の専任秘書と交際中の昭和五七年五月ころ、同女の夫から暴力団員を使って脅されたため、丙海に丁海を紹介してもらい解決方を依頼した際、同人の要求により、自分の保管していた会社資金から一〇〇〇万円を持ち出して解決金として渡したことがあった。ところが、丁海と丙海は、被告人山元の弱みにつけこんで同年九月ころ、同被告人に信販会社を設立するための資金の融資を申し込んだが、会社を設立する前にサラ金業者クレセントリースに貸し付けて利息を稼ごうと持ち掛けた。そこで前記不正の発覚をおそれた被告人山元は、同年九月から一一月にかけて豊田商事の資金から三回にわたり五〇〇〇万円ずつ合計一億五〇〇〇万円を商品先物取引の差入保証金という名目で不正に出金し、クレセントリースに預けたが、その後丁海から、信販会社設立の見せ金に使うから預けている金を使わせてほしいと言われ、結局、クレセントリースから引き出した現金一億五〇〇〇万円を丁海にそっくり奪い取られる事態となったが、被告人山元はこのことを社内で秘匿していた。

このようなことがあったため、被告人山元は、危険を察知してこれを回避し、代わって応対した乙山七夫を通じて、丙海が豊田商事の秘密書類を種にゆすりに来ていることを知った永野は、クレーム対策の責任者であった被告人石松に対応を指示し、同被告人が丙海との交渉に当たったが、丙海は、四〇〇億円を越える累積赤字が記載されている豊田商事の本物の昭和五九年三月期(第三期)の法人税確定申告書写し等の秘密書類を示し、「これをマスコミに公表されたくなかったら、三億円出せ。とりあえず二月一四日までに一億円を払え。」と要求した。そこで対策に苦慮した被告人石松は永野に相談したうえ、同年二月一三日警察に届け出たところ、警察からできるだけ相手に金を渡さずに引き延ばすよう言われたが、永野と被告人藪内は、引き延ばしを図って豊田商事が赤字であることがマスコミに公表され、世間に知られてしまえば元も子もなくなるとして現金一億円を用意したうえ、同月一四日被告人石松が大阪市北区中之島のロイヤルホテルへ現金二〇〇〇万円を持参して丙海らに交付した。丙海らは、さらに一億円を要求したため、同月二五日から三月八日にかけて全員逮捕されたが、そのときの新聞には重要書類を種にした恐喝事件とのみ報道されたため、取り付け騒ぎには至らなかった。

右のように、被告人らは、豊田商事が巨額の累積赤字を抱え経営が完全に破綻していることが世間に知られると、取り付け騒ぎがおこることは必至であったため、内情の秘匿については極度に神経を使っていた。

12 関連会社の状況

(一) 中間統括会社

第四期においては、約五〇社の関連会社が設立もしくは買収され、豊田商事を含めた銀河計画傘下の関連会社は、最終的に別表八のとおり約一〇〇社の多数にのぼったが、このうち半分近くはいわゆるペーパー会社であり、また実際に営業活動を行っていた会社の殆どが赤字会社であった。

なお、永野は、かねてから関連会社を業種毎に分類してグループ化し、各グループ毎にこれを統括する会社を設立し、銀河計画はその中間統括会社をさらに統括するという構想を持っており、乙川二郎に指示してその具体案を作成させて実施に移した。すなわち、銀河計画総合販売株式会社(昭和五九年七月一三日設立、代表取締役社長被告人石川)は、豊田商事、鹿島商事、大洋商事株式会社等の訪問販売グループの統括会社であって、被告人石川が右グループの営業全般を統括し、銀河計画教育システム株式会社(昭和六〇年二月一三日設立、代表取締役社長丙野)は、ベルギーダイヤモンド、ベルギー貿易株式会社、スイス化粧品株式会社等のシステム販売グループの統括会社であって、丙野三夫が右グループの営業全般を統括し、株式会社豊田総合リクリエーションクラブ(昭和五九年四月二六日豊田リクレーション株式会社として設立、昭和六〇年二月一日に被告人藪内が代表取締役社長に就任)は、豊田ゴルフクラブ、豊田マリーンクラブ、株式会社豊田スカイクラブ等のレジャークラブグループの統括会社で、被告人藪内が統括していた。

ところで、乙山七夫の検察官に対する供述調書(証拠請求番号一四六一)によれば、豊田商事の会社経営のあり方に疑問を抱いた右乙山は、昭和五九年四月の銀河計画設立後、被告人藪内に対し、「当てがいぶちで会社を作り、その後やれやれという一点張りでは駄目ですよ。会社を設立する前に、社長にすえる男に会社の目的を話したうえ、資本金としていくら、その他の資金としていくら出してやるから、それを踏まえて事業計画を作成させるというような方法をとらないといけない。」旨進言したことが認められ、また、甲岡一彦の検察官に対する昭和六二年二月九日付け供述調書(証拠請求番号二四六)によれば、銀河計画の財務本部に所属し、入社前に税理士及びA級経営管理士の資格を持って経営コンサルタント業をしていた経験を持つ右甲岡も、やはり、豊田商事の経営のあり方に疑問を抱き、昭和六〇年三月ころ開かれた銀河計画の部課長会議に出席し、「銀河計画グループ全体の基本方針を立て、その基本方針に基づき年度計画を立てて計画的にやっていくことが必要だ。今までは会社にとって一番大事な基本方針や計画がなかったのだから、これからはそうしたものを作らなければ駄目だ。関連会社の経営を指導していくうえでも、基本方針や事業計画が必要だと思う。」旨提言したところ、出席していた被告人藪内が「そんなことは財務でやっておけ。」と述べて一蹴したことが認められ、何ら改善の姿勢を示そうとしなかった。

(二) ベルギーダイヤモンドの物品税滞納と破綻

関連会社のうち、ベルギーダイヤモンドは、被告人らの期待を担って昭和五八年二月八日設立後、前記のとおり会員制販売システムによって売上を伸ばし、第四期に入っても、昭和五九年五月、六月には月間五〇億円を超える売上となったが、これをピークに売上高が三〇億円台から四〇億円台の間と低迷を続けるようになり、同年六月からは物品税の滞納が始まり、同年七月ころからは業者への支払も滞納し始め、以後急速に経営が悪化していった。

右資金ショートを起こした直接の原因は、同年五月ころ、銀河計画に借入金の返済という形で約一〇億円出金したことにあったが、そもそも、ネズミ算式に会員を殖やして販売するという右システムの構造上、会員数の増加には自ずから限界があるうえ、ベルギーダイヤモンドが豊田商事の関連会社であることや同社がネズミ講の会社で被害者が急増していることがマスコミに報道されたこと、客の中から選ばれるトレーナー(営業マンに相当する。)の質が低下したこと、ベルギーダイヤモンドが割賦販売する際の信販会社として設立した株式会社ジァパンファイナンスが多発する客の不正に対抗して審査を厳しくしたこと等から売上が低下し、それにもかかわらず、ファミリー商法と同様、店舗を増やせば売上が伸びるという安易な発想から、丙野らが無計画な店舗増設をしたこと(ちなみに、昭和五九年五月当時は一三店舗であったのが、同年一二月末では二〇店舗に増えているにもかかわらず、売上高は低下している。)による人件費や高額なビル家賃の支払、システムの考案者である平井らに対する高額のコンサルタント料(売上高の二・二パーセント)及び最高時売上の四七パーセントにも達した会員に対する高額のコッミッション料の支払等で売上に対する販売費及び一般管理費の比率が毎月五〇パーセント以上という極めて高いものになったこと、さらには、派手なイベントを催し、女子職員の制服を多数購入するなど無駄な出費や不明朗な出金をしていたこと等の放漫経営等が原因となって経営の悪化を招いた。

そして、同年八月末ころ、銀河計画役員会議の席上、永野がベルギーダイヤモンドの経営を統括していた丙野三夫に、同社が一八億円もの物品税を滞納していることの理由を尋ねたところ、同人は、「銀河がベルギーから金を吸いとるので滞納になったのです。」と言い、被告人らは、最も期待していたベルギーダイヤモンドでさえ物品税を一八億円も滞納するという深刻な事態に陥っており、ベルギーダイヤモンドの利益でファミリー契約の償還資金を賄っていくことは到底不可能な事態に立ち至っていることを認識するに至った。

その後、右物品税滞納については、銀河計画の乙山財務本部長が、永野の指示を受けて国税局と折衝した結果、同年一〇月、銀河計画は、ベルギーダイヤモンドの納税債務約一八億円につき、大蔵省に対し、関連会社サンエー企業株式会社(代表取締役丙谷三男)が所有する旭川ひばりケ丘ゴルフコースを担保に提供したうえ、同年一〇月から毎月、銀河計画振出の手形で月二億円位ずつ分割支払をすることになり、このことは、同年一一月ころ開催された銀河計画役員会の席上で、被告人ら役員に報告された。

また、そのころ被告人ら出席の銀河計画役員会議で、関連会社のボーナス案が提出された際、ベルギーダイヤモンドの社員のボーナスが豊田商事の社員より平均一・五倍以上となっていたことから、被告人石川が甲山に「ボーナスというものは、半期の業績で支払われるものだ。ベルギーは売上が下がっているのにおかしいではないか。」とくってかかり、甲山は、「店舗展開の体制作りの段階だ。」と言い返して口論となり、永野がこれを制止するという一幕もあった。

同年一二月一〇日、銀河計画財務部部長代理戊田四介は、ベルギーダイヤモンドに出向し、同社の資金繰りの状態や今後の経営方策について分析を行っていたが、同社の「資金繰り予想」及び「収支分析表」の取りまとめ作業の完成した同月二六日ころ、同社の経営状態が深刻な事態となっていることを報告すべく、右資料を携えて大阪市南区のベルギーダイヤモンド本社に赴き、同社専務取締役丙野三夫に、ついで銀河計画本社副社長室に赴き、被告人藪内に対し、それぞれ、①ベルギーダイヤモンドの資金繰りはもはや完全にパンクしていること②資金繰り予想では一二月末までに三億六八〇〇万円の資金不足が生ずること、昭和六〇年に入ってからも、同年三月までの不足分を累計すると二二億八三〇〇万円に達すること③ベルギーダイヤモンドの採算ラインが月に四三億円であるから、現在の売上から余剰資金は生まれず、仕入代、物品税等の支払繰延分は、一九億三〇〇〇万円に達しており、ベルギーダイヤモンドの自力では支払不能であり、その繰り延べにも限界がきていること④売上ピーク時の昭和五九年五月は一三店舗で月間売上五〇億円であったのに、現在二〇店舗を殖やしているにもかかわらず売上は四一億円しかなく、七店舗殖えたことによる経費の増加は、月一億四五〇〇万円で、他方売上の落ち込みが八億九〇〇〇万円であるから、月の実質的収入減は一〇億三五〇〇万円に達していること⑤ベルギーダイヤモンドの資金繰りの状態から、店舗増設の費用負担はとてもできないこと、⑥現在なお支店増設を計画しているが、増設予定五店舗の未払敷金・保証金一〇億三〇〇〇万円は現状では支払不能であること⑦このまま放置すれば銀河計画からの借入金をベルギーダイヤモンドがすべて食いつぶすこととなることを報告し、思い切った減量経営と店舗増設の停止を提言したが、両名とも「考えておこう。」というのみで、具体的な改善策については何ら指示を行わなかった。そればかりか、右戊田が極力反対した支店店舗の増設についても、その後二店舗分の増設を行うなどベルギーダイヤモンドの経営が破綻していることを熟知しながらなお放漫経営を続けた。

そして、昭和六〇年一月からは、仕入業者に対する支払は、二、三か月満期のベルギーダイヤモンドの手形で支払うようになり、同年二月には会員に払うコミッションが遅れ、同年三月にはベルギーダイヤモンドの役員給与も支払うことができなくなった。

ベルギーダイヤモンドは、設立直後の昭和五八年三月期の第一期決算で約一八〇〇万円の当期損失を計上し、昭和五九年三月期の第二期決算においても、約四億八〇〇〇万円の当期損失を計上して、当期未処理損失は約五億円に達したが、昭和六〇年三月期の第三期決算では、当期利益約三億円を計上して、当期未処理損失は約二億円となった。そして、右第三期の財務状態は、資産約八六億七〇〇〇万円に対し、負債約八六億八〇〇〇万円で、約一〇〇〇万円の債務超過となっており、また、営業成績は、営業活動に入った第二期で、約九四億円の売上高があったにもかかわらず約三億円の営業損失を計上していたが、第三期では約五〇四億円の売上高があり約二億円の営業利益を計上した。

なお、銀河計画からの借入金は、昭和五八年三月末現在で約二億円、昭和五九年三月末現在で約一九億円、昭和六〇年三月末現在で約二五億円であったが、ベルギーダイヤモンドは、収益を計上して銀河計画に送金することはおろか、銀河計画からの右借入金がなければ運営していけない状態であった。そして、ベルギーダイヤモンドでは、毎月二〇日すぎころにファックスで銀河計画へ資金繰表及び支払予定表を提出し、資金要請をしていたが、銀河計画の財務部では、他の関連会社からの資金申請と合わせて集計し、財務指導副本部長、財務指導本部長、副社長の被告人藪内という順で決裁に上げており、また、関連会社報告会にベルギーダイヤモンドの月次報告書が提出されていたので、被告人らもベルギーダイヤモンドの財務状態や営業成績を現実に把握認識することができた。

13 第四期決算

豊田商事の第四期決算作業は、後記のとおり、昭和六〇年四月永野の指示で財務資料を香港に運び、同地で、銀河計画財務本部長の乙山七夫や豊田商事財務本部長の丁川四郎らが中心となって進められたが、同年六月一八日永野が殺害されたため中断し、その後、破産管財人のもとで乙山、丁川が中心となって第四期の決算報告書を作成した。右決算報告書によれば、当期損失は約三二七億円、当期未処理損失は約七四四億円となっており、その経営は完全に破綻していた。

六  第五期(昭和六〇年四月~同年七月一日)

1 財務関係書類の隠滅工作と財務本部の香港移転

昭和六〇年四月一一日、豊田商事の関連会社である鹿島商事の社員が警視庁に詐欺罪で逮捕され、同月一八日同社が捜索を受けて、帳簿、伝票等が押収された。そこで永野は、いよいよ豊田商事や銀河計画にも捜査の手が伸び、帳簿、伝票等が押収されるに至ることを危惧し、捜査権の及ばない香港に両社の帳簿書類、伝票等を搬出したうえ、同地で決算等の経理事務を行わせようと思い立ち、同月二〇日ころ、被告人石川、同石松及び乙山に対し、「豊田商事にも警察が来るかもしれないから、書類はない方がよい。香港へ財務を移して、決算に必要な書類を運ぼう。」と指示し、翌二一日の日曜日に、永野、被告人石川、同石松、乙山、丁川らが出社して、銀河計画と豊田商事大阪本社において、豊田商事の第四期決算や銀河計画の第一期決算に必要な帳簿書類、伝票等の梱包作業を行い、その余の証憑書類の大半を裁断機により破砕しもしくは業者に委託して焼却処分した。そして、乙山と丁川は、永野から、財務本部を香港に移転する準備と調査をするよう指示されたので、同月二二日、二人で香港へ赴きその準備にとりかかった。

同月下旬、永野、丙野、被告人五名らが出席して銀河計画役員会議が開催され、席上、永野が、「鹿島商事にガサが入ったから、いずれ豊田にも入るかもしれん。財務をこのままにしておくのはまずいから財務本部を香港へ移し、乙山を向こうへやって決算も向こうでやらせる。人員配置は藪内と乙山でやり、財務資料はすぐ香港へ迭れ。」と指示したところ、被告人藪内は、これを了承した。このようにして、被告人ら役員は、右永野の指示が、捜査機関から財務資料を根こそぎ押収されれば財務の実態を解明され、検挙されるおそれがあるので、これを防ぐための証拠湮滅であることを知ったが、被告人らもこれをおそれていたので、全役員が賛成した。

そこで、銀河計画と豊田商事の財務担当社員から計八名を選んで、同年五月一三日に二名、同月二一日に六名を香港へ赴かせ、両社の決算事務に当たらせた。

2 社員給料の遅配

豊田商事は、ゴルフ場及びマリーン関係、病院等の買収に多額の導入金を投入したため、資金繰りに窮し、昭和六〇年四月ころから末期的状態になり、同月中旬ころ、給与資金の一部として東京の金融業者I商事から高利の約一〇億円を借り入れるなどしたものの、同年五月に支給する四月分の給与支払(総支給額約二七億円)の目処が立たなくなり、同年四月下旬の銀河計画役員会議で、財務担当の被告人山元が「関連会社と内勤社員については、既に銀行振込の依頼をしているから支給せざるを得ないが、営業の社員については支払える見込みがない。」と発言し、永野も「ないものは仕方がないから我慢してくれ。」と営業担当の被告人石川が言ったので、同被告人も来月からは遅らせないことを条件にこれを了承した。なお、その際、永野や被告人藪内は、「手形の支払も大変だから、新規のゴルフ場の買収等は抑えていこう。」と述べた。

かくして、豊田商事の営業社員については、同年五月二〇日支給の同年四月分の給与が遅配になり、月末までの分割支給でその場をしのいだ。また、永野、丙野及び被告人ら五名の役員報酬も同年四月二〇日支給の三月分から支給されなくなったが、永野の指示で三月、四月分の交際費は支給された。

一方、昭和六〇年四月ころには、銀河計画から関連会社への送金が全くストップし、また豊田商事では、同年五月末までのいわゆる協定書払いができなくなり、そのため同年六月初めには預金の仮差押を受けるに至った。そして金地金の買付けは、同年三月までは四〇〇キログラム前後を何とか購入していたが、同年四月には資金がなく、わずかしか購入することができなかった。

被告人らは、給与の遅配、欠配をすれば社員が辞めていき、営業ができなくなることを知悉していたから、何にもまして最優先に支払うこととしていた給与でさえ支払えなくなった程資金が枯渇してきたことを知り、また、前記のとおり、証拠湮滅工作をし、財務本部を香港に移転したこと等にも鑑み、いよいよ豊田商事も倒産間近となり、ファミリー契約の満期償還が不可能となったことを確定的に認識するに至った。

永野は、昭和六〇年五月ころの関連会社報告会の際に、「今までの中で唯一つ失敗がある。それはファミリーを去年一杯でやめなかったことだ。」と述懐していた。

3 豊田商事の赤字報道

昭和六〇年五月二二日、前記丙海らの恐喝事件の大阪地方裁判所での公判審理において、豊田商事が第三期で約四〇〇億円の赤字を抱えていることが明らかになったとして、ついに新聞報道され、それを契機として豊田商事に対し、顧客からの解約申し入れや問い合わせが殺到し、導入金が殆ど集まらなくなった。

同月三〇日、永野、丙野、被告人五名らが出席して開催された銀河計画役員会議の席上、被告人石松から右マスコミ報道により営業三社(豊田商事、鹿島商事、大洋商事)に来社した客は二五〇〇名、問い合わせは八〇〇〇件に達した旨の報告がなされたが、永野は被告人石松に「解約申し入れの客に対しては、資産を売却してでも払うからと言って引き延ばせ。協定書払いで支払期限がきているものは、ジャンプしてでも支払いを引き延ばせ。」との指示を与えた。

4 強制執行免脱のための銀行口座の開設

昭和六〇年六月三日、第一勧業銀行梅田支店取扱にかかる豊田商事の同銀行に対して有する預金債権が仮差押を受け、今後も同種の事態が予測されたことから、被告人藪内、同山元、銀河計画財務本部次長兼豊田商事財務部長代行戊川五郎らが相談のうえ、豊田商事の財産を隠匿するため、仮差押決定等の強制執行を免れる目的で、豊田商事のいわゆる裏口座として新たに豊田商事の出納係長の乙岡二彦名義の普通預金口座を開設したうえ、右第一勧業銀行梅田支店における豊田商事株式会社名義の普通預金口座(口座番号一一四二一九五)に同会社の各支店・営業所から日々の売上現金を振込送金していた従来の取扱を取りやめ、右乙岡名義の普通預金口座に振込送金させるなどした。

5 ファミリー契約発売のとりやめ

豊田商事は、昭和六〇年六月一〇日ころ、遂にファミリー契約の発売を全面的にとりやめてゴルフ会員権販売に切り替えた。

6 役員会議における口止め工作と証拠隠滅

昭和六〇年六月一三日ころ、関連会社報告会が開催され、永野、丙野、被告人五名、乙川らが出席したが、その席上、永野は、被告人らに対し、「うちの弁護士に裏切られた。顧問弁護士は、豊田グループの経営権を客側の弁護士グループに引渡して全役員が辞任せよと言ってきた。しかし、わしは全面的に戦うぞ。」「警察が入ってきてもいらんことを言うな。すべて俺の指示でやってきたと言え。自分の持ち場のことしか知らんと言え。」と口止め工作をした。被告人らは、それまで役員会議等に出席して会社の経営方針の決定に参画しており、決して永野一人で運営してきたのではないことを知っていたが、被告人石川は、「会長の言ったとおりにしよう。」と言った後、冗談めかした口調で、「警察にいらんことを喋ったやつはぶっ殺すぞ。」等と言い、被告人石松は「警察では肝心なことはしゃべらんとこ。」と言い、被告人道添は永野から「お前は大丈夫か。」と聞かれ、「大丈夫です。」と答えて、いずれも右永野の指示に従うことを確認し合った。

そのころ、永野から被告人石松、丙岡常務(業務本部長)、乙沼電算室長並びに一時帰国していた乙山、丁川らに対し、「会社にある帳簿や書類は皆処分せよ。財務の書類は、既に香港に送っているが、まだ、残っている分とこれから毎日出る伝票類は毎日香港に送れ。」と指示があった。乙山らは、検討の結果、コンピューターに入力している顧客管理台帳、顧客契約台帳、ファミリー契約書を残して、他の資料は処分し、支店・営業所関係の書類は、大阪本社と東京本社に集めて処分しようということになり、各部署で書類を裁断機にかけたり、焼却して処分した。

そして、東京本社にいた被告人道添は、丙沼業務部長を通じて、ファミリー契約の業務関係書類全部を廃棄せよとの永野の指示を受け、業務関係書類を全部廃棄すれば顧客管理等業務関係の仕事が全く出来なくなることは分かっていたが、詐欺罪で検挙されるよりはましだと考え、廃棄物処理業者に依頼して廃棄処分にし、また、同じく東京本社にいた被告人石川にも事務レベルで営業関係書類を廃棄せよとの永野の指示が伝えられたため、指示通り廃棄処分にした。

その後、後記兵庫県警察の捜索があった同月一五日ころ、永野から香港に電話があり、電話に出た丁川に対し、「今日中に書類を全部処分せよ。」との指示があった。そこで、同月一七日ころ、乙山や丁川の判断で、決算報告書作成に最小限度必要な試算表、決算修正振替伝票、科目明細書及び既に完成していた銀河計画の第一期決算書等を残し、他は全部処分した。

7 銀河計画への警察の捜索と緊急役員会議

昭和六〇年六月一五日、大阪駅前第三ビル二七階の銀河計画の財務本部に対し、兵庫県警察の外国為替管理法違反容疑による捜索がなされた。そこで同月一六日、マスコミを避けて、大阪中の島のロイヤルホテルで、永野、丙野及び被告人五名が出席して緊急役員会議が開催され、六月二〇日支給の五月分の給与支払の目処が全く立たないという報告がなされた後、永野が「うちの弁護士は腰が砕けた。警察が動くのは間違いないようだ。警察から事情を聞かれたら、お前らはわしに指示されていただけで何も知らんと言えばいい。わし一人で闘う方が楽や。しかし、仕事だけは続けろ。自転車はこぎ続けなければ倒れるんだ。」等と述べた。その際、被告人石川が永野に、「逮捕されたら家族の面倒が見られなくなる。役員一人につき二〇〇〇万円位もらえないか。」と要求したところ、永野はこれを了承したが、後記のとおり、永野が殺害されたため、実現しなかった。

同年六月一七日、永野会長が兵庫県警察から事情聴取を受けるに至った。

8 関連会社等の状況

(一) ゴルフ以外のレジャー関係

(1) 豊田マリーンクラブ等の状況

永野は、かねてよりマリーンクラブ経営の構想を周囲の者に述べていたが、昭和五九年一一月ころ、前記乙川二郎に、昭和六〇年二月末までにマリーン会員権の販売システムを考案するよう指示した。なお、昭和五八年一一月三〇日に設立された豊田ゴルフクラブが、同年一二月二四日にマリーナの管理運営を行う会社として、社名を変更して豊田マリーンクラブとなったが、乙川二郎は、昭和五九年二月一日に同社の代表取締役に就任していた。

そして、でき上った豊田マリーンクラブの会員権システムは、基本的にはゴルフ会員権と同じ内容で、売り切りの会員権は、顧客が代金を支払ってマリーンクラブの会員資格を取得することにより、豊田マリーンクラブが運営するマリーナの諸施設を優先的に低料金で利用できる権利を取得し、一〇年経過後に会員から申し出がある場合には、会社が時価又は額面記載金額で責任をもって他に売却斡旋をするというものであり、オーナーズ契約は、豊田マリーンクラブが施設利用権を一〇年間顧客から賃借して年一二パーセントの賃借料を支払うというものであり、マスターズ契約は、オーナーズ契約により賃借したマリーナ施設の一時利用権を年一五パーセント程度の賃借料をとって顧客に賃貸するというものであった。

そして、マリーン会員権の販売を行う会社として、昭和六〇年二月一五日、大洋商事株式会社(代表取締役丁岡四彦)が設立され、同年四月一日付けで豊田マリーンクラブと大洋商事の間でマリーン会員権の販売委託契約を締結したが、その内容は、大洋商事は豊田マリーンクラブの委託により同社の発行するマリーン会員権の販売及びそれに付随する業務を行い、会員権販売の委託手数料として豊田マリーンクラブが大洋商事に販売高の四〇パーセントを支払うというものであった。

一方、マリーナの買収は、昭和五七年九月一日設立された前記豊田観光(昭和五九年一〇月二六日に日本海洋開発と社名変更登記)が担当していたが、永野は、昭和六〇年一月一八日の関連会社報告会において、「全国にマリーナを五〇か所確保する。」旨発表した。同年五月現在の豊田商事グループが買収したマリーナ施設は、別表九のとおりであり、そのうち、宮崎空港マリーナは、同年四月一日に営業移管されたが、熱海オーシャンマリーナは、同年六月一日、丹後城崎マリーナは、同年八月一日、長崎サンポートマリーナは、同年一一月一日にそれぞれ営業移管の予定にとどまった。その他の五つのマリーナはまだ使用不可能の状態であり、長崎空港マリーナ、大阪和歌浦マリーナ、名古屋名港マリーナの三か所については用地買収が済んでいるだけで施設の建築着工の見込もたっていなかった。また、高知横浪マリーナについては、昭和五九年一〇月の仮契約締結時に一〇〇〇万円を支払っているところ、昭和六〇年五月一六日にさらに二〇〇〇万円支払いたいという稟議書が日本海洋開発から銀河計画に提出されたが、同月一四日付けの決裁書では財務の被告人山元は「支払不能」とし、被告人藪内は、支払条件等考えて五月中は不可能、六月に入り再稟議の事と付記して保留の決裁をしていた。

なお、大洋商事の昭和六〇年四月度月次報告書によると、同年三月の売上はなく、同年四月に五〇〇〇万円の売上があり、そのうちの四〇パーセントである二〇〇〇万円を販売手数料として計上しているが、三月、四月を合計した経常利益の累計は約六〇〇〇万円の赤字であった。

そして、マリーンクラブは、レジャー産業としては当時まだ未開拓の分野であるうえ、豊田商事グループのマリーン会員権には、ゴルフ会員権と同様の問題点があり、事業として到底期待の持てるものではなかった。

(2) 総合会員権

銀河計画企画部では、乙川二郎が中心となって、永野の構想に基づき、豊田ゴルフクラブ、豊田マリーンクラブ、豊田スカイクラブ、豊田テニスクラブ、豊田サバイバルクラブ、豊田スキークラブ等の各クラブが発行する会員権を包括した総合会員権(右クラブの保有する施設を利用することができる会員権)を発行する準備をし、昭和六〇年六月ころ豊田商事において右会員権(これも年一二パーセントの賃借料を一〇年間支払うオーナーズ契約をとり入れている。)の販売を開始したが、右各クラブが営業権を取得していた施設の数も少なく(たとえば、テニスについては一箇所しかなかった。)、総合会員権としての実質を備えていなかったので、ほとんど販売実績はなかった。

(二) 親鸞会等への寄附

豊田商事では、以上のほか、およそ資金の運用とはいえない次のようなことに多額の金員を出費していた。

永野一男は、昭和五七年六月ころ、菊池商事の社長戊山十夫から勧められて、同人が入会している宗教法人浄土真宗親鸞会の法話を聴きに行ったり、同会の機関紙「白道燃ゆ」等を講読するようになったが、その後、永野は、たくさんの客に迷惑をかけているのは事実だから、罪ほろぼしに社員にも法話をきかせ、できるだけ財施もしたいと戊山に言い、ベルギーダイヤモンドの名義で昭和五九年三月二四日から昭和六〇年三月二八日まで、一〇回にわたり毎回三〇〇万円ずつ計三〇〇〇万円を右親鸞会に寄附をし、昭和五九年一二月上旬から大体週一回位の割合で東京と大阪で、右親鸞会から講師を招いて社員に法話を聴かせる会を催した。そして昭和五九年一二月下旬ころの銀河計画の役員会議で、永野は被告人藪内や同石川の賛成を得たうえ、昭和六〇年四月一一日ころ銀河計画の名義で四〇〇〇万円を、同月一五日ころベルギーダイヤモンドの名義で一〇〇〇万円を、豊田ゴルフクラブの名義で五〇〇〇万円を右親鸞会に寄附した。(なお、右寄附金合計一億三〇〇〇万円は、豊田商事破産後の昭和六〇年七月二〇日、右親鸞会から破産管財人に返還された。)

また、豊田商事では、昭和五八年三月期に、大阪駅前第四ビル一九階に多数の仏像を並べて、宗教法人を作る準備を進めていたが、工事が完成したものの、永野が右法人のトップに据えようとしていた人物と不和となって計画が中止され、結局とりこわされて、右に要した費用約三億二七〇〇万円余は全く無駄づかいに終わった。

そのほか、永野は、昭和六〇年一月ころ、マラソン運動を助成しその普及発達等を目的とする財団法人全国マラソン後援会に対し、寄附として、同年二月五日ころ、銀河計画の名義で三五〇〇万円を送金していた。

なお永野及び被告人石川、同藪内、同石松、同道添らは、豊田商事や銀河計画の役員をしていた期間中に、頻繁に大阪北新地の高級クラブへ遊興に出かけ、多額の金員を費消していたが、支払いは被告人石松以外は殆ど現金であった。

9 永野の殺害と被告人らの対応

永野一男は、昭和六〇年六月一八日、大阪市北区天神橋所在の自宅マンションでとじこもっていたところを、A、Bの両名により殺害されるに至った。

永野が殺害された日の深夜、銀河計画の貴賓室で、被告人ら五名のほか丙野、乙川、甲林、乙林らが出席して緊急役員会議が開催され、善後策が協議されたが、意見はまちまちで、被告人石川は「資産のあるうちに向こうの弁護士に経営権を渡そう。」と述べ、被告人道添も「会長がいないとこれだけの大所帯をやっていくのは無理だ。」と意見を述べた。これに対し、被告人藪内と同山元は事業の継続を主張したが、結論は出なかった。

翌一九日ころ、被告人五名、丙野ら前日と同じメンバーが集まって役員会議が開かれたが、これに出席した日本高原開発の丁谷社長、日本海洋開発の丙林社長から、右両社がゴルフ場やマリーナ用地の買収のため振り出した二〇〇億円位の手形の処理について申し入れがあり協議した結果、当面不渡りを避けるためにできるだけ回収しようということになり、今後のことについては、被告人石川は自己破産の申し立てを主張し、丙野もこれに同調したが、被告人山元は、続行論を主張し、結局話し合いは平行線のまま結論は出なかった。

なお、通産省は、同年六月一九日豊田商事グループのすべてのペーパー商法について、新規客の勧誘と契約締結の停止を求める文書を郵送した。

10 破産宣告

昭和六〇年六月二〇日、豊田商事の債権者から大阪地方裁判所に対し、同社の破産宣告の申立てがあり、直ちに同裁判所により破産宣告前の保全処分がなされたが、同社には債権者がつめかけ、社員も出社しなくなって混乱状態となり、なお、同月二三日ころから、丙野三夫が行方不明となり、豊田商事は同年七月一日、破産宣告を受けた。次いで銀河計画も、同月三日豊田商事の破産管財人から大阪地方裁判所に破産の申立てがなされ、同月一二日破産宣告を受けた。

ちなみに、豊田商事の従業員は、最盛時には約八〇〇〇人、そのほぼ半数がテレフォン嬢で、グループ全体では約一万三〇〇〇人を擁していた。

11 第五期決算

豊田商事第五期の決算報告書は、第四期の残高を踏まえ、豊田商事が破産宣告を受けた昭和六〇年七月一日現在をもって破産管財人のもとで作成されたが、右決算報告書によれば、当期損失は約一四二億円で、当期未処理損失は約八八六億円であった。

七  破産宣告後の状況と配当

昭和六〇年七月一日破産宣告を受けた豊田商事の管財業務は、破産管財人中坊公平弁護士らを中心として行われ、同管財人の大阪地方裁判所に対する昭和六二年七月一日現在の第九回調査報告書によると、同年六月末現在において豊田商事及び銀河計画の両破産財団に組み入れられた資産総額は、一〇一億八八〇八万一一六〇円であり、同年六月二九日、大阪地方裁判所第六民事部において、一般破産債権者に対し、確定破産債権(一一五五億二六三〇万八三九六円)につき八パーセントの中間配当を実施することの許可決定がなされた。

そして、破産管財人作成の昭和六三年九月七日付け照会回答書(証拠請求番号七四三五)によると、ファミリー契約証券の確定債権件数は二万七九五一件、確定債権額は一一〇五億五二五〇万一五六〇円、レジャー会員証券の碓定債権件数は一〇〇〇件、確定債権額は四九億七七七一万五〇二一円、総確定債権件数は二万八九五一件、総確定債権額は一一五五億三〇二一万六五八一円であり、昭和六二年九月八日以降、右確定破産債権につき八パーセントの中間配当を行った。なお、現在の破産財団の状況からすると、ある一パーセントの最終配当は確実であるから、破産債権者に対し、合計九パーセントの被害回復が見込まれるとしている。

第二豊田商事の主要役員である永野一男及び被告人らの経歴

一  永野一男

永野一男は、昭和二七年八月一日岐阜県恵那市で出生し、昭和四三年四月愛知県刈谷市所在のトヨタ自動車株式会社の系列会社である日本電装株式会社に工員として入社するとともに、愛知県立刈谷高等学校定時制に入学したが、昭和四五年一月に退社、退学し、同年四月以降不動産のセールスを約二年間、商品取引会社の岡地株式会社岐阜出張所で商品取引の外務員を約三年間、その他宝石指輪の行商販売等をしていたところ、昭和五一年一二月一日、窃盗、業務上横領罪により岐阜地方裁判所大垣支部で懲役一年、三年間執行猶予の判決を受けたが、昭和五二年ころから名古屋市において金地金の商品先物取引業を「豊田商事」の名称で行うようになり、昭和五三年七月八日、旧豊田商事を設立するに至った。その後、昭和五六年四月二二日大阪豊田商事を設立して、代表取締役社長に就任し(昭和六〇年二月一日からは豊田商事代表取締役会長)、その業務全般を統括し、また、昭和五九年四月一四日に設立した銀河計画では、対外的な配慮から表向きは役員に就任しなかったものの、同社の持株会社「白道」の代表取締役として、銀河計画の経営全般を統括しており、豊田商事グループの最高責任者であったが、昭和六〇年六月一八日大阪市北区天神橋所在の自宅マンションで、暴漢により刺殺された。なお、永野は、正式な婚姻暦はないが、昭和五八年一〇月ころからクラブホステスの丁林春子と内縁関係にあり、同女との間に一女をもうけていた。

二  被告人石川洋

被告人石川洋は、東京都内で出生し、昭和三八年三月日本大学商学部を卒業後、都内で家業の牛乳販売店を営み、同年一一月に戊林夏子と結婚して一男二女をもうけたが、父親の借金返済のために昭和五〇年ころ店を処分し、次いで都内でペット販売店を経営したものの約三〇〇〇万円の借金を抱えて昭和五三年四月ころ倒産し、同月右夏子と協議離婚した。その後、同年暮れころから兵庫県下のゴルフ場で送迎用バスの運転手として働いていたが、昭和五四年七月末ころ、求人雑誌により、給料の良かった旧豊田商事名古屋支店に営業社員として勤務するようになった。ところが、旧豊田商事の経営が苦しくなり、給料が遅配になったため、同年一一月末ころ一旦退職して、名古屋市内の不動産屋に勤務したが、昭和五六年二月ころその店が倒産したことから、旧豊田商事時代の上司の勧めにより、同年三月旧豊田商事三重営業所に営業係長として再び勤務するようになった。その後、同年八月ころ大阪豊田商事岐阜営業所長、同年一一月ころ同社松山支店長、昭和五七年二月同社名古屋支店長、同年四月八日同社取締役名古屋支店長、同年五月一七日同社取締役名古屋支社長、同年一一月一日豊田商事専務取締役営業本部長に昇進して営業部門の最高責任者となり、当分の間大阪に常駐するようになったが、昭和五九年二月一日同社取締役副社長(営業・テレホン両本部長を管掌)に昇任し、同年三月営業本部を東西に分離したことに伴い、以後東京本社に常駐し、同年四月一四日銀河計画設立と同時に同社の取締役副社長を兼務するかたわら、昭和六〇年二月一日豊田商事代表取締役社長に就任した。

このように、被告人石川は入社以来一貫して営業畑を歩き、昭和五七年一一月ころから営業部門を統括しながら、永野を補佐して豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理し、経営の中枢を担っていた。なお、豊田商事の破産後は、昭和六〇年九月ころから名古屋市内の泡風呂機械の販売会社で営業コンサルタントをし、同社倒産後の昭和六一年一二月からは同市内の不動産会社に勤務して営業コンサルタントをし、昭和五六年四月ころから同棲するようになった内妻の甲森秋子及び同女の子供二名と肩書住居地で同居していた。

三  被告人藪内博

被告人藪内博は、大阪府堺市で出生し、昭和二一年関西工業専門学校に入学後、昭和二三年に関西大学経済学部に編入し、同大学在学中に裁判所職員採用試験に合格して大阪家庭裁判所等で事務官兼書記官補をしていたが、間もなく同大学を中退し、昭和二七年ころ裁判所職員を辞職した後、昭和三〇年に大阪編物株式会社に営業マンとして入社した。その後、昭和四三年ころ、同社は、日綿実業株式会社加工製品部に吸収され、そのため、アメリカの大手衣料品メーカーのブランド製品を製造販売することを目的として新たに設立されたニチメン衣料株式会社に移り、事業部長まで昇進したが、昭和五三年三月同社を希望退職し、同年七月大阪市南区に婦人服製造販売を業とする株式会社レインボーを自ら設立して経営に当たったが、昭和五五年一〇月には閉鎖を余儀なくされ、昭和五六年三月、新聞の求人広告によって旧豊田商事に入社し、総務課主任を経て、同年四月一日総務課長、同年七月一日大阪豊田商事総務部長、昭和五七年一月二六日同社取締役総務部長、同年一一月一日豊田商事取締役総務本部長、昭和五八年一月一日同社常務取締役総務本部長、同年一一月一日同社常務取締役総務本部長兼関連事業本部長、昭和五九年二月一日同社取締役副社長(総務・財務・関連事業・海外事業の各本部を管掌し、同年八月ころからは総務・財務両本部を管掌)と昇任し、同年四月以降、銀河計画設立と同時に同社の取締役副社長を兼務し、昭和六〇年二月前記のような経緯で豊田商事の役員を辞任したが、その後も仕事の内容は、それまでと変らなかった。

このように、被告人藪内は、入社以来一貫して総務畑を歩き、昭和五七年一一月ころから総務・財務部門を統括しながら、永野を補佐して豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理し、経営の中枢を担っていた。この間、同被告人は、昭和二九年二月乙森冬子と結婚して二男一女をもうけたが、元豊田商事堺支店にテレホン係として勤務しその後堺市内でスナックを経営していた丙森松子と昭和五九年三月ころから同棲するようになった。なお、豊田商事破産後は定職についていなかったが、昭和六〇年一〇月一五日神戸簡易裁判所で外国為替及び外国貿易管理法違反により罰金一五万円に、同年一〇月二三日大阪地方裁判所で強制執行不正免脱罪により懲役一〇月に処せられた。

四  被告人山元博美

被告人山元博美は、宮崎県北諸県郡高崎町で出生し、五歳のころに一家で来阪して、昭和四八年三月大阪府立布施工業高等学校を卒業後、東京都内の建設会社に入社し、工事現場監督として約五年間働き、昭和五三年八月大阪に戻って父親の経営する工務店の手伝いをしていたが、昭和五四年三月求人雑誌により当時大阪府吹田市江坂にあった旧豊田商事大阪支店に入社した。旧豊田商事では、営業主任等を経て北大阪営業所長になり、昭和五五年八月二八日取締役に就任し、その後昭和五六年四月二二日大阪豊田商事常務取締役(財務担当)、昭和五七年六月一日同社専務取締役(財務担当)、同年一一月一日豊田商事専務取締役総務副本部長(財務担当)、昭和五九年三月豊田商事大阪・東京両本社の財務本部長と昇任し、昭和五九年四月以降銀河計画設立と同時に同社の専務取締役を兼務し、昭和六〇年二月前記のような経緯で豊田商事の役員を辞任したが、その後も仕事の内容は、それまでと変らなかった。

このように、被告人山元は、昭和五六年四月ころから財務部門を統括しながら、永野を補佐して豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理し、経営の中枢を担っていた。この間、同被告人は、昭和五六年二月に丁森梅子と結婚して一男をもうけたが、昭和五八年五月離婚し、豊田商事で同被告人の専任秘書をしていた戊森竹子と同年一一月結婚して一男をもうけたものの、豊田商事の債権者からの差押等をおそれて昭和六〇年六月二七日戸籍上離婚したが、その後も同居は続けていた。そして、豊田商事破産後の昭和六一年一一月ころから大阪市内の人材派遣業の会社に就職し、同社から冷蔵会社に派遣されて荷役作業員として稼働していたが、昭和六〇年一二月二五日和歌山簡易裁判所で廃棄物処理及び清掃に関する法律違反により罰金一〇万円に、昭和六一年八月一四日大阪高等裁判所で強制執行不正免脱罪により懲役一年に処せられた。ちなみに、前者は、昭和六〇年四月ころ鹿島商事に警察の捜索が入ったことで、会社に保管中の模造金を、永野らの指示により、部下に和歌山県の港や紀の川へ捨てさせたものであった。

五  被告人石松禎佑

被告人石松禎佑は、大分県日田市で出生し、昭和四一年三月私立福岡第一高等学校を卒業後、福岡市内のホテルでボーイ等の仕事をし、昭和四六年ころからは商品先物取引を業とする同和商品株式会社に営業社員として勤務するようになったが、昭和五〇年ころ同社を辞めて紳士服販売関係の仕事に就いた後、昭和五四年五月一日新聞の求人広告により旧豊田商事福岡支店に営業社員見習として入社し、同年八月正社員となり、その後、同年一一月ころ同支店の管理部門の責任者となり、昭和五五年八月二八日旧豊田商事取締役福岡支店長代理、昭和五六年四月二二日大阪豊田商事取締役福岡支店長、同年一一月一日同社取締役管理部長(以後大阪本社に常駐)、昭和五七年六月一日同社常務取締役管理監査部長、同年一一月一日同社常務取締役管理監査本部長、昭和五八年四月一日豊田商事常務取締役管理本部長、昭和五九年二月一日同社専務取締役管理本部長と昇任し、同年四月以降、銀河計画設立と同時に同社の専務取締役を兼務し、昭和六〇年二月前記のような経緯で豊田商事の役員を辞任したが、その後も仕事の内容は、それまでと変らなかった。

このように、被告人石松は、昭和五七年六月ころから管理部門を統括しながら、永野を補佐して豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理し、経営の中枢を担っていた。この間、同被告人は、昭和五六年一二月に甲本花子と結婚して一男をもうけたほか、花子の子供一名を養子とした。なお、同被告人は、豊田商事破産後は定職に就いていなかった。

六  被告人道添憲男

被告人道添憲男は、鹿児島県出水郡高尾野町で出生し、昭和四六年三月中京大学法学部を卒業後、名古屋市内の不動産関係等の職を転々としていたが、昭和五二年夏ころ、知人の紹介で永野一男が個人で営業していた豊田商事名古屋営業所に勤務するようになり、昭和五三年七月旧豊田商事設立時に永野の依頼により、同社の名目上の代表取締役に就任(昭和五四年六月まで)し、主に総務関係の業務に従事していたところ、昭和五五年一月ころ客の取り付け騒ぎが起きて給与が支給されなくなったことから一旦同社を退職した。その後、名古屋市内の不動産会社に営業マンとして入社したが、昭和五六年一月、旧豊田商事三重営業所に総務責任者として再び勤務するようになり、同年四月ころ旧豊田商事大阪本社営業部係長、同年九月ころ大阪豊田商事総務部業務課長、昭和五七年一月同社監査役並びに業務部長、同年一〇月一日豊田商事取締役業務部長、同年一一月一日同社取締役総務本部副本部長(総務・業務担当)、昭和五八年四月一日同社取締役東京本社総務本部副本部長(総務・業務担当、以後東京本社に常駐)、昭和五九年二月一日同社常務取締役、同年三月一日同社常務取締役大阪・東京両本社の総務本部長、同年六月三〇日専務取締役総務本部長と昇任し、同年四月以降、銀河計画の常務取締役、同年七月一日以降同社専務取締役を兼務し、昭和六〇年二月前記のような経緯で豊田商事の役員を辞任したが、その後も仕事の内容は、それまでと変らなかった。

このように、被告人道添は、昭和五七年一〇月ころから総務・業務部門を統括しながら、永野を補佐して豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理し、経営の中枢を担っていた。この間同被告人は、昭和五五年八月乙本春江と結婚し、二男一女をもうけたほか、春江の子供二名を養子とした。なお、豊田商事破産後は、昭和六〇年一二月ころから大阪府枚方市の不動産会社に営業マンとして勤務していた。

なお、永野、丙野、被告人五名の大阪豊田商事設立(昭和五六年四月二二日)から破産宣告(昭和六〇年七月一日)までの役職就任、統括、管掌部門別の状況をまとめると、別表一〇のとおりであり、被告人ら五名は、いずれも一貫して各部門を統括する最高責任者として豊田商事の経営の中枢を担い続けていた。

昭和六〇年二月一日、被告人藪内、同山元、同石松、同道添は、豊田商事の役員を辞任しているが、これは銀河計画の役員会議が、豊田商事を含むすべての関連会社の経営指導を行う体制になったための異動であり、右被告人らはいずれも、右異動後も銀河計画の役員として、それぞれの担当部門につき豊田商事をはじめ関連会社の経営の指導を続ける体制に変りはなかった。

第三豊田商事の組織、機構と経営体制

一  組織の変遷・拡大状況

1 昭和五六年四月二二日(大阪豊田商事設立)から昭和五七年一〇月三一日までの状況

大阪豊田商事設立後、永野一男は、元ニチメン衣料の事業部長の職歴をもつ被告人藪内を入社早々の昭和五六年四月総務課長に、同年七月総務部長に抜擢して、本社組織の整備と地方店舗の拡充等の本格的組織作りに乗り出し、この時期に豊田商事は、営業、総務(総務・業務・人事・財務等で構成)、管理、関連事業、海外事業の各部門別に組織構成されるようになった。なお、昭和五六年四月の大阪豊田商事発足当時の支店・営業所等の地方店舗は、旧豊田商事時代の店舗を引継いだもので、大阪、福岡各支店及び北大阪、岐阜、三重各営業所等であった。

2 昭和五七年一一月一日から昭和五八年三月三一日までの状況

豊田商事は、昭和五七年一一月一日、代表取締役社長永野一男を頂点として、取締役副社長乙野二夫が西日本ブロックを、専務取締役丙野三夫が東日本ブロックをそれぞれ管掌し、その下に営業本部(本部長被告人石川)、総務本部(本部長被告人藪内、財務担当副本部長被告人山元、総務・業務担当副本部長被告人道添)、管理監査本部(本部長被告人石松)、関連事業本部(本部長被告人藪内、但し、実際の活動は昭和五八年一一月一日以降である。)、海外事業本部(本部長戊野五夫)を置く五本部体制ができた。この時期の組織図は別表一のとおりであり、昭和五七年一一月ころの支店・営業所は三三店舗で、本社と地方店舗の中間に位置し、各地区の地方店舗を統制する「支社」は札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、西日本の六支社であった。

3 昭和五八年四月一日から昭和五九年二月二九日までの状況

豊田商事は、昭和五八年四月一日、大阪本社と東京本社の二本社体制となり、大阪・東京両本社にそれぞれ営業本部(両本社とも本部長被告人石川)、総務本部(両本社とも本部長被告人藪内、大阪本社副本部長被告人山元、東京本社副本部長被告人道添)、管理本部(両本社とも本部長被告人石松)が設置され、取締役副社長乙野二夫が大阪本社を、専務取締役丙野三夫が東京本社をそれぞれ管掌することとなったが、関連事業本部(本部長被告人藪内)、海外事業本部(本部長戊野五夫)及び監査室は代表取締役社長永野一男の直轄部門となった。なお、昭和五八年七月ころの組織図は別表二のとおりであり、その時期における地方店舗数は四六店舗で、支社は、北海道、東北、東京、名古屋、大阪、中国、九州の七支社であった。

4 昭和五九年三月一日から昭和六〇年一月三一日までの状況

豊田商事は、昭和五九年二月に副社長の乙野二夫が退社したことに伴い、丙野三夫、被告人石川、同藪内の三副社長体制となり、大阪、東京両本社に財務本部(両本社とも本部長被告人山元)及びテレフォン本部(両本社とも本部長乙月五雄)が新設され、営業本部も名実ともに両本社に分かれることになった。丙野三夫は代表取締役社長の永野を補佐して両本社の経営全般を統括するとともに、関連会社のベルギーダイヤモンドの経営に当たり、被告人石川は両本社の営業本部(大阪本社本部長乙原七郎、東京本社本部長丙原八郎)及びテレフォン本部を、被告人藪内は両本社の総務本部(両本社とも本部長被告人道添)、財務本部(両本社とも本部長被告人山元)、大阪本社の関連事業本部及び海外事業本部(いずれも本部長被告人藪内)を、被告人石松は両本社の管理本部(本部長被告人石松)をそれぞれ管掌する機構となった。なお、右関連事業本部及び海外事業本部は昭和五九年四月一四日銀河計画が設立されたことに伴い同社に吸収され、同社が豊田商事を含めた関連会社を統括することとなった。なお、昭和五九年三月一日当時の組織図は別表三のとおりであり、同時期の地方店舗数は五二店舗、支社は札幌、仙台、銀座、サンシャイン、名古屋、金沢、大阪、広島、福岡の九支社になった。また、同年八月一日当時の組織図は別表四のとおりであり、同時期の地方店舗数は五七店舗、支社は右の九支社であった。

5 昭和六〇年二月一日から同年七月一日(破産宣告)までの状況

豊田商事は、昭和六〇年二月一日に永野一男が代表取締役会長、被告人石川が代表取締役社長に就任するとともに、他の被告人らが豊田商事の役員を退いて、役員の大幅な変更が行われ、業務本部、人事本部が新設されたが、被告人らは、豊田商事の役員を退いた後も、豊田商事を含めた関連会社の統括会社としての銀河計画の役員として、豊田商事の経営を指導監督していた。なお、昭和六〇年二月一日当時の組織図は別表五のとおりであり、同年三月ころの時期における地方店舗数は六〇店舗、支社は九支社であった。

二  豊田商事の本社組織とその業務内容

1 営業本部

営業本部の組織は、同本部ができた昭和五七年一一月一日から昭和五九年二月二九日までは、販促部、企画部、営業指導部、テレフォン業務部の四部で構成されていたが、テレフォン本部が新設された昭和五九年三月一日以降は販促部だけとなった。

そして、営業部門の指揮命令系統は、被告人石川が副社長となって営業本部を管掌するようになった昭和五九年二月ころ以降は、被告人石川、営業本部長、同副本部長、支社長、支店長、営業部長席、営業課長席、係長、主任、ヘッド、社員の順となっていたが、具体的な指示命令は、毎月一回開催する支社長会議、支店長会議及び地区別部課長会議や全国の支店長、営業所長宛に発出する通知・通達類、さらに毎朝、被告人石川が各支社長にファックスにより指示をし、支社長はさらにこれを各支店長、営業所長にファックスで送り、支店長、営業所長等の営業管理職が毎朝行われる朝礼で営業社員に伝達するという方法で行っていた。

営業本部は、ファミリー商法を推進していた豊田商事の最重要部門(したがって、社員の数は営業社員が最も多く、給与の面でも内勤の社員より優遇されていた。)であり、その本社業務は、役員会議等で決められた営業方針を被告人石川が中心となって具体化し、各地方店舗の営業社員に周知徹底させることにより、導入金の増大に寄与していた。具体的には、被告人石川が中心となって行う歩合給、各種賞金の原案の作成、役員会議で決定されるノルマ額に基づく毎月のノルマ表の作成、毎月の導入成績により昇降格(給)が行われる営業社員及び営業管理職の人事異動や昇降給の結果をとりまとめた営業新体制表等の作成、その他通知・通達類の起案、毎日三回(当初は午後二時、五時、八時であったが、昭和五八年五月から午後三時、六時、九時に変更された。)、各支店長から東西の営業本部長に報告される各支店・営業所の導入状況(契約キロ数、契約金額、契約種別、入金額等)を最終的に大阪本社営業本部でとりまとめて売上日報を作成し、永野、被告人石川、同藪内、同山元、同石松らに配布して報告する一方、各支社にも右売上日報をファックスで送付して各支店・営業所に知らせること等であった。また、被告人石川は、業務部がまとめた導入額をもとにして全店の導入売上高推移グラフを毎月作成し、昭和五九年に入ってからこれを役員会議や関連会社会議で全役員に配布し、全店の支店長・営業所長にも配っていた。

2 テレフォン本部

テレフォン本部は、豊田商事の営業方法が、まず、テレフォン嬢が顧客方に電話して顧客の資産状況や家族構成等を把握し、面談の約束を取りつけたうえ、営業マンが赴いて勧誘するというものであったから、営業部門と密接な関係にあり、前記のとおり元は営業本部に所属していたが、その重要性に鑑み、昭和五九年三月の機構改革により営業本部から独立したものである。

テレフォン部門の指揮命令系統は、テレフォン本部に昇格した後は被告人石川、銀河計画総合販売テレフォン業務担当役員、テレフォン本部長、同副部長、各支社のブロック長、各支店・営業所のテレフォン業務責任者、テレフォン嬢の順となっていたが、具体的な指示命令は、支社長会議、支店長会議のほか、テレフォン関係の会議であるブロック長会議、テレフォン責任者会議、さらに全国の支店長・営業所長宛に発出する通知・通達類等で伝達していた。

そして、その本社業務は、テレフォン関係の賞金案の作成、テレフォン関係の通知・通達類の起案、テレフォン責任者らの研修の開催等であった。

3 総務本部

昭和五七年一一月一日に発足した総務本部は、総務部、人事部、業務部、財務部、電算室、秘書室で構成されていたが、昭和五九年三月一日に財務部が独立して財務本部となり、昭和六〇年二月一日には業務部、人事部がそれぞれ独立して各本部となった。

総務部門の指揮命令系統は、被告人藪内が総務本部、財務本部管掌の副社長となった昭和五九年二月ころ以降は、被告人藪内、総務本部長(被告人道添)及び財務本部長(被告人山元)、総務及び財務本部副本部長、支店・営業所の総務(財務)責任者、総務、財務関係の社員の順となっていたが、具体的な指示命令は、総務関係の会議である総務責任者会議や部課長会議のほか、全国の支店長・営業所長ら宛に発出する通知・通達類等で伝達していた。

(一) 総務部

本社総務部は、時期により異なるが、概ね総務課、庶務課、企画課、経理課、文書課等で構成されており、総務課では、内装、電話等の工事契約、ビルの賃貸借契約等、庶務課では、什器備品の発注、郵便物の発信等、企画課では、社内誌「クラスター」の編集及び印刷発注、経理課では、出張旅費、家賃、業者払い等の伝票の起票並びに記帳、文書課では、稟議書、決裁書、報告文書等の受付、通知・通達類の起案、決裁後の文書の整理保管等を行っていた。

(2) 人事部

本社人事部は、人事課、給与計算課等で構成されており、人事課は、社の採用、退職に関する業務、人事管理、労務管理業務、福利厚生関係業務等、給与計算課は、給与・賞与関係業務等を行なっていた。

(三) 業務部

本社業務部の主な業務内容は、売上集計、入金チェック、顧客管理、解約・償還等の業務管理、支店・営業所の管理、統制等であったが、このうちの売上集計、顧客管理業務は次のようなものであった。

業務部員は、各支店・営業所から送られてくる伝票類をチェックした後、それをもとにして「ファミリー証券台帳」に記帳するが、これには、顧客の名前とコード番号、担当者の名前とコード番号のほか、注文日、数量、純金等の国内値、金額、手数料、合計金額、契約期間、償還日、賃借料、最終入金日、入金合計、証券の種類と番号、さらには、手付金や残金の入金日、増契約、キャンセル、解約等を記入することになっており、顧客管理の基本となるものであった。そして、このファミリー証券台帳、顧客名簿、注文伝票一覧表等に基づき業務部のオペレーターが電算室でコンピューターに入力した後、そのデータを出力して作成したものが顧客管理台帳及び顧客契約台帳であり、業務部がこれを保管して顧客管理を行っていた。また、業務部員は、自己の担当している支店・営業所の「支店集計」及び「個人集計」を行って、毎日の支店・営業所の売上及び営業員個人の売上を集計し、さらに「証券発行簿」と「顧客コード台帳」にも記載していた。次に、月末集計として、「全支店・営業所月末売上入金報告書」(実働日数、支店名、人員、総合売上、新規・増売上、継続売上、入金金額、達成率、入金率、ノルマ対率、一支店・営業所当りの平均導入金額、営業社員一人当りの平均導入金額、未入金、新規・増入金額等が記載されたもの)、「全店○年○月○日導入額順位表(課別)」、「昭和○年○月度全店個人成績一覧表」、「昭和○年○月度未入金一覧表」、「昭和○年○月度キャンセル一覧表」を作成し、これらを一冊にしてコピーを作成し、これを豊田商事及び銀河計画の取締役以上の役員に一冊ずつ配布していた。また、昭和五八年三月、継続ノルマを新規導入ノルマに組み入れ、総合ノルマ制になってからは、「総合集計表」「導入集計表」「継続集計表」をコンピューターから出力して作成していたが、これらの集計表は、毎週末及び毎月末に業務部から各役員に配布し、昭和五七年一一月ころ、営業本部が出来てからは、営業本部にも渡し、同本部から各支社に送付していた。以上の各集計表は、人事部で、ファミリー契約等に関する営業マンの歩合と賞金、営業管理職の賞金を計算する根拠になるものであり、また、社長以下役員としては、導入・継続の実績を正確に把握するのに役立っていた。

なお、昭和五八年八月ころ、当時豊田商事大阪本社総務本部業務部長であった丙本七平は、当時の総務副本部長であった被告人山元を通じて永野から、ファミリー契約の未償還分の累計を毎月出すようにとの指示を受け、以後毎月純金・白金・純銀・集計表の四枚の「預り資産一覧表」(新規と増契約の未償還分であり、継続契約は含まれていない。)を作成、提出していたが、この一覧表には、年月、国内値と相場日、支店営業所名、数量、金額を記入し、地区毎に小計を出し、最後に数量の合計と換算した金額を記入していた。丙本は、総務本部副本部長に昇格した昭和五九年二月ころまで右業務を担当し、それ以降は後任の丙岡三彦業務部長が担当していたが、未償還額は、昭和五八年八月現在で四〇〇億円位、昭和五九年一月現在で六〇〇億円位、同年一二月現在で一〇〇〇億円位であった。

(四) 電算室

電算室の主な業務は、各部署のデータの管理及びそれらに基づく各種帳票の出力であったが、電算室で保管していたデータには、①業務システム(純金等の売買契約とファミリー契約に直接関係する一切のデータ。すなわち顧客名簿と設定した顧客コード、注文伝票、入出金(庫)伝票等を入力し、日次の注文伝票、入出金(庫)伝票、顧客管理台帳、顧客契約台帳等を出力して業務部に引継いでいた。)、②人事システム(全社員の氏名、住所、生年月日等及びその給与、賞与、所得税、住民税、社会保険料等のデータ)、③財務システム(昭和五九年四月一日以降の仕訳日計表及び試算表、昭和六〇年二月から四月までの各支店の経費明細のデータ)、④テレフォン業務システム(昭和五九年末以降のテレフォン社員の契約実績管理データ)、⑤指数システム(永野の商品相場の日次データ、純金等の相場価格の日次データ)、⑥総務システム(本社及び各支店の広告宣伝費、印刷費、駐車場費、家賃等のデータ)、⑦管理システム(昭和六〇年二月以降のクレーム集計及び五年ものファミリー契約の賃借料、振替等のデータ)、⑧その他統計等のシステム(五年もの賃借料一覧、限月証券管理マスターリスト等の統計資料で、昭和五八年六月ころから三か月又は六か月おきに管理本部からの依頼により、月毎にどれだけのファミリー契約の償還量があるかを見るための統計資料として「証券契約平均限月一覧表」を作成して管理本部に交付していた。)等があった。

なお、前記のとおり、昭和六〇年六月、永野の指示で業務部は保管していた顧客契約台帳をすべて廃棄したが、電算室では、ファミリー契約のデータを全部消去せよという永野の指示には従わず、すべてのコンピューターデータをそのまま保管しており、豊田商事の破産後、これを破産管財人に引継いだ。そして、破産管財人の指示で、破産宣告時点で残存する契約の未償還分の必要項目につき出力して作成したのが「ファミリー契約者リスト」であり、右リストの内容は正確なものであった。

4 財務本部

本社財務部は、資金課、出納課、本社経理課、支店経理課等で構成されていたが、その業務内容は次のとおりであった。

まず、資金課は、インゴットの仕入及び顧客への満期償還等によるインゴットの払出、顧客から受入れた有価証券の保管、売却等を行っていたが、インゴットの仕入については銀河計画の被告人山元が豊田商事財務本部長の丁川四郎に対し、仕入数量、仕入先等の指示をし、仕入伝票や入庫伝票等も被告人山元が決裁していた。また、満期償還手続については、管理本部から限月償還払出書が資金課に送られてきてインゴットの出庫をしていたが、資金課では、毎日の未償還のインゴット数量を限月償還払出書に基づいて集計した書類を作成し、また毎月末に各支店別の未償還インゴット数量を示す書類を作成して、右の各書類を被告人山元にその都度見せており、毎月毎に作成する書類は、丁川四郎や管理本部にも渡していた。なお、インゴットの在庫量については、各支店毎に作成させているインゴット日々管理表(一本のインゴット毎の動きと支店の在庫量との両方がわかるように記入させていたもので、記入の翌日、本社資金課に送付させていた。)、資金課で作成していたインゴット出入帳、支店在庫一覧表(インゴット日々管理表等に基づき、支店及び大阪・東京両本社の在庫量につき毎日作成していた。)、インゴットカード(一本のインゴットについて一枚作成していたもので、インゴットの動きがすべてわかるように動きが生じた毎に記入していた。)等により把握していた。また、顧客から受入れた有価証券については、コンピューターに入力する一方、在庫帳にも記帳し、資金課で管理していたが、有価証券の売却は、被告人山元や田村の指示により行っていた。なお、資金課で扱っていた帳簿や伝票類には、インゴット管理台帳、有価証券管理台帳、有価証券譲受計算書、インゴット入出庫伝票等があった。

出納課は、豊田商事の入出金に関するすべての手続を行っており、全国の地方店舗からの送金受入口座の残高把握、他の口座への振替、各部署からの出金伝票に基づく出金手続等を行っていた。ちなみに、右出金手続は、最終的に被告山元の決裁を受けた出金伝票等に基づいて出納課が入出金予定表を作成し、その日の入出金実績表と共に前記資金ミーティングの資料として提出し、そこで行われた協議により決定した支払実行分につき出納課が出金手続を行っていた。なお、出納課で扱っていた帳簿や伝票類には、現金出納簿、銀行預金帳、出納日報、手形帳、入出金伝票等があった。

本社経理課は、出納課が処理した伝票類に基づいて入出金、振替等の集計、元帳・補助簿への転記等の経理処理や一か月毎の試算表の作成、税務関係の書類の作成を行っていた。なお、本社経理課で扱っていた帳簿や伝票類には、総勘定元帳、試算表(日計表、月計表)、補助簿(貸付金、仮払金、借入金、未払金、インゴット仕入等)、支払済伝票綴等があった。

支店経理課は、顧客別の入金状況や支店毎の経費の集計等をして地方店舗の経理状況の把握を行っていた。なお、支店経理課で扱っていた帳簿や伝票類には、支店別総勘定元帳、経費帳、顧客管理台帳、試算表(月計表)、入送金連絡表、支払済伝票綴等があった。

5 管理本部

管理本部の組織は、昭和五七年六月ころ監査室が設置されてそれまでの管理部と合わせて管理監査部となり、同年一一月一日右管理部と監査室からなる管理監査本部となったが、昭和五八年二月ころ監査室が独立して永野の直轄となり、管理部だけからなる管理本部となった。

そして管理部門の指揮命令系統は、被告人石松、銀河計画総合販売管理担当役員、管理本部長、同副本部長、ブロック長(地区長)、支店・営業所の管理責任者、管理の社員の順となっていたが、具体的な指示命令は、管理関係の会議である管理会議(ブロック長会議)のほか、全国の支店長・営業所長宛に発出する通知・通達類等で伝達していた。

管理本部の本社業務は、満期償還業務、解約手続業務、賃借料の支払に関する業務、クレーム処理、捜査機関、マスコミ及び訴訟対策等であった。なお、昭和五八年二月ころまで、監査業務(その後は社長直轄)及び継続業務(その後は営業担当)も行なっていた。このうち、満期償還業務は、支店・営業所において継続できなかった顧客につき作成された「限月償還払出書」が管理本部に送られてきて、これを管理本部長が決裁していたが、償還遅れが発生しだした昭和五九年初めころからは、前記のとおり財務本部と折衝して、購入することができるインゴットにつき、各支店・営業所に割り振りをしていた。また解約業務については、大別して「一般解約払」と「協定書払」と呼んでいた弁護士等が代理人となって和解が成立したものとに分かれていたが、一般解約払は、約款上ファミリー契約取引の三〇パーセントという高率の違約金を徴収することになっており、しかも、インゴットの相場の値動きに応じて豊田商事に有利な計算方法を選択しており、また協定書払の方は、トラブルが大きくなってマスコミ等に感知されることを防ぐため極力和解に持ち込んだもので、事情に応じて徴収する違約金を適宜減額していた。さらに、通産省(局)や各消費者センター等には毎週ブロック長や管理責任者を訪問させて、管理本部へその結果の報告書を提出させ、マスコミ対策としては、新聞掲載記事を本社へ送付させて、たえずその動向を見守る態勢をとり、裁判所による仮差押、証拠保全等があったときは、直ちに管理本部に報告させる等して、それぞれ対策を講じていた。

三  地方店舗の組織及び業務内容

豊田商事では、永野の方針で、ファミリー商法による導入金の受皿の拡大を企図して、大阪豊田商事設立当時から支店増設に力を入れ、全国制覇と称して一県に一店舗を開設することを目指していた。そのため、地方店舗数は、昭和五七年四月時点で二〇店舗、同年一一月時点で三三店舗、昭和五八年七月時点で四六店舗、昭和五九年三月時点で五二店舗、同年八月時点で五七店舗、昭和六〇年三月時点で六〇店舗となり、支店・営業所の設置されていない県は、佐賀、高知、山口、鳥取、滋賀のわずか五県であった。しかも、永野の方針で、外観上からも豊田商事が優良堅実な会社であると顧客に信用させるために、全国各地の一等地にある高級ビルを高額の敷金保証金を差し入れ、かつ高い賃料を毎月支払って店舗にし、賃借していた。ちなみに、銀河計画グループ全体の事務所の支払家賃(共益費も含む。)は、昭和六〇年五月現在で月額約五億七〇〇〇万円で、敷金保証金は約一〇七億円であり、これらについては被告人藪内、同山元は報告を受けて知っていた。

支店・営業所は概ね営業、テレフォン、総務、管理の四部門で構成されていたが、営業部門中心の組織であって、通常、支店には営業課が二課、営業所では一課設置され、その下に係が設置されていた(通常一課四係制)。そして、営業関係の社員としては、支店長(営業所長)のもとに、営業部長、営業課長の管理職、営業係長以下の営業社員(通常一係約五名)が配置されており、指揮命令系統もこの順になっていた。

テレフォン部門は、パート勤務のテレフォン嬢(当該地方店舗の営業社員の概ね一・五倍強の人員構成)が電話帳等を利用して顧客に電話をし金地金の購入を勧め、顧客の氏名、住所、年令、職業、家族構成、資産状態等を聞き出し、面談用紙に記入して営業部門に引継ぎ、これに基づき営業社員が顧客宅を訪問し、後述するセールストークにより勧誘していた。

総務部門は四、五名程度で構成されており、ファミリー契約による導入金の受入等の入金処理及び本社への送金、入出金(庫)伝票の作成、ファミリー証券の作成等の業務、小口現金の管理等の経理事務、人事事務を担当していた。

管理部門は二、三名程度で構成されており、限月償還払出書の作成やインゴットの受渡等の満期償還業務、満期到来時における継続勧誘(昭和五八年三月から営業部門に移管)、五年ものファミリー契約の二回目以降の賃借料の支払、解約に伴う処理、顧客からのクレームの処理、通産省(局)・消費者センター・警察・マスコミ・裁判対策・限月顧客件数・数量の把握、解約・満期償還件数・インゴットの在庫量等の本社への報告等を担当していた。

なお、営業社員と総務、管理等の内勤社員とでは、給与体系が異なり、営業社員は、残業手当やボーナス制度はないかわりに、基本給(内勤社員より高い。)以外に成績に応じて営業手当や歩合給、各種賞金が支給される仕組みになっていた。

また豊田商事では、昭和五九年三月一日以降は全国を九ブロックに分け、札幌、仙台、東京(銀座、サンシャイン)、名古屋、金沢、大阪、広島、福岡の各支社を設けて、それぞれ支社長を配置し、各ブロックの支店、営業所を統括させていた。

ところで、豊田商事では、ファミリー商法に対するマスコミ等の批判が高まり、悪名がとどろいた以後においても、その営業を継続し、あくまでも従業員を補充して導入金を獲得するため、わざと豊田商事の名を秘して会社名をいつわり、求人活動を行っていた。

四  豊田商事の組織による統制状況

1 役員会議における重要事項の決定

豊田商事では、大阪豊田商事設立当時から最低月一回は、大阪本社貴賓室で取締役による役員会議を開催し、経営の基本方針、重要事項についてはすべて右役員会議で決定したうえ、通知、通達等を発出して支店・営業所の地方店舗に伝達していた。たとえば、昭和五八年三月のノルマ倍増賞金作戦と継続ノルマの設定、同年七月の五年ものファミリー契約の発売、同年九月以降の第二次賞金作戦の実施、昭和五九年二月のゴルフ会員権の発売、同年三月の高額給与・歩合作戦の実施、同年四月の銀河計画の設立等豊田商事の経営の根幹にかかわる重要事項については、必ず永野及び被告人らで構成する役員会議の場に発議され、その議決を経たうえで役員通達、営業本部通達、業務通達等の文書によって全国の地方店舗に指示伝達しており、右役員会議は豊田商事における最高意思決定機関であった。そして銀河計画設立後は、永野及び被告人らで構成する銀河計画役員会議が豊田商事を含む銀河計画グループ全体の最高意思決定機関となり、被告人石川を除く被告人四名が豊田商事の役員を退任した後の豊田商事の役員会議は、その開催前日の支社長会議で決定された営業新体制表の承認や総務、管理等の内勤社員の人事を決定する程度で、経営方針等の重要事項が議題にのぼることはなかった。

被告人らは、役員に就任後は、終始豊田商事及び銀河計画の役員会議に出席し、前述した各被告人の担当部門を代表する立場から発言して、役員会議における重要事項の決定に参画し、右役員会議を通じて豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理していたが、わけても被告人石川は豊田商事の根幹をなす営業部門の最高責任者として、ファミリー契約による導入金の増大を図るための歩合給の改正や賞金作戦等を永野と相談したうえ、役員会議の場で説明するなどして、営業方針の周知徹底をはかり、また被告人藪内は、総務・財務部門の最高責任者として、たとえば各役員に席上配布される「導入金と経費との対比表」等の説明をしたり、翌月の支払予定額について発表等するほか、資金吸収網である地方店舗の拡張、導入金の運用・管理、関連会社の指導などの周知徹底をはかり、いずれも永野を支える牽引車の両輪として積極的に発言、指導を行っていた。なお、役員会議では、永野の発言力が大きく、同人がリーダーシップをとっていたものの、たとえば、永野が行っていた商品先物取引の追い証問題を討議した昭和五七年一二月末の緊急役員会議では、当初は全役員が反対し、なかでも被告人藪内は乙野とともに強硬に反対していたのであり、また、昭和五八年六月の五年ものファミリー契約の発売を討議した役員会議においても、被告人石松は管理部門の担当者としてクレームが増えることをおそれて半年ものを提案し、被告人道添も五年後の純金の値上がりを懸念する発言をして五年ものファミリー契約に反対の意向を示し、被告人山元も財務担当者の立場から高額な賃借料や歩合給の支給に懸念を示す等しており、さらに昭和五九年五月の役員会議において、永野が昭和六〇年三月ころまでにファミリー契約を廃止するとの意向を表明したときも、被告人石川、同藪内らが反対の意思表示をしていること等、役員会議は常に永野の言いなりではなく、被告人らはそれぞれの立場から発言、意思表示をして、役員会議における意思決定に参画していたものである。

ちなみに、乙野退社後の役員会議の席順は、永野の右隣に被告人藪内が座り、以下、被告人石川、同山元の順であり、永野の左隣は丙野、被告人石松、同道添の順であった。

2 各種会議による統制

豊田商事では、毎月一回開催される支社長会議、支店長会議、地区別(営業)部課長会議等により、本社の営業方針の周知徹底を図って地方店舗の指揮統制をしていたが、その他に内勤関係の総務責任者会議、部課長合同会議等も開催していた。その主なものは次のとおりである。

(一) 支社長会議

支社長会議は、出席者については組織の変遷に応じて時期により異なるが、概ね営業本部管掌の副社長である被告人石川、営業本部長、同副本部長、各支社長らが出席して毎月一回大阪本社貴賓室で開催され、被告人石川が中心となって、支店管理職の昇降格、人事異動(最終的には翌日開催される人事役員会議で決定していた。)、各支店・営業所のノルマ額等を協議するほか、豊田商事の営業方針の示達、売上増大の指示等が行われていた。

(二) 支店長会議

支店長会議は、出席者については組織の変遷に応じて時期により異なるが、概ね被告人石川、営業本部長、同副本部長、支社長、支店長・営業所長らが出席して毎月一回前月度の表彰式が行なわれたあと、大阪本社会議室で、開催され、被告人石川が中心となって、本社の営業方針の指示説明、東西地区別、各支社別、支店別のノルマ達成状況報告、入金状況報告、ノルマの変更・歩合の改訂等のほか、鹿島商事、ベルギーダイヤモンド等関連会社の営業成績やゴルフ場、マリーナの買収状況の説明、売上増大策の協議等が行われたが、そのねらいは、要するに、導入ノルマ達成のための会議であった。そのため、支店長会議では、支店長らの席順は、前月の導入成績順に並ばされ、末席に座らされた支店長は、営業本部長らから厳しく叱責された。

そして、会議の内容は、支店長が部下社員に伝達するようになっていた。

(三) 地区別(営業)部課長会議

地区別(営業)部課長会議は、支社長の主催で、管内の支店長・営業所長、営業部長、同課長らが出席して毎月一回各支社で開催されるもので、本社からの指示の伝達、営業成績の発表、支社長からの売上向上・ノルマ達成に向けての指示及びこれらについての討論等を行っていた。

(四) 総務責任者会議

総務責任者会議は、出席者については組織の変遷に応じて時期により異なるが、概ね総務・財務本部管掌の副社長である被告人藪内、総務本部長被告人道添、同副本部長、総務本部の本社部課長クラスの幹部、支店・営業所の営業・管理関係を除く総務責任者らが出席して二、三か月に一度あるいは半年に一度の割合で、大阪本社の会議室で開催されていたもので、被告人藪内を中心として、事務処理上の実務的な問題点について話し合ったり、通知・通達等の徹底が行われていた。

(五) 部課長合同(総務)会議

内勤の部課長合同(総務)会議は、永野の指示により、営業部門の支店長会議に対応する会議として、昭和五八年六月ころから毎月一回支店長会議と同じ日に開催されるようになったもので、出席者は組織の変遷に応じて時期により異なるが、概ね副社長の被告人藪内、財務本部長の同山元、総務本部長の同道添のほか、大阪・東京両本社の総務本部及び財務本部の部課長らで、被告人藪内が中心となって、部課長からの報告、提案、問題点の検討等を行っていた。

(六) 管理本部ブロック長会議

管理本部ブロック長会議は、出席者については組織の変遷に応じて時期により異なるが、概ね管理本部管掌の専務である被告人石松、銀河計画総合販売管理担当役員、管理本部長、同副本部長、各地区のブロック長(各支社の管理課長)らが出席して毎月開催されるもので、支店・営業所の管理課員からの要望やこれらの者の昇給、昇格の上申、管理業務についての指示等を行っていた。

3 関連会社報告会による統制

豊田商事では、関連会社の設立に伴い、昭和五七年八月ころ以降毎月一回、大阪本社において関連会社報告会を開催して、被告人藪内の司会で、各関連会社の社長や総務もしくは財務責任者らに、各関連会社の毎月の売上、経費を含む営業成績及び財務状態等を記載した「月次報告書」に基づき、報告をさせてその経営指導を行っており、永野、丙野、被告人ら豊田商事の役員は、右会議を通じて関連会社を指揮統制していた。

なお、関連会社報告会から独立する形で昭和五八年四月ころから開催されるようになった海外事業部会議では、海外現地法人の担当者に、毎月海外事業部において作成する財務関係の資料等に基づく報告をさせて、豊田商事の役員が経営指導を行っていたが、昭和五九年六月海外現地法人の指導統括会社として関連会社の株式会社エバーウェルシー・インターナショナルが設立されたことにより、以後同社が銀河計画主宰の関連会社報告会に出席して報告するという形にかわった。

4 通知・通達

豊田商事では、本社の指示事項を役員の決裁を得たうえ通知・通達にして、ファックスで各支社を通じて各支店・営業所に送り、末端の社員にまで本社の指示を周知徹底させて管理統制していた。

また、営業部門担当の被告人石川は、毎朝、各支社長にファックスで指示をしていたが、その内容は、即日賞金の発表のほか、たとえば売上の向上に努力せよとか入金率を高めよなど常に導入成績を上げるための発破をかけるものであった。

5 研修、社内広報

豊田商事の営業方法は、テレフォン嬢が顧客方に電話して面談の約束を取りつけたうえ、営業社員が顧客方を訪問勧誘してファミリー契約を締結するものであったから、その研修には非常に力を入れていた。

すなわち、営業社員は、入社後概ね一週間から一〇日間位、新入社員研修を受けていたが、その内容は、配属された支店・営業所の幹部が、本社から送られてきた会社案内ビデオや基本トーク、ファミリートークを実演した模範ビデオその他の教本、パンフレット等を使用しながら、会社の業務内容、職制等の会社案内、純金の一般的知識、後述する純金の三大利点を強調する基本トーク、セールスの基本等の説明をした後、新入社員同士あるいは講師を相手に何度もセールスの実演練習を行い、セールストークを暗記するまで徹底した新入社員研修を行っていた。なお、ファミリートークについては、各支店によって異なるが、研修終了後営業に出てしばらくしてから教えることが多かった。そして、研修終了後も、毎朝の朝礼後に、セールストークの反復練習を行わせ、間違った社員には社訓を大声で言わせる等してセールス手法の徹底に努めていた。なお、右研修では、豊田商事営業マンの心得として、「最低五時間粘れ」等と教育し、さらに、「うそも方便」、「契約するまで絶対に帰るな」、「相手の立場で考えるな」、「売れなくてもいいから客を会社に連れてこい。」、「純金を売ったら客の通帳や印鑑を預かれ。」、「客についていって銀行や郵便局で金を下してこい。」、「営業マンが客のかわりに銀行などへ金を下しに行け。」等と指導しており、豊田商事の営業マンは、これらのことを徹底的にたたきこまれたうえ実践に活かしていた。

また、テレフォン嬢についても支店・営業所のテレフォン責任者らが概ね一〇日間位新入社員研修を行っていたが、右研修では営業社員と同様、会社案内ビデオや「アプローチ話法の研究」等の研修ビデオを使って、会社案内、純金の知識、テレフォントーク、面談用紙の記入要領等を教育していた。そして、右テレフォントークも、いろいろな場合を想定して、金がない、興味がない、信用できない等の断り文句に対する応酬話法や客の年代に応じたトーク等きめ細かい教育をして、面談約束をとりつけるように努めていた。

したがって、以上のような研修の結果、豊田商事の営業社員、テレフォン嬢の用いるトークは、各人の工夫により若干の差異はあったものの、基本的には同じであった。

また、豊田商事では、昭和五七年四月以降、社内誌「クラスター」を毎月発行して全社員に無料で配布し、役員のプロフィール、営業方針等のインタビュー記事、各種営業成績の順位、優良成績者の表彰、セールストーク・組織・各種イベント・新事業及び関連会社等の紹介、通知・通達等を掲載して社内統一及び導入金の拡大を図るとともに、豊田商事が優良堅実な会社であることを社員にも印象付け、マスコミ批判等による社員の動揺を抑える役割をも果たしていた。

6 朝礼

豊田商事の各支店・営業所では、営業、テレフォン、総務等各部門で毎日朝礼を行うことが義務付けられており、右朝礼において、ファックスで送られて来ている、本社からの通知・通達、被告人石川の指示等が社員に周知徹底される仕組みになっていた。

そして、営業部門の朝礼では、支店長以下の営業管理職が出席し、右伝達のほか、営業社員間の競争意識をあおる目的で、個人別に前日の導入成績を発表したり、管理職が営業社員を叱咤激励する内容のあいさつを行うなどした後、全員に天突き運動と称する体操を行わせたり、社訓を大声で言わせるなどして士気の高揚を図っていた。また、テレフォン部門の朝礼でも、営業部門と同様のねらいから、テレフォン責任者が各テレフォン嬢の前日の面談での成功率を発表したりしていた。朝礼の内容を大宮支店の例でみると、(1)前日の売上高発表、(2)社訓の読み上げ、(3)支店長、部長の訓示、(4)課長席の訓示、(5)当日の売上目標の発表と指示、(6)トーク練習(基本的なトークを大声で読んだり言うことで発声練習をしたりトークを覚える)が行われ、この営業部全体の朝礼の後、課長の朝礼や各係別ミーティングが行われていた。また、この時売上が悪い者を二時間も三時間も立たせたりする支店もあった。さらに朝礼で内勤課長も指示、叱咤激励していたところもあった。

7 毎日の営業報告

豊田商事営業本部では、毎日三回(昭和五八年五月から午後三時、六時、九時となった。)、各支店・営業所から支社を通じて契約数量、契約金額、契約種別、入金高等の導入状況を報告させており、午後九時の報告後、大阪本社営業本部で全国の集計をして売上日報を作成し、永野、被告人石川、同藪内、同山元、同石松らに配布する一方、ファックスで支社を通じて各支店・営業所に送って全国の導入状況を知らせることにより、支店間の競争を煽っていた。

8 稟議、決裁

豊田商事では、業務処理に際し、社長、副社長、本部長らの事前の決裁を要する事項については、稟議書を作成させ、これを決裁することにより社内の意思統一を図り、管理統制を行っていた。ちなみに、稟議書の作成を要する事項は、たとえば、総務本部関係では、店舗開設、賃料改定、社宅、寮の借上、車輛購入、一万円以上の備品購入等であった。

稟議、決裁の手続については、時期により変遷があるが、概ね本社もしくは支店・営業所の各部署で稟議書を起案し、(支店・営業所の場合は支社長)、本社の担当課長、部長、副本部長、本部長、管掌副社長、社長の順で決裁しており、稟議事項の内容により、最終決裁者が決められていた。なお、役員の決議を要する事項に関しては、各本部長から取締役会に付議した後に、社長が決裁していた。

なお、銀河計画設立後は、関連会社が増えたこともあって、銀河計画総務本部において、関連会社の稟議の手順を定めた文書を作成し、社員に周知徹底させていたが、昭和五九年一〇月ころ作成した右手順書によると、関連会社の各部署で稟議書を起案した後、社長(鹿島商事では被告人石川)を通じて、銀河計画総務部庶務課に送り、同課で決裁書を添付して、各役員、副社長の被告人藪内、(事項により会長の永野)の順で決裁することとし、銀河計画が各関連会社を管理統制していた。

そして、豊田商事を含めた関連会社への出金については、各関連会社から資金繰表・支払予定表並びに資金申請書等を銀河計画財務本部に提出させて、乙山財務本部長、専務の被告人山元、副社長の被告人藪内、(事項により永野)の順で決裁していたが、いつ実行するかについては、毎夕銀河計画で行われるミーティングで調整していた。

このように特別の事項を除いて、営業関係以外の稟議の最終決裁権者は被告人藪内とされており、同被告人の決裁により殆どの事項が決定されていた。

9 資金の本社集中管理

豊田商事では、地方店舗には小口現金しか置かないようにしており、地方店舗でファミリー契約による導入金を受入れると、毎日、入金伝票、入送金連絡書等を本社業務部門及び財務部門にファックスで送付させたうえ、受入れた現金を毎日、銀行振込の方法により第一勧業銀行梅田支店の大阪本社預金口座へ送金させ、賃借料の支払や満期償還については、賃借金申請書や限月償還払出書に基づき、その都度、本社から地方店舗に現金や金地金を送っていた。このように豊田商事では、大阪本社財務部門において資金を集中管理していた。

五  役員の高額給与と裏報酬

永野以下の主要役員は、豊田商事が巨額の赤字を抱えていたにもかかわらず、豊田商事及び銀河計画から高額の役員報酬の支給を受けており、昭和五九年一月分から昭和六〇年四月分までの各役員に対する総支給額(但し、昭和六〇年三月、四月分は支給予定額)は、永野が八四〇〇万円、丙野が七六一〇万円、被告人石川が七四五〇万円、被告人藪内が七四四〇万円、被告人山元が六六六〇万円、被告人石松が六六五〇万円、被告人道添が六五四〇万円で、特に昭和五九年七月分以降は、それまでの三倍近い額の支給を受けるようになり、月額で、永野は七〇〇万円、被告人石川及び同藪内はいずれも六二〇万円、被告人山元、同石松、同道添はいずれも五五〇万円を受けていた。そのうえ、各役員は、毎月、交際費の名目で右役員報酬と同額程度の裏報酬の支給をも受けていた。

第四ファミリー商法について

一  ファミリー契約の変遷

豊田商事では、昭和五六年三月ころからファミリー商法を開始し、破産宣告の直前までこれを継続展開していたが、そのシステムの変遷状況は次のとおりである。

昭和五六年三月 一、二、三年もの純金・純銀・白金ファミリー契約開始

一年もの―――賃借料一〇パーセント

二年もの―――賃借料一七パーセント

三年もの―――賃借料二二パーセント

昭和五七年四月一日 受取手数料の変更

(純金の場合)

(従前)

五〇〇グラム未満 売買代金の五パーセント

五〇〇グラム以上一キログラム未満 同三パーセント

一キログラム以上 同二パーセント

(変更後)

一〇〇グラム券一枚につき五パーセント

五〇〇グラム券一枚につき三パーセント

一キログラム券一枚につき二パーセント

各券が示すグラム数の売買代金に右比率を掛けて最終的に合算する。

なお、純銀の場合は、一〇キログラム券一枚につき五パーセント、三〇キログラム券一枚につき三パーセント、五〇キログラム券一枚につき二パーセントであり、白金の場合は、一〇〇グラム券一枚につき五パーセント、一キログラム券一枚につき二パーセントであった。

昭和五八年六月三〇日 二年もの、三年もの純金・純銀・白金ファミリー契約の廃止

昭和五八年七月一日 五年もの純金ファミリー契約(賃借料年一五パーセント)の開始

昭和五八年八月二二日 五年もの純銀・白金ファミリー契約(賃借料年一五パーセント)の開始

昭和五九年三月五日 ファミリー契約約款第一〇条(金銭償還条項)の削除

昭和六〇年六月一〇日ころ

ファミリー契約発売の廃止

二  ファミリー商法の内容・構造

豊田商事におけるファミリー商法は、純金等の売買契約と純金等ファミリー契約を組み合わせたものである。すなわち、まず、顧客との間で純金等の売買契約(客が豊田商事から純金等を購入)を締結して、客から売買代金と所定の売買手数料を受取り、次いでファミリー契約を締結するのであるが、豊田商事発行の純金等ファミリー契約書及び純金等ファミリー契約証券の裏面記載の契約条項によると、「純金等ファミリー契約」とは、注文者(顧客)、受注者(豊田商事)間においての純金等の賃貸借契約であり、契約期間を一年又は五年(五年ものファミリー契約を発売する以前は、一年、二年、三年であった。)として、所定の「賃貸借料」(一年もの一〇パーセント、二年もの一七パーセント、三年もの二二パーセント、五年もの七五パーセント)を前払いし(一、二、三年ものは契約成立時に支払い、五年ものは契約成立時及び翌年から契約応当月に向こう一年間の賃借料を四回にわたって支払う。)、契約期間満了時に、同種、同銘柄、同数量の純金等を返還することとし(但し、昭和五九年三月五日付け業務通達第九二号により、金銭償還条項を削除するまでは、金銭による返還もできることとされていた。)、原則として、中途解約ができず、注文者の申出による解約の場合は、注文者は受取った賃借料を返還するとともに、純金等ファミリー契約取引(約款の文言のまま)の三〇パーセントを違約金として受注者に支払うこととされていた。しかし、純金等ファミリー契約は、契約書上は賃貸借契約であると明記していたが、賃貸借の目的物とするためには、取引の対象とされる純金等を他の純金等と区別できる程度に特定しなければならないところ、売買契約時に顧客に渡す納品書やファミリー契約証券等においてもインゴットナンバー等による特定はしておらず、また、純金等の返還については同種、同銘柄、同数量の純金等をもって返還する旨規定していることからみても、純金等ファミリー契約は賃貸借契約の実質は備えていなかった。

ところで、豊田商事の営業には、同社が純金等を客に売り渡し、あるいは客の所有する純金等を買い入れるいわゆる「現物取引」や、客の所有する純金等についてファミリー契約を締結する形態のものもあったが、それらの事例はいずれも僅少であって、ほとんどが純金等の売買契約とファミリー契約とを組み合わせたものであった。そして、その場合、顧客との間では、見本のインゴットを見せるだけで、純金等の現物の受渡しは行われておらず、客は単に「ファミリー契約証券」という紙切れ一枚を受取るだけであった。そして、豊田商事では、契約締結の時点ではこれに見合う純金等の現物を保有せず、契約期間が満了し償還する間際に仕入れるのが実態であった。したがって、このような場合は、純金等の売買とその賃貸借といっても、その実質はなく、これらを仮装したものといわざるを得ないものであった。

このように、豊田商事が純金等の売買契約とファミリー契約とを一体のものとし、かつ、契約締結時に顧客との間で現物の受渡しをしていなかったのも、同社としては、旧豊田商事時代の予約取引に基づく負債約二〇億円(修正前)を引継いで発足したもので、自己資金を有しておらず、しかも旧豊田商事時代の金ブラック業者という悪評もあったことから、銀行等の金融機関からの融資も受けられず、それゆえ、ファミリー契約締結時にこれに見合う金地金を保有するような資力は到底なかったし、豊田商事を運営維持していくためには、売買契約の際に受け取る販売手数料だけでは到底足りず、ファミリー契約を締結して、純金等の売買代金に手数料を加えた額から前払いの賃借料を差引いた額(これを豊田商事では「導入金」と称していた。)を全額取得する必要があったからである。したがって、豊田商事では、現引と称していた純金等の売買契約には、全く重きをおいておらず、歩合給の算定にあたっても、計算の対象となる売上は、ファミリー契約に至ったものについては導入額を算定基準にしていたのに対し、売買契約のみの場合は、販売手数料のみを算定基準にしており、両者には格段の差があったから、営業社員も必然的にファミリー契約の獲得に力を入れることになった。

以上のようなファミリー商法の実態をみれば、ファミリー契約により受入れた導入金は、実質的には、預り金すなわち会社にとって借金にほかならず、これが出資法に抵触するのを潜るために、また、顧客に抵抗感なく金銭を出資させるために、売買契約とファミリー契約という契約形式を巧みに組合わせ、導入金は純金等の売買代金であり、実質的には利息である「賃借料」もインゴットを預かったことによる賃借料という形に構成していたのであった。

そして、このことは、当初の純金ファミリー契約書第一〇条に、「純金ファミリー契約期間が終了した時は、受注者は純金ファミリー契約の純金を純金ファミリー契約証券と引換に金銭でお支払いする事もあります。但し、この場合は、満了日の純金ファミリー契約取引価格により換算します。」と規定していたが、右条項は、出資法に抵触するおそれがあるとの顧問弁護士の指摘により、前記業務通達第九二号により右条項を削除したことからも窺えるところであり、また、豊田商事におけるファミリー商法に関する経理処理の仕方からも読みとれた。

すなわち、売買契約により実際に顧客に対し純金等のインゴットを引渡し、売買代金と受取手数料を受領すると、その経理上の仕訳は、

(借方) (貸方)

現金 インゴット売上

受取手数料

となり、次いで、ファミリー契約を締結して先に顧客に引き渡したインゴットを受領し、賃借金を支払うと、その仕訳は、

(借方) (貸方)

インゴット仕入 インゴット受入金

賃借金 現金

となるべきである(なお、右「インゴット受入金」は豊田商事における造語であり、負債の勘定科目である。)。

ところが、前述のごとく、実際にはインゴットの現物の受け渡しが行われていなかったから、インゴット売上、インゴット仕入を計上することは架空計上となる。そこで、昭和五七年三月期の第一期決算を組む決算プロジェクトチームの責任者に指名された財務部職員の乙山七夫は、以前、会計事務の仕事に従事した経験を活かして、前記のような営業の実態を踏まえた仕訳方法を考案したが、それによると、契約締結時には、架空計上となるインゴット売上、インゴット仕入を立てず、賃借金は繰延資産に計上し、一年後に資産から費用に振替えて償却することとして、費用科目には「賃借金償却」という科目名を付することとし、また、インゴット売上は、ファミリー契約が満期を迎えてインゴットで償還した際に計上し、契約時のインゴット価格と償還時のインゴット価格との間に差額を生じたときは、差損、差益が出るので、その場合は「インゴット差損」、「インゴット差益」の科目を立てるというものであった。そして、右の仕訳方法によると、売買契約及びファミリー契約が締結されたときには、

(借方) (貸方)

現金 インゴット受入金

賃借金 受取手数料

と仕訳し、ファミリー契約が満期を迎えてインゴットによる償還が行われたときには、

(借方) (貸方)

インゴット受入金 インゴット売上

賃借金償却 賃借金

インゴット差損(もしくは)インゴット差益

と仕訳していた。したがって、インゴット受入金は、インゴットを預かった状態を示すものではなく、現金を受入れたことによる負債を示すものなので、その性質は預り金とみられ、賃借金も、インゴットを預かった賃借金ではなく、現金を預かったことに対する利息の性質をもつものであり、売買契約であるとか賃借金という用語は、実態を反映しない仮装のものであることを右仕訳方法は示していた。

そして、乙山は、昭和五七年二月ごろ、大阪豊田商事の役員会議で役員らに対し、右の仕訳方法を説明し、その了解を得たうえで決算を組み、以後も豊田商事では同様の仕訳方法で処理を行っていたが、役員らも右の説明のほか豊田商事の営業の実態からしても、導入金が実質的には預り金すなわち会社にとって借金であることは十分に認識していた。

三  セールスの実態

1 テレフォントーク

地方店舗のテレフォン嬢は、一般の電話帳及び入手した電話局の番号案内の際に使用する電話帳のほか、店舗によっては、さらに入手した老人クラブ名簿、軍人恩給関係名簿、高額所得者名簿、ロータリークラブ、ライオンズクラブ会員名簿等に基づいて、無差別に電話をかけ、たとえば、「おはようございます(こんにちは)。私、豊田商事の××と申しますが、御主人様(奥様)でいらっしゃいますか。当社は最近よく話題になっています純金を取り扱っている専門商社ですが、御主人様(奥様)は今までこういったお話をお聞きになったことがおありでしょうか。」などと切り出し、世間話を交えながら純金や利殖の話をして、相手方の住所、氏名、年齢、職業、家族構成、投資経験の有無、預貯金額等の資産状態等を聞き出したうえ、「当社は、買って下さいというのではなく、今後の参考のためと宣伝も兼ねて男子社員がお伺いして説明させていただきますので、気楽な気持ちで一度詳しく聞いていただければ良くわかっていただけると思うんですが、いかがでしょう。」などといって面談の約束を取り付けていた。そして、テレフォン嬢が電話をする時間は、午前一〇時から午後三時ころまでであったため、主として一人暮しの老人や家庭の主婦がその対象とされた。このようにして、相手方から聞き出した事項を面談用紙に記載し、これをテレフォン責任者がチェックしたうえ、営業部門に引き継いでいたが、テレフォン責任者は、営業社員の報告に基づき、契約成立に至ったものをA、面談はできたが契約成立には至らなかったものをB、不在であったものをC、門前払いされたものをD、面談用紙はあったが営業社員が訪問できなかったものをP(パンク面談)などと分類して、各テレフォン嬢の成績を把握し、その成績にしたがって、歩合給、賞金、賞品等を支給していた。なお、電話で話はできるが訪問となると渋る相手方や電話の途中で所用のため中断したような相手方で、面談のとれる可能性のあるものについては、「追客ノート」と称する帳面に、相手方の住所、氏名、電話番号、電話の内容等を記入し、面談がとれるまで何回も電話していた。ちなみに、追客ノートというのは、右のように何回も電話をして客を追うところから名付けられたものである。

2 現物トーク

営業の部長(席)もしくは課長(席)は、毎日朝礼終了後、テレフォン責任者から交付された面談用紙を各営業社員に割り当て(なお、支店によっては、成績の良い者には契約が取れそうな条件の良い面談用紙を、成績の悪い者には条件の悪い面談用紙を渡し、成績を上げればいい面談用紙を渡してやるなどと言って発破をかけていた。)、営業社員は、アプローチブックと称する金地金の説明パンフレット、他の金融商品との比較表、新聞の切り抜き記事等を入れた資料ファイル等を持って、面談用紙に基づき戸別訪問を実施し、たとえば、「私、豊田商事の××と申します。本日は私共の女子社員が電話でお約束しまして、お忙しい中どうも」とあいさつしてから、まず世間話をして相手の警戒心を解き、(この段階はアプローチと称されていた。)、純金の話を持ち出して、持参した純金インゴットの実物大の写真入りパンフレットを示しながら、「これが純金一キログラムの実物大の写真です。一番上に番号を打っていますね。その下に、スイスバンクと書いてありますが、世界で最も信用と権威のあるスイス銀行が発行したものであるという保証の刻印なんです。その下に一キロと出てますが、この純金が一キログラムあるという表示なんです。写真で厚みがわかりにくいと思いますけれども、大体この位あります(親指と人差指で厚みを見せる。)。手に持ちますとずっしりと重たいものなんです。それから、一番下に9が四つ並んでいますが、これを専門用語でフォーナインといいまして、純度を表わしているわけなんです。つまり、九九・九九パーセントの純金であるという意味で、日本流にいいますと二四金と思っていただいたら結構です。」などと純金について説明し、次いで、「純金の三大利点とはどういうことかと申しますと、純金は現金と同じで、無税であり、値上りが大きいということなんですね。純金イコール現金というのは、換金性に優れているということで、純金は、世界中いつでもどこでもその日の時価で現金化できるわけです(ここで、土地やダイヤの指輪等と比較する。)。無税というのは、金地金は工業用の素材とみなされてますので、税金がかかってきませんし、純金は土地や株と違って無記名ですから、税務署に把握されず事実上所得税や相続税がかからないということなんです。値上りが大きいというのは、新聞に、純金、石油、土地、株式の過去二〇年間の値上り率が書いてありますが、これを表に書いてご説明しますと(ここで実際に紙に書いて説明する)、たとえば昭和三五年に一〇〇万円あったとします。純金の場合、一七・四〇倍の値上りですから一七〇〇万円になったということなんですね。石油の場合一四・二倍で、土地の場合は一一・五四倍です。この三つは、どれも有限資源なんですね。だから値上りが大きいんです。ところで、一般の物価は一〇倍です。そして、銀行や郵便局の定期預金では、一〇〇万円を二〇年間複利で増やせば、四〇〇万円になるんですが、物価が一〇〇〇万円になってるわけですから、六〇〇万円目減りしているということなんです。ですから、以前は、銀行に預けておくぐらいだったら土地を買っておこうという人が非常に多かったんですが、今土地は値上りが鈍化してますし、税金が厳しくなっていますから、お金もうけのために土地を買うというのは無理になっています。純金は、今現在(昭和五八年八月)一キロ三三〇万円してるわけなんですけれども、五年前は一三〇万円だったんです。一〇年前の昭和四八年は八七万円です。昭和五九年の×月には一キロ四六〇万円になると専門家の予想が出ています。何故かというと、今世界中インフレでこれからどんどん物価が上がるという仕組みになってしまっています。そして、物価が上がれば純金は上がる。これは基本原則なんです。また、景気が上向いてきて、工業用の純金の需要が伸びてきますから、純金の価格は安定して高くなってきます。今すべての専門家が上がると言ってます。下がるという人は一人もいません。どうですか二、三キロいかがですか。」等とトークして純金の利殖としての有利性を言葉巧みに強調して購入をすすめ、相手方が興味を示してきたところで、クロージングと称する追い込み段階に入り、純金を購入するのは、銀行に預けるのと同じ、つまり銀行を変えるだけのことであり(あるいは預金の移し替えにすぎない。)、しかも、銀行預金との利率差が大きく極めて有利であって、預貯金の目減りを防止する有効な手段であるなどと説明して、不安の解消に努めたうえ、相手方が「主人と相談したい。」、「考えてみる。」などと言っても、「ご主人に相談をすればチャンスを逃がします。」、「今しかない。」などと切り返し、ときには、客の目の前で会社に電話を入れ、キャッチボールと称する煽りトークという手法を用い、たとえば、「今○○さん方にお邪魔しているのですが、課長、現在の香港値はいくらですか。ええ、そんなに上がっているのですか。ところで、在庫はありますか。ええ、売れた。残りはないのですか。困ったなあ。それじゃ、先に予約した○○さんの分から一部まわして下さい。ええ、大丈夫です。あの人は、私の得意客ですから、後で私が連絡して納得してもらいます。だから、その分を必ず押さえておいて下さいね。お願いしますよ。」などと独り言を言い、客に早く買わないと損だという気を起こさせるなど、うそを交えてあらゆる手段を用い、契約締結に持ち込んでいた。

客宅を訪問するに際して、セールスマンは、「電話を貸して下さい。」等と言って巧みに入り込み、相手方が断っても勝手に上がり込んでいた例もある。そして、セールストークをするのであるが、これがいわゆる「五時間トーク」と言われるものであり、一〇時間位粘ってセールストークをするといった例すら見られ、毎日のように長時間居座るセールスマンの粘りに根負けして契約をしたという人が多数いた。また、手土産を持参し、客の話相手になることはもちろん、肩をもんだり食事を作ったりというサービスをするセールスマンもあった。また、泣き落としもセールスマンの常套手段で、例えば「この月は成績が悪くてノルマを達成していない。このままの成績でいけば○○支店に飛ばされてしまう。なんとか私を助ける意味で契約をしていただけませんか。」等と言って契約をさせていた。

なお、営業社員は、客宅に入る前と面談終了後の最低二回は、担当課長に電話で報告し、帰社後面談用紙や営業日誌に面談結果を記載して提出することになっていたが、門前払いされたり、契約がとれなかったような場合には、上司から、「警察沙汰になったら身柄引受けしてやるから、何としてでも上り込め。はいそうですかといって引き下がってくるようなものは豊田商事の営業マンとは違う。」とか「客が警察を呼んでも警察が来るまで家を出るな。」などと叱責されることもあった。

また、老人と契約する場合には、後でキャンセル等のトラブルが多かったので、たとえば「子供さんや孫が来ても、絶対に純金を買ったと話をしないで下さいよ。内緒にしておいて、儲けた時に小遣いやと言ってびっくりさせてやったらよろしい。」と言い含めて、身内に知られないようにしたり、営業社員が保険会社、証券会社、銀行、郵便局等に同行し、あるいは印鑑、通帳等の必要書類を受け取り委任状を徴したうえで、解約や借入の手続を代行して代金を調達する場合が多かったので、そのような場合に備えて、各金融機関ごとの受付時間、解約・払戻・借入等の手続やそれに必要な書類等を記載した手引書を会社において作成していた。

さらに、一回契約をしたものには、増契約の形でその者の資産全部をファミリー契約に注ぎ込むようセールストークを続けていた。例えば、「まだ○○万円以上の預金があるではないですか。銀行等に預けていても利息は少ししかつかずマル優もききませんよ。それより当社で純金を買ってもらえば純金そのものも値上がりして得だし、当社に預けてもらえば五年契約で七五パーセントという高い賃借料を支払いますし、満期になれば預かった分の純金を返還しますので純金そのものの値上がりと賃借料で二重の得です。豊田商事は大きい会社ですし、つぶれる事はありません。約束は絶対守りますのでぜひ当社で純金をもっと買って預けてもらい金儲けをして下さい。」等とトークし、また時として景品などで相手方の気を引き、「もう五〇〇グラム買い足して三キロ買って当社に預けてもらいますと、うちの会社の費用で一〇日間のヨーロッパ旅行へ行ってもらうことができます。」等と言って増契約をさせるなど、虚偽を折り混ぜてセールスし、その結果多くの客が財産をほとんど根こそぎ奪われてしまっていた。増契約では、通帳などを見られて、まだ預金があることがセールスマンにわかり、契約させられたという人が多く、また客が、「お墓を作るのにどうしても必要だし、他には使えんのや。」と言っても「お墓みたいなものはいつでもこしらえられるでしょう、五年先でもお墓はできます。それまで当社に預けておきなさい。」といって契約させられてしまった人もいた。

3 ファミリートーク

純金等ファミリー契約については、ベテランの営業マンの場合には、売買契約締結後、引続き客宅で勧誘する場合もあったが、基本的には、客宅では手付けのみを受取り、残代金は会社で支払ってもらうことにしており、来社した客(場合によっては客宅まで迎えに行くこともあった。)を会社の豪華な応接室に案内し、豊田商事グループの関連会社名を書きつらねた豪華なパンフレットや会社案内ビデオを見せるなどして、豊田商事が優良、堅実な大会社であるかのように印象付けたうえ、課長等の管理職が応対して、ファミリートークをすることにしていた。その手口は、まず、支店・営業所に置いてある見本用の純金インゴットの現物を示して実際に客の手に持たせ、「これがあなたに買っていただいた純金です。営業マンが話したようにズシーンと重いでしょう。」などと申し向けて現物売買であるように装った後(ここで増契約をすすめることもある。)、安全・確実・有利な純金ファミリー契約などと記載された「純金ファミリー契約ご案内」というパンフレットを客に示しながら、「買ってもらった純金をただ持っているだけでは盗難のおそれもありますし、利息もつきません。しかし、それを会社に預けておけば安全ですし、保管料もいりませんし、そのうえ当社では預けていただいた純金を運用して高い収益をあげていますから、一般金融商品よりもはるかに高い一年もので年一〇パーセント、五年もので年一五パーセントの賃借料を前払いでお客さんに支払います。そして、満期になったら純金をお客さんにお返ししますから、賃借料と純金の値上りの二重の儲けとなります。」などと安全、確実、有利性を強調して、ファミリー契約に持ち込んでいた。そして、なおも不安を抱く客に対しては、「銀行はつぶれますか。もし、つぶれても国がお客さんの預金したお金は保証してくれます。豊田商事も純金を扱う会社ですから、もしものことがあっても国が保証してくれます。」などと説明して客の不安感をとり除いていた。

なお、昭和五八年一〇月二六日付け業務通達第八〇号により、後日解約がなされ違約金等をめぐってトラブルが生じたとき、営業マンがきちんと説明したという証拠を残しておくために、ファミリー契約書第一一条の中途解約の条項(昭和五九年三月五日付け業務通達第九二号により第一〇条が削除されたことにより、中途解約の条項はその後第一〇条となった。)にアンダーラインを引いて説明するよう指導する一方、営業社員が客宅を辞去するときには、パンフレットや書き込みをした社用箋等をできるだけ持ち帰って証拠を残さないよう指導していた。

4 セールス方法における虚偽性

右の勧誘方法のうち、純金の写真入りパンフレットを見せて、まず純金の売買契約を締結し、次いで来社した客に対し今度は見本用のインゴットを持たせるなどして現物取引であることを印象付けている点は、契約に際し、金地金の現物の裏付けがないという営業の実態を秘匿して、現物取引であるかのように仮装し、客の不安感を払拭していたものであり、純金の三大利点の強調、すなわち純金は現金と同じという点は、純金を客が保有しているのであれば格別、現物の裏付けのないファミリー契約証券という紙切れ一枚を渡し、しかも解約は原則的に認めておらず、解約する場合は高額の解約金を徴収する規定のあるファミリー契約の説明としては虚偽であり、無税という点は、純金の譲渡益にも課税要件を満たす限り課税されることからみて、これも虚偽もしくは不正確であり、値上りするという点は、純金相場は昭和五五年一月に最高値をつけて以来下落を続けており、これも何の根拠もないものであって、いずれも虚言であった。

さらに、豊田商事は、ファミリー契約は「安全・確実・有利」をうたい文句にしていたが、その実態は、関連会社のほとんどは欠損会社で収益をあげておらず、巨額の損失を抱えていたものであり、客がこれを知れば、到底契約に応じないことから、各地の一等地の一流ビルに入居している豊田商事の支店・営業所に客を来社させ、多数の関連会社名を記載した豪華パンフレットや会社案内ビデオ等を見せたりして、豊田商事が優良、堅実な大会社であり、預かった純金を有効に運用して多大の利益をあげているかのように客に思い込ませて不安感を払拭させ、純金等ファミリー契約を締結させて多額の金員を導入していたものである。

したがって、右のような多くの虚偽性を有する勧誘方法自体が、大きな反社会性を帯有しているものであって、現実の社会においていつまでも存在を許されるものではなかった。

四  ファミリー契約による導入金獲得の手段方法

1 導入至上主義の徹底

(一) 高額賃借料の支払

豊田商事は、昭和五六年三月ころ、ファミリー契約の企画会議を開催した際、賃借料について、一年ものについては一〇パーセント、二年ものについては一七パーセント、三年ものについては二二パーセントと設定したが、これは前述したように、具体的な運用計画を策定し収益率を想定するなどしたうえで割り出した数字ではなく、いかにして客に飛びつかせるかという観点から、当時の金融商品の利率(五ないし八パーセント)より高めに設定しただけであり、昭和五八年七月から発売された五年ものファミリー契約の賃借料年一五パーセント、五年で七五パーセントというに至っては、まさに常軌を逸した無謀な数字であって、経費を賄ったうえ、右賃借料を支払えるだけの収益を上げることは到底不可能な数字であって、導入至上主義以外の何物でもなかった。

(二) ノルマ制

豊田商事では、導入金獲得策の一環として、当初から導入金につきノルマ制をしいていたが、このノルマには、支店・営業所等に課されるものと、営業社員に課されるものとがあった。

支店・営業所等のノルマは、毎月役員会議で係別(昭和五七年六月一日から導入)、課別、支店・営業所別に、月間ノルマ及び日割ノルマを決定し、支店・営業所で営業社員に個人ノルマを設定していたが、昭和五八年三月一日付け役員通達第二六号により、継続ノルマ、週間ノルマを新設し、従来の導入額を基準とする導入ノルマに、継続ノルマを加え、両ノルマを合計した総合ノルマ制とし、ノルマ額も倍増した。そして、毎月全店の総合ノルマ表を作成して、各支店・営業所に配布していたが、このノルマを基準にして、後記のとおり、営業管理職に対する管理職手当や各種賞金が支給されていた。

一方、営業社員に課される個人ノルマは、支店・営業所等に課せられたノルマをさらに配分して課すものと、歩合給計算において、導入額もしくは継続額を加えた総合売上から控除するいわゆる「足切り額」と呼ばれていた一定金額によって規定されていた。右足切り額は、当初、月三〇〇万円(東京・横浜地区は四〇〇万円)であったが、昭和五七年六月一日から、月四〇〇万円(東京・横浜地区は五〇〇万円)に増額し、営業社員は歩合給を得るためには、毎月右足切り額以上の導入成績を上げなければならなかった。

(三) 歩合給、各種手当・賞金の支給、昇・降格人事

豊田商事では、右のようにノルマ制をしいて営業社員に発破をかける一方、導入の実績により、歩合給、各種手当・賞金の支給並びに昇・降格人事を行う等いわばアメとムチにより、導入額の増大を図っていた。

(1) 高額歩合給

豊田商事営業社員の歩合の変遷状況は、別表一一のとおりであって、昭和五九年三月ころからの高額歩合作戦では、五年ものファミリー契約につき総合売上から四〇〇万円(東京・横浜地区は五〇〇万円)を控除した金額の一五パーセントという高額歩合給を支給しており、実際手取額年間一二〇〇万円以上の高額歩合給を得ていた営業社員は二七五名の多数に上り、その最高額は約一億二五五〇万円であった。

なお、歩合給は、テレフォン嬢にも支給され、当初は、現物契約、ファミリー契約が成立した場合、契約一本につき五〇〇〇円、ファミリー契約につき全額入金された場合は一本につきさらに六〇〇〇円(ファミリー契約については、合計一万一〇〇〇円となる。)を支給していたが、テレフォンパート規約により、昭和五七年二月一日から、一万円以上の現物契約、ファミリー契約が成立した場合一本につき一〇〇〇円、ファミリー契約につき全額入金された場合は一本につき一万円(ファミリー契約については合計一万一〇〇〇円となる。)を支給する旨改正し、さらに、昭和五九年四月二七日付けテレフォン本部通達第六〇号により、同年五月一日から現物契約が成立した場合一本につき五〇〇〇円、ファミリー契約が成立した場合一本につき七〇〇〇円(現物契約からファミリー契約に進めば合計一万二〇〇〇円となる。)を支給する旨改正された。

(2) 各種手当、賞金・賞品の支給

豊田商事では、営業社員だけでなく課長席以上の営業管理職に対しても、支店・営業所あるいは担当課のノルマ達成率に応じて各種手当・賞金を支給することとしていたため、管理職においても導入額の増加を図るべく営業社員を叱咤激励したり、ヘルプと称して自らも営業社員を助けて死に物狂いでファミリー契約の獲得に努めていた。すなわち、営業管理職に対しては、基本給、役職手当、職制手当等の固定給の他に、昭和五八年八月五日から支店・営業所あるいは担当課の月間総合ノルマ達成率四〇パーセント以上(昭和五九年一一月一日から五〇パーセント以上)達成したことを条件に、一定の率で管理職手当を支給することとし、さらに、支店・営業所のノルマ達成を条件に、月間ノルマ達成賞金、週間ノルマ達成賞金、日割ノルマ達成賞金等の各種賞金を支給していた。

また、営業社員に対しても、導入成績に応じて営業手当のほか、新人賞、最優秀新人賞、敢闘賞、個人別順位賞金、月間ボーナス賞金、キロ単位賞、五〇〇グラム以上賞、即日賞金、継続契約特別賞金等の各種賞金を支給していた。

さらに、テレフォン部門においても、昭和五九年四月一日から月間ノルマ達成店のテレフォン責任者に対し、新規契約一本につき一〇〇〇円、地区別新規ノルマ達成率一位の支社のテレフォンブロック長に対し、新規契約一本につき五〇〇円の賞金が支給されるようになったほか、テレフォン嬢に対し、順位賞品、ゴールデンリボン賞、新人賞、支店長賞・所長賞、支店・営業所一位表彰賞品、全店表彰順位賞賞品、即日賞金、優良面談賞、五グラムインゴット賞、個人表彰賞金、新人賞等の各種賞金等を支給していた。

(3) 昇・降格人事

豊田商事では、営業社員の昇降格については、昭和五九年三月六日付け営業本部通達第四八号、同第四九号により、概ね各人の過去二か月の導入ゲージ(売上げ)を基準として実施し、○は昇格、△は降格として一覧表を作成し、全社員に知らせていた。さらに、地位によりバッジの色分けをしていた。

また、課長以上の営業管理職の昇降格についても、昭和五九年三月二一日付け営業本部通達第五〇号により、過去二か月トータルの月間総合ノルマ達成率(同年四月一一日付け営業本部通達第五二号により、月平均導入ノルマ達成率に改正された。)を基準としていた。

さらに、テレフォン部門においても、昭和五九年四月二六日付けテレフォン本部通達第五九号により、テレフォン責任者の昇降格基準を設け、ノルマ達成率を基準とした昇降格が行われていた。

(4) 表彰式

豊田商事では、毎月、大阪本社の近くの一流ホテルにおいて、全役員、支社長、支店長・営業所長らが出席して表彰式を開催し、成績の良い社員に対し各種の表彰を行っており、その模様はビデオに収録したり、社内誌「クラスター」誌上で紹介して社員間の競争意識を煽っていた。

2 豊田商事の実態の秘匿と仮装

豊田商事では、発足当初から欠損が続き、関連会社の収益も上がっていなかったことから、新規の導入金によってファミリー契約の満期償還を賄う自転車操業を継続していたため、かかる実態を外部に知られると、導入金を獲得することができなくなり、破綻することが必定であったため、会社の実態ことにその財務内容を顧客及び社員に知られることを極度におそれ、これを秘匿していたばかりか、積極的に優良堅実な会社であるかのように仮装して顧客から導入金を獲得し続けていた。

(一) 実態の秘匿

前記のとおり、昭和五八年一〇月及び同年一二月の二度にわたる弁護士らの公開質問状に対し回答を拒否し、昭和五九年九月の顧問弁護士会議で、顧問弁護士から要求された決算書の裁判所への提出を拒否し、昭和六〇年一、二月ころの豊田商事元社員らによる恐喝事件に際しては、赤字の決算書等が公表されることをおそれ相手方に二〇〇〇万円を交付したこと等のほか、会社内部から機密がもれることをおそれた永野の指示により、役員会議で配布していた使用可能資金報告書については、相当期間経過後、また決算報告書については第二期以降からそれぞれ配布しなくなったうえ、関連会社報告会で配布された各関連会社の月次報告書等についても一部の役員を除いて会議終了後回収し、さらに、昭和五八年九月二一日付け社長通達第四号「機密漏洩に対する懲戒の件」により、社員として知り得た社内事情を社外に公表し、又は漏洩することや、同業他社との連絡又はその社員との私的交際を禁止し、これに反した場合には即刻懲戒解雇する旨通達し、また、社員間で会社に対する噂話をしたり不平不満が出ることをおそれ、昭和五八年一一月二五日付け役員通達第三四号「飲食会主催による罰則の件」等により、社員間の飲食会を禁止し、違反した場合には、一回目が一階級の降格、二回目が懲戒解雇という厳しい罰則を設けたり、同様の理由で、役員通達第二四号により、社員間における平日麻雀を厳禁し、違反した場合には高額の罰金を課する等していた。

(二) 実態の仮装

会社実態の仮装としては、前記のとおり、永野や被告人藪内の指示により、第一期及び第二期につき赤字額を圧縮した公表決算報告書を作成して所轄税務署に提出し、また、第一期ないし第三期について黒字の粉飾決算書を作成して民間信用調査機関や貸ビルのオーナーらに配布し、豊田商事の本社、支店・営業所を各地の一等地における高級ビルに設け、店内も豪華な内装設備や調度類を備え、来社した客に、ペーパー会社を含む多数の関連会社名を記載した豪華パンフレットや会社案内ビデオを見せる等していたほか、昭和五八年八月、被告人藪内が、朝日新聞のインタビューに答え、あたかも豊田商事が高い収益を上げているかのような内容虚偽の発言をし、社内広報誌「クラスター」や顧客向けの広報誌「フォーナイン」に豊田商事が優良、堅実な会社であり、導入金を運用して収益を上げているかのような各種記事を掲載し、社員や顧客に無料で配布していたこと等があったが、その他、豊田商事では、顧客へのサービス、宣伝のため、客を一泊二日の船旅に招待して、船内で芸能人のアトラクション等を行う「トヨタゴールドフェスティバル」を企画し、合計二億数千万円をかけて、昭和五八年二月ころ大阪、名古屋地区で、同年一〇月ころ、北海道、東北、関東、中四国、九州の各地区でそれぞれ実施した。そして、その模様をビデオに収録したり、クラスターで紹介したりしていた。また、豊田商事では、営業社員らに対し、一切会社の内情を知らせず、むしろ逆に、豊田商事が優良、堅実な会社で、確実な運用を行っているように印象付けて、マスコミの批判等による社員の動揺をおさえ、ファミリー契約の獲得に邁進させていた。たとえば、前記社内広報誌「クラスター」で、豊田商事が順調に発展しているかのような役員の談話、インタビュー記事、関連会社及び事業紹介等の記事を掲載し、また、同誌の昭和五八年一一月号でマスコミ攻勢に対する反論記事を、昭和五九年九月号で「不当捜査と虚偽の自白」という題で弁護士の座談会記事をそれぞれ掲載するなどして、あたかもファミリー商法には問題がないように喧伝し、さらに、支店長会議の席上等において、運用について尋ねられた被告人石川が、「関連会社が収益を上げている。」とか「ゴルフ場の経営を始めているし、マリーナの買収も行っているから運用のことは心配しなくてよい。」、「豊田商事は、マスコミが言っているような悪いことはしていない。マスコミは詐欺だとか出資法違反だといって騒ぎ立てているが、顧問弁護士は詐欺にもならんし、出資法違反にもならんと言っているから、営業社員にも心配せんと売上向上に努力するよう伝えてくれ。マスコミがこれだけ豊田商事を攻撃するのは半分やっかみがあるからだ。豊田商事がこんなにたくさんの関連会社を持つ程大きくなってきた現在、仮に導入金が返せないような事態が起きたとすれば、国としても放っておけなくなり、たとえば他の大きな会社と合併させる等の何らかの手を打ってくれるに違いないから、豊田商事がつぶれるということは絶対にあり得ない。」等と発言し、被告人藪内も、部課長会議の席上で、「マスコミ等が当社を非難攻撃しているが、非難されているような事実は全くない。我々役員を信頼して、あてがわれた自分の仕事をきちんとやっていってくれ。」旨発言して、社員に対し会社の実態を隠蔽仮装して、ファミリー契約の導入に専念させていた。

第五豊田商事の財務状態と営業成績

一  第一期

1 大阪豊田商事の第一期の決算作業は、昭和五七年一月から、資金課主任の乙山七夫を責任者として、社内の経理に明るい者数名で構成された決算プロジェクトチームにより進められたが、その途中、被告人藪内や大阪豊田商事の顧問税理士福原稔から旧豊田商事の資産、負債を引き継いで決算を組むよう指示されたので、その方向で作業を進めることとなった。なお、昭和五七年二月ころ、大阪豊田商事の貴賓室で、永野、乙野、丙野及び当時役員をつとめる被告人らに対し、乙山七夫が同人の考案したファミリー契約の仕訳の仕方(前記第四の二のとおり)を説明し、永野らの了承を得たことにより、以後ファミリー契約関係については、右仕訳方法で処理することとなった。

ところで、旧豊田商事と大阪豊田商事のそれぞれの総勘定元帳は、昭和五六年九月ころから一体化して一通の元帳に記載されていたが、一体化するまでの旧豊田商事の総勘定元帳は昭和五五年一一月以降のものしか存在せず、また、総勘定元帳等は単式簿記による経理処理がなされており、かつ、記帳もれもあって、杜撰な処理がなされていた。そこで、乙山らは、可能な限り複式簿記による処理を行って整備していったが、ファミリー契約関係の勘定科目は、基磯資料である顧客台帳や伝票等が正確に記載されていたので、正確であったものの、その他の勘定科目は、時間の不足もあって必ずしも正確ではなく、とりわけ、永野が行っていた商品先物取引関係は、出金伝票に保証金、永野への貸付金、仮払金等と記載されているだけで、その内訳は明らかでなく、その実態はほとんど把握できなかったため、商品先物取引関係の出金はすべて貸借対照表の資産の部に差入保証金として計上し、損益計算書には商品先物取引関係の損益は計上しなかった。また、被告人藪内から乙山に対し、大きな損失を計上するわけにはいかないので赤字幅を縮少して八億円程度にとどめるよう指示がなされたので、乙山は、全体への影響をなるべく少なくするため、経費を減額し、貸借対照表では未収入金、予約未払金等不確定なもので調節した。

なお、豊田商事は、旧豊田商事の予約取引及びサヤ取引に基づく顧客に対する二〇億円を上回る返還債務を引き継いでおり、その支払いはファミリー契約による導入金によって行なっていたが、乙山らは右予約取引がいわゆる呑み行為であったことを帳簿の記帳内容から看取していた。

2 第一期の決算報告書を添付した確定申告書は、被告人山元が経理責任者として押印し、同被告人が被告人藪内に見せた後、永野に代表者印を押捺してもらったうえで、昭和五七年六月三〇日、所轄の北税務署に提出した。

右第一期決算報告書によれば、当期損失は、約八億八〇〇〇万円であり、当時の資本金は二億円で、財務状態は、資産が約一〇三億円で、負債が約一一〇億円であったから、約七億円の債務超過であることを示していた。なお、資産のなかには、賃借料約一〇億円が繰延資産として計上されており、差入保証金約二二億九〇〇〇万円が含まれていた。また、負債のうち、将来償還を要するファミリー契約によるインゴット受入金が、約八〇億円あり、前記予約未払金は、約二〇億円あったが、インゴットの在庫を示す棚卸商品(ほとんどが純金)は、約七億円しかなかった。次に、営業成績は、売上高約五二億円から売上原価約三三億円を差し引いた売上総利益が約一九億円であるのに対し、販売費及び一般管理費は約二九億円にのぼり、営業損益は約一〇億円の損失であった。

その後同年七月、永野、乙野、丙野、丁月、被告人藪内、同山元、同石松らが出席して役員会議が開催され、財務部経理課長の乙山七夫が右決算報告書の写しを役員の回覧に付したうえ、その概要を説明したが、当期損失が約八億八〇〇〇万円であるとの説明に対し、被告人石松が、「何故赤字額がそんなに少ないのか。」と発言し、永野から「お前は財務のことは判らんやろから黙っとけ。」と言われる一幕もあった。乙山は、右決算報告書の写しと共に、同人が作成した満期償還に備えて「準備金制度」を創設することを提唱した「経理におけるファミリー契約の処理及び考え方」及び「経理における予約契約の処理及び考え方」と題する書面等を役員の回覧に付したうえ、導入金の性質は、受入金もしくは預かり金といった負債であるから、満期償還に備えて純金を備蓄しておく必要がある旨説明したが、それをするだけの資金的余裕もなく、永野らに無視され、結局採用されなかった。

なお、決算プロジェクトチームが作業を開始してから一か月少々で、そのメンバーの約半数が、大阪豊田商事の財務状態を知り、同社が早晩倒産することを察知して退社した。また、第一期の決算作業が終了した後、乙山が財務分析をしたところ、最悪の状況で、倒産しても仕方がない数字が出て、ファミリー契約の客の立場になると、このような財務状態を知ればとても契約はしまいと思ったが、その結果の報告等はしなかった。

その後、第一期の確定申告書に添付した明細書中、福岡市の土地の譲渡に関する記載に誤りがあったので、昭和五七年九月八日その部分の修正申告をした。

二  第二期

1 第二期においては、昭和五七年三、四月ころ財務部が発足し、その下に資金課、経理課、出納課ができるなど組織が整備されるとともに、同年六月、経理課長になった乙山七夫の指導で、複式簿記による経理処理を行うようになった。そして、同年六月末ころ、経理課が本社経理係と支店経理係に分かれ、支店経理係では各支店・営業所ごとのファミリー契約に関する勘定科目の記帳を行い、本社経理係は、支店経理係が担当しない残り全部の勘定科目を経理処理することになったが、本社経理係では、総勘定元帳と補助元帳を備え、支店経理係は、支店・営業所ごとの総勘定元帳と経理用の顧客台帳を備え、これらの帳簿により本社において経理状況が把握できることになっていた。一方、従前から各支店等には小口現金のみを持たせて、その出納結果だけを帳簿に記帳させており、顧客から受け入れた現金は毎日全部本社の銀行口座に振込送金させ、賃借金の支払や償還については、必要の都度本社から支店に現金や金地金を送付することとして本社が資金の集中管理をし、支店等では入金入庫伝票、出金出庫伝票及びそれらをまとめた一覧表等を作成して、本社の業務課へ送付し、そこから更に本社の支店経理係に回して帳簿に記帳していたので、正確な経理処理が行える体制になった。なお、これにより本社経理係は本支店勘定しか見ることができず、支店経理の方が把握しているインゴット受入金の残高の動きがよく分からないのに対し、支店経理係の方は本社経理係が把握している豊田商事全体の資産や販売費及び一般管理費等の各残高がよく分からないことになったが、このようにしたのは、社員が会社の内情を知ってやめてゆくようなことがないようにするためであった。

他方、第一期決算についても修正を要する点は修正を行った結果、第二期の財務諸表は、全体として精度は高くなった。もっとも、永野の商品先物取引の詳細は、財務部に知らされていなかったので、第二期においても、商品先物取引関係で出金した総額約一〇三億円につき、これを全て委託保証金とみなして科目上は差入保証金に計上した。もとより損益額も不明であったが、乙山が被告人山元から、永野が商品先物取引で五〇数億円の利益を上げたと聞いたので、被告人藪内の了解を得て、これを利益として計上することとし、これに、乙山と被告人山元が他の役員らに内密にして行っていた純金の先物取引の利益金を合算して商品売買利益として約五七億円を計上した。したがって、商品先物取引関係の科目は不正確であった。

なお、決算作業中に、乙山七夫は被告人藪内から何度か報告を求められ、その都度報告していたが、その途中で同被告人から、第一期と同様赤字額を圧縮するよう指示があった。

2 昭和五八年六月三〇日、乙山は被告人藪内及び同山元に、出来上がった決算報告書の写しを手渡し、主だった科目を説明した。そして、被告人藪内が経理責任者として押印した後、被告人山元が永野に見せたうえ、同被告人が保管していた永野の代表者印を押捺して、決算報告書を添付した確定申告書を北税務署に提出した。しかし、財務内容の外部への漏洩をおそれた永野が乙山に、以後決算報告書を役員会議に提出しないよう指示したことにより、第二期分以降は、決算報告書を役員会議に提出することはなくなった。

右第二期決算報告書によれば、当期損失は、約三〇億円であり、当期未処理損失は約三九億円であった。また、当時資本金は二億五〇〇〇万円で、財務状態は、資産が約三三四億円で、負債が約三七〇億円であったから、約三六億円の債務超過であることを示していた。しかも、資産のなかには、賃借料約二六億円が繰延資産として計上されていた。また、負債のうち、期末におけるインゴット受入金残高は、約二五六億円で、第一期の残高の約三倍に達したが、インゴット棚卸高は約一六億円(純金は約三五二キログラム)で、第一期の約二倍となったにすぎなかった。これはとりもなおさず、豊田商事がファミリー契約に対応する純金等を契約締結時には保有しておらず、償還間際に仕入れていること、また、純金等の備蓄もほとんど行っていなかったことを物語るものであった。

ちなみに、豊田商事では、各支店・営業所に、昭和五六年一二月四日付け総務通達第一三一号により、見本用の純金インゴットとして、Aセット二キログラム(一〇〇〇グラム一本、五〇〇グラム一本、一〇〇グラム五本、スイスバンク(SBC)銘柄のもの)、Bセット二キログラム(同上、クレジットスイス(CS)銘柄のもの)を、現物取引用に三キログラム(一〇〇〇グラム一本、五〇〇グラム二本、一〇〇グラム一〇本)を、それぞれ在庫しておくように指示しており、昭和五八年三月期に実地棚卸を行った結果、当時の三八支店等には平均七キログラムが保有され、本社においては九〇キログラム(二億九〇〇〇万円相当)しか保有していなかったが、豊田商事が最も金地金を保有していた時期は、この頃であって、合計約三五〇キログラムが最高であった。なお、昭和五八年四月二二日付け業務通知第二六号により、各支店・営業所では、Aセット(二キログラム)だけを保管することとし、これは絶対に売ってはいけないことが指示された。

次に、営業成績は、売上総利益約八九億円から販売費及び一般管理費約一二〇億円を差し引くと、約三一億円の営業損失を計上していた。また、期末における関連会社に対する貸付金残高は約四三億円に達していたが、貸付期限は定められておらず、貸付利息は一応決められてはいたが、ファミリー契約における賃借金より低い年一〇パーセント以下であった。しかも、ほとんどの関連会社は赤字であったから、貸付金はおろか利息もなかなか回収できない状態で、期中に関連会社から現実に受け取った貸付利息は約六一〇〇万円で、科目上「利息収入」「受取利息」の両方に銀行利息の約四〇〇万円とともに計上され、未収の貸付利息は貸付金に振替えられた。なお、勘定科目中の証券インゴット勘定というのは、第二期中だけ売り出していた純金証券に関するものであり、期末における純金証券の代金残高は、約七二億円であったが、損益計算書の売上高の部の証券インゴット勘定が約五億九〇〇〇万円であるのに対し、売上原価の部の証券インゴット勘定は約六億円であり、純金価格の値下がりにより、結果的に大した損失は出なかった。

3 以上のように、豊田商事の財務状態の悪化は、一層深刻なものとなったが、被告人藪内及び同山元は、右のとおり決算報告書を見てその詳細について認識していた。

ところで、財務部では、第二期に入ってすぐに、導入金、元本償還金、契約払、協定書払、賃借料、販売費及び一般管理費等の金額の明細を一覧表にした「資金運用表」(その後「使用可能資金報告書」と名称を変更した。)並びに「導入金と経費の対比表」を毎月作成して役員会議で配布するようになった。もっとも、使用可能資金報告書は、破産直前ころまで作成を続けたものの、資料の内容が外部にもれることをおそれた永野の指示で、相当期間後配布を中止したが、導入金と経費の対比表は、昭和六〇年二月に豊田商事が銀河計画の関連会社報告会に出席するようになってからも、月次報告書の一資料として配布が続いたため、これにより導入額、販売費及び一般管理費の各科目の金額、導入額と経費の比率等が役員にも理解できるようになっていた。したがって、たとえ、決算報告書を見る機会のなかった被告人らにしても、これらの資料により、第二期の導入額が約三〇四億円であるのに対し、販売費及び一般管理費は約一二〇億円であって、平均の経費率は約四〇パーセントという高率であることを認識していたものであり、その後も豊田商事の支店増設や高額な歩合給等の支給により経費が増大している反面、導入金の運用による収益は上がっていないことなどから赤字額が以前にも増して増加していることは容易に認識し得た。

三  第一期及び第二期決算の見直しと修正

昭和五八年九月五日、大阪国税局の職員約二〇名が豊田商事の税務調査に赴き、旧豊田商事と大阪豊田商事の決算の分離と商品先物取引の洗い直しを要求し、また、役員に支給していた交際費は、役員報酬と認定する旨告げた。そして交渉の結果、右決算の分離はしなくてよいことになったが、商品先物取引を含め全勘定科目について見直しを行うこととなり、右職員らが常駐する中で、乙山とその部下の丁川四郎らの財務部員が第一期及び第二期決算について全科目の洗い直しを行なった。その結果、永野の商品先物取引は、生糸で儲けはあったものの、最終的には失敗に終わり、乙山が先に聞いていた五〇億円程度儲けたという話は嘘であったことが判明し、差入保証金の昭和五八年三月末の残高は、僅か約四億二〇〇〇万円で、商品売買差損は実質上総額約三〇億円となり、うち約一四億円の損失を菊池商事で計上させて同額を豊田商事が菊池商事に貸付金をたてる形をとり、豊田商事自体の損失は約一六億円とした。

そして、他の勘定科目についても修正を加えた結果、第一期の当期損失及び当期末処理損失は、約八億八〇〇〇万円が約三五億円に、第二期の当期損失は、約三〇億円が約一五八億円にそれぞれ修正され、第一期の当期未処理損失に第二期の当期損失を加えた第二期の当期未処理損失は約一九三億円に修正された(別表一二、一三の第一期、第二期の各勘定科目の金額は、見直し修正後のものである。)。

そこで、財務部員は、昭和五九年三月、第一期及び第二期分につき、その修正内容を特別貸借対照表及び特別損益計算書にまとめ、第二期分については、これに各勘定科目の内訳明細書を添付して、大阪国税局に提出した。

この作業中、乙山は、永野、被告人藪内、同山元から、時々状況の報告を求められてその都度報告しており、作業が終了した時点でも、被告人山元は乙山から説明を受けたうえ、一緒に被告人藪内、次いで永野のところに報告に行った。その際、被告人藪内は、その内容を見て「何とかならんのか。」と言ったが、永野は、「この数字しかしゃあないやろ。」と言って、止むを得ないという態度だった。以上のように、右被告人らは、見直し修正後の決算報告書を直接見てその内容を認識していた。

四  第三期

1 第三期決算においては、前記のとおり、期中の昭和五八年九月から第一期及び第二期の決算の見直しが行われていて、第二期の貸借科目の残高が確定していなかったため、丁川四郎の指示で、ひとまず期中発生額を正確に把握することとして、大阪本社、同管内各支店等、東京本社、同管内各支店等の合計残高試算表を作成し、さらにこれをまとめた全社試算表を作成した後、貸借対照表については、前記第二期の特別貸借対照表の期末残高を加算したうえ、これに決算修正を行った。

このように、貸借対照表は、貸付金勘定等に不確定部分があったものの、期中発生額を示す損益計算書は正確であったので、これが示す第三期の当期損失約一八四億円に、第一期及び第二期の見直し修正した特別損失である前期損益修正損約一五四億円及び第二期の見直し前の公表決算書における当期未処理損失約三九億円を加えると、第三期の当期未処理損失は約三七七億九〇〇〇万円となり、本来これが正確な欠損額であった。ところが、この金額を貸借対照表の損失と一致させようとした丁川四郎は、損益計算書に計上した右当期未処理損失の約三七七億九〇〇〇万円を、誤って貸借対照表の当期損失にもってきたため、第三期の当期未処理損失は、約三七七億九〇〇〇万円に第二期の当期未処理損失約三九億円を加えた約四一七億円としてしまい(三九億円を二度にわたり計上する誤りをおかしたことになる。)、損失処分案でも約四一七億円を当期未処理損失としてしまった。そして、貸借対照表の当期損失に合致するよう貸付金の科目を調整用として使い、一二億円程度を架空計上して約一六六億円とし、決算報告書を完成させた。また、貸借対照表の流動資産の有価証券勘定に約一億円の計上もれがあり、土地建物勘定も計算間違いや転記間違い等により約九億円少なく計上したが、この段階では、丁川は右誤りに気付いていなかった。

乙山は、決算作業中に、永野や被告人藪内から、様子を聞かれるたびに報告していたが、昭和五九年六月三〇日、出来上がった右決算報告書を添付した確定申告書を被告人山元のもとに持参して決算内容を報告した。ところで、被告人山元と乙山は、財務サイドで償還に備えて昭和五八年終りか昭和五九年初ころから導入金の中から毎日二キログラムの純金を購入するようにしていたが、せっかく購入した純金も給与支払いの財源に充てるために同年四月から五月にかけて売却してしまい、純金の備蓄が出来なかったので、乙山は、被告人山元に対し、「純金のヘッジをもっとして下さい。何とかしないと動きがとれなくなりますよ。」と言ったが、純金を大量に仕入れるだけの資金がなかったので、同被告人の返事はなかった。その後、被告人山元は、右確定申告書を永野のところに持っていって見せたところ、同人は、「どうしようもない。この赤字を消そうとしたらウルトラCがいるな。」と述べていたが、永野の了解を得て、同被告人が保管していた代表者印を押捺した。そして、本来であれば、被告人藪内にも報告して確定申告書の経理責任者欄に押印してもらうべきであったが、当時同被告人はエバーウェルシー台湾で不正を行っていたことが発覚して永野の信頼を失い、約二、三か月間干されていた時期で、同被告人に決算書を見せる必要がないと言われていたことから、右経理責任者欄は空欄のままで同日北税務署に提出した。

ところが、その直後、丁川は、控えの決算報告書を見て、貸借対照表の当期未処理損失約四一七億円と損益計算書の当期未処理損失約三七七億九〇〇〇万円との相違に気付き、損益計算書の方を誤りと思って、その当期未処理損失の下に「計」と書き加えて、約四一七億円とし、貸借対照表の数字と一致させたうえ、先に提出していたものと差し替えた。

2 右第三期決算報告書は、前記のとおり、貸借対照表の貸付金勘定、有価証券勘定、土地建物勘定に架空計上や計上もれがあるが、損益計算書は正確に作成されており、これに示された第三期の当期損失は約一八四億円、当期未処理損失は約三七七億九〇〇〇万円というのが正確な数字であった。

また、当時資本金は第二期同様、二億五〇〇〇万円で、財務状態は、公表決算書上、資産は約三七四億円、負債は約七八八億円であり、約四一四億円の債務超過に陥っていた。そして、負債のうち、期末におけるインゴット受入金残高は約七五六億円で、第二期の見直し後の残高約二九一億円の二・六倍となって、四六五億円の増加を示した。ところで、第二期までに契約されたファミリー契約の大部分が一年ものであったから、第三期の期中に償還されるべきものであり、他方第三期の導入額は約五四〇億円であったから、第二期までの契約分が償還されておれば、第三期の期末の受入金残高が約七五六億円にも達することはなかったはずであり、これは取りも直さず第二期までの契約分が再契約により継続されたことを示していた。このように、受入金残高が約七五六億円もの巨額に達したのに、資産は約三七四億円しかなく、しかもこのうちの繰延資産である賃借金残高約八三億円は、計上後一年を経過すると費用に振り替えられて償却されることから実質的には資産価値がないので、これを除くと資産は約二九一億円しかなかった。これに対し、期末のインゴット棚卸高は、前記(第五の二の2参照)業務通知第二六号により、各支店・営業所が保管しておくべき純金インゴットを従前の七キログラムから二キログラムに減らしたこともあって、第二期の約一六億円を大きく下回り、約六億円(純金については約二一四キログラム)にしかすぎなかった。なお、期中のインゴット仕入量は約二四〇億円(純金については約二三二億円)であったが、満期償還や現物取引でこれらを手離してしまったので、期末の在庫は前記の数量しかなかった。また、第三期のインゴット差損益は、インゴットが値下がりしたために約二一億円の純差益になった。

次に、営業成績は、売上総利益約四六億円から販売費及び一般管理費約二三一億円を差し引くと、約一八五億円の営業損失となり、経常利益でも約一八四億円の損失を計上した。なお、右売上総利益は、主としてインゴット差益、顧客から受け取った受取手数料、解約金、関連会社からの受取利息によっているところ、導入金の運用利益といえるのはこの受取利息約一七億円しかなかったが、これとても実際の入金は少なく、未収金は貸付金に振り替えられていた。

五  第四期

1 昭和五九年四月、関連会社の統括会社として銀河計画が設立されたことに伴い、以後同社が豊田商事のほか手持ち資金を保有するようになったベルギーダイヤモンドや鹿島商事から資金を借り入れて、これを関連会社に貸し付けることになった。そして、豊田商事の関連会社に対するそれまでの貸付金は、銀河計画に振り替えられ、以後の分については、すべて銀河計画に対する貸付金として計上することになり、それに対する受取利息も相手方を銀河計画とすることになった。

豊田商事の財務本部では、第四期においても日計表、試算表等を正確を期して作成し、第三期当時計上もれ等をしていた前記の有価証券勘定、土地建物勘定については期中これに気付き、同額分貸付金勘定を減額して正しい状態に戻した。

ところで、永野は、前記のとおり、豊田商事に捜査の手が伸びることをおそれ、豊田商事の第四期決算と銀河計画の第一期決算に必要な帳簿類を香港に送り、その余の帳簿類は廃棄させた。そこで、豊田商事の第四期決算作業は、銀河計画財務本部長であった乙山及び豊田商事財務本部長であった丁川のほか、豊田商事大阪本社から三名、同東京本社から二名、銀河計画から三名の財務部員が香港に派遣されて同所で行われたが、作業の進んだ昭和六〇年六月一五日ころ、永野から、すべての帳簿類を廃棄するよう指示があった。しかし、乙山らは、経理マンとしての良心から全面的には従わず、財務諸表の作成に最小限必要なものだけは残すこととし、それまでに作成していた決算修正振替伝票、経理修正仕訳一覧表、貸借科目の大部分及び損益科目の一部の内訳明細書等の資料は残し、その余の多数の帳簿、伝票類を香港で廃棄した。そして、その直後の同月一八日、永野が殺害されたため、乙山と丁川は、右資料を香港に置いて同月二七日帰国したが、その段階では、銀河計画の第一期決算書は既に出来上がっており、また、豊田商事の分は、多数の内訳明細書等が出来上がっていて、最後の詰めの段階であった。そして、豊田商事破産後の同年七月一六日ころから、乙山や豊田商事大阪本社財務部員らが香港から返送された資料をもとにして豊田商事第四期の決算報告書を作成し、同年八月上旬ころ、破産管財人に提出したが、昭和五九年三月期の残高と右乙山作成の決算報告書の前記繰越損失が不一致であること等が判明したので、その後さらに、丁川が、修正決算報告書を作成した。このような経過で作成された財務諸表には作為的な数値はなく、ことに損益科目については第三期と同様正確であった。

2 第四期決算報告書によれば、当期損失は約三二七億円であり、当期未処理損失は、前述の前期繰越損失過大計上額約三九億円を差し引くと約七〇五億円であった。また、財務状態は、資産約七三五億円に対し、負債が約一四七七億円であり、その差額から前記約三九億円を差し引いた約七〇三億円の債務超過となった。なお、昭和六〇年三月期のインゴット受入金残高は約一四二八億円に達し、昭和五九年三月期の約七五六億円に比較し二倍近くとなって、約六七二億円の増加を示した。これに対し、資産は約七三五億円しかなく、しかも、このうちの繰延資産である賃借金約二〇四億円は実質的には資産価値がないので、これを差し引くと約五三一億円しかなかった。また、期末のインゴットの棚卸高は、第三期の約六億円を下回って約五億円(純金については約一七四キログラム)しかなかった。さらに、期中のインゴット仕入量は約三三五億円であったが、第三期と同様に満期償還や現物取引で売り上げてしまった。なお、純金は値上がりするとのセールストークとは裏腹に、純金が値下がりしたため約八〇億円のインゴット純差益を生じた。

次に、営業成績は、売上総利益が約七九億円であるのに対し、販売費及び一般管理費は第三期の二倍近い約四一六億円を費消したから、営業損益は約三三七億円の損失で、経常損益は約三一九億円の損失を計上した。ちなみに、販売費及び一般管理費の増大の最も大きな原因は、役員報酬と給与の増大で、役員報酬は、第三期の約一億九〇〇〇万円から約六億円に、給与は、第三期の約一四二億円から約二倍の約二九五億円にそれぞれ増加したものであり、第四期の導入額約九二一億円の実に三割がこれらに費消されてしまった。

ところで、各期の導入額と決算書の販管費によって計算すると、経費率は第一期が約四五・七パーセント、第二期が約四四・七パーセント、第三期も四二・七パーセント、第四期には約四五・二パーセント、昭和五九年八月には五〇パーセント台に達したのであるが、被告人ら役員は、昭和五七年四月ころから役員会議において経費率の一覧表を見ていたので、このような情況は十分認識することができた。このようにして、第四期においては、おおよそ、役員や社員に対する報酬、給与等の人件費が導入額の約三〇パーセント、その他の経費が一四・三パーセント、償還及び二回目以降の賃借金の支払に約三二・二パーセントを回し、その残りである約二三・五パーセントがゴルフ場、マリーナ等の買収費や関連会社に対する貸付けに回されていた。

たとえば、昭和六〇年一月の使用可能資金は約一三億九〇〇〇万円であって、導入額の一九・二パーセントにすぎず、これからゴルフ場等の買収に伴う手形支払金約八億七〇〇〇万円及び鹿島商事の販管費約六億一〇〇〇万円を支払わねばならず、足りない分は持越し分の二億円のほかベルギーダイヤモンドから約二億円を引きとって、海外タイムス等関連会社に融資するなどして、何とか切り抜けたが、被告人山元は、常にこのようなやり繰りをしながら急場を凌いで来たものの、このような財務状態の中で、昭和五九年末ころから、無軌道なゴルフ場等の買収による手形支払額が急速にふえ出し、資金繰りがゆきづまるのも最早時間の問題となった。

六  第五期

第五期の決算報告書は、第四期の残高を踏まえ、豊田商事が破産宣告を受けた昭和六〇年七月一日現在をもって破産管財人のもとで作成されたものである。

第五期決算報告書によれば、当期損失は、約一四二億円であり、当期未処理損失は、前述の前期繰越損失過大計上額約三九億円を差し引くと約八四七億円であった。

そして、財務状態は、資産約七七三億円と負債約一六五七億円の差額から第三期の二重計上された約三九億円を差し引くと、約八四五億円の債務超過であった。また、昭和六〇年七月一日現在のインゴット受入金残高は、第四期の残高に比し約一〇九億円増加して約一五三七億円に達したのに対し、資産は約七七三億円しかなく、しかも、繰延資産の賃借金約二二〇億円を差し引くと、実質的な資産は約五五三億円しかなかった。インゴットの棚卸高については、同年六月一〇日ころ、ファミリー契約の発売を中止したことに伴い、将来の償還用に必要であったのに、各支店・営業所にあるインゴットをすべて大阪本社に集め、純金一〇二キログラム余、純銀二一七キログラム、白金二キログラムを代金合計約二億六〇〇〇万円で売却したことにより、残高はなくなった。

また、営業成績は、売上総利益は約七億円であるのに対し、販売費及び一般管理費に約一四八億円も費消されたため、営業利益は約一四一億円の損失であり、経常利益は約一四二億円の損失であった。

第六銀河計画の財務状態と営業成績

銀河計画は、現金収入のある豊田商事、ベルギーダイヤモンド及び鹿島商事から調達した資金を各関連会社に貸付けて徴収する貸付利息と、豊田商事、ベルギーダイヤモンド、鹿島商事、トヨタゴールド及び日本高原開発の五社からの経営コンサルタント料を主な収益源としており、他方、営業費用は、販売費及び一般管理費のほか、豊田商事からの借入金に対する借入利息(月利一パーセント)が主たるものであって、その営業損益は、グループ各社との取引による内部損益にとどまるものであり、その収益は、ファミリー契約の償還金の財源にはなり得なかった。

銀河計画の経理処理は、財務本部において、毎月、銀河計画と関連会社間の貸付金、借入金残高を照合し、一致しない場合は、その原因を究明して一致するように努め、さらに、昭和五九年一一月以降は、これら貸付金、借入金を含め銀河計画の全勘定科目の経理処理をコンピューターに入力してこれを総勘定元帳として用い、正確を期していた。

一  第一期(昭和五九年四月一四日~昭和六〇年三月三一日)

第一期(昭和六〇年三月期)の決算作業は、銀河計画の財務本部職員らが昭和六〇年四月ころから開始し、その後永野の指示で香港に帳簿類を送付したことにより同所で行い、同年六月中旬ころ決算報告書が完成した。

右決算報告書によれば、第一期の当期利益は、約一億七〇〇〇万円であり、その財務状態は、資本金五〇〇〇万円で、資産約四五五億円に対し、負債約四五二億円であった。そして、資産のうち、貸付金残高は約二六二億円で、その内訳は、菊池商事に対する約四二億円、豊田ゴルフクラブに対する約三〇億円、鹿島商事に対する約一九億円、ベルギーダイヤモンドに対する約一七億円をはじめとして関連会社に対する合計約二五八億円と個人に対する約一億円、関連会社に対する長期貸付金約三億四〇〇〇万円(海外タイムスに対する約一〇〇〇万円、トヨタゴールドに対する約三億円、株式会社ムサシノ・エンタープライズに対する約三〇〇〇万円)であり、他方、負債のうち、借入金は、豊田商事から約三〇〇億円、白道株式会社から約一九〇〇万円、預金担保で銀行から約一億円合計約三〇一億円であった。なお、豊田商事は銀河計画に約三五七億円の貸付金を計上しているのに対し、銀河計画は、豊田商事からの借入金を約三〇〇億円しか計上しておらず、約五七億円の差異があるのは、豊田商事の銀河計画に対する貸付金のうち一億二〇〇〇万円は手形貸付で、銀河計画の決算書では手形借入の科目に計上していること、さらに豊田商事が銀河計画設立前に海外現地法人エバーウェルシーに貸付けていた約五五億九〇〇〇万円が回収不能となったところ、豊田商事は銀河計画の設立に伴ってこれを銀河計画への貸付に振り替えたのに対し、銀河計画側ではこれを受入れなかったことが相違の原因であった。また、銀河計画では、豊田商事、ベルギーダイヤモンド等一部の関連会社を除き、関連会社の手形、小切手用紙、銀行取引印等を保管しており、ゴルフ場の買収費用やベルギーダイヤモンドの物品税支払等のために、豊田ゴルフクラブやベルギーダイヤモンドに対し、銀河計画が振出した手形を貸付け、あるいは日本高原開発等を振出名義人とした手形を銀河計画が借り受けて裏書したうえ貸付けるなどしており、このような手形貸付金として約一二九億九〇〇〇万円を計上し、他方、手形借入金として約一二一億九〇〇〇万円を計上していた。ところで、豊田商事の昭和六〇年三月期のインゴット受入金残高は、約一四二八億円に達していたが、導入金の運用としての銀河計画に対する貸付は、前記の約五七億円を銀河計画に対する貸付とみなしても、期末までに右一四二八億円のわずか二五パーセントにすぎない約三五七億円しか銀河計画に貸付けていなかったことになり、しかも、銀河計画ではこのうちから自己の設備造作、什器備品、敷金保証金や関連会社への出資金(約一四億円)等に支出し、残り約三一九億円(前記貸付金残高約二六二億円に右五七億円を加算した額)しか関連会社の運転資金に投入できなかったのである。

次に、営業成績については、売上総利益が約一九億円であるのに対し、販売費及び一般管理費は約一七億円であり、営業利益は約一億六〇〇〇万円、経常利益は約一億七〇〇〇万円であった。なお、営業収入については、前記コンサルタント収入として約二四億円(コンサルタント収入は、毎月対売上比率で計算しており、豊田商事と鹿島商事は各一パーセント、ベルギーダイヤモンドと豊田ゴルフクラブは各三パーセントであったが、日本高原開発のみ定額で一か月三〇万円であった。)、貸付利息収入として約二二億円(収益状況等を勘案して豊田商事、ベルギーダイヤモンド、豊田ゴルフクラブ等に対してのみ、月利〇・五パーセントから二パーセントの利息を課していた。)を計上したが、右コンサルタント収入及び貸付利息収入のうち、約二六億円が未収入金であった。他方、営業支出としては豊田商事からの借入に対し、月利一パーセント(年利一二パーセントで、五年ものファミリー契約の年一五パーセントの賃借金より低かった。)の支払利息約二八億円を計上していた。

二  第二期(昭和六〇年四月一日~同年七月三日)

第二期決算については、昭和六〇年八月初めころから銀河計画の財務本部職員が破産管財人のもとで作業を始め、決算報告書を作成したものである。

右決算報告書によれば、第二期の当期損失は約二億四〇〇〇万円で、当期未処理損失は約七〇〇〇万円であり、財務状態は、資産約六四五億四〇〇〇万円に対し、負債は約六四五億六〇〇〇万円で、二〇〇〇万円の債務超過であった。そして、貸付金残高は、約三五五億円とわずか三か月余で約九三億円増加し、他方、豊田商事からの借入金も約三八九億円と約八九億円増加した。また、手形貸付金は約二一九億円を計上し、手形借入金も約二一二億円を計上してそれぞれ増加しているところ、現金及び預金は第一期の約三億九〇〇〇万円から約六八〇〇万円に減少しており、このことは、銀河計画の資金繰りが完全に破綻したことを示すものであった。

次に、営業成績については、売上総利益が約九億二〇〇〇万円であるのに対し、販売費及び一般管理費は約四億八〇〇〇万円であり、営業利益は約四億四〇〇〇万円であったが、支払利息約六億八〇〇〇万円を計上したため、経常利益は約二億四〇〇〇万円の損失となった。

第七関連会社の営業実態と財務内容

一  関連会社全体の状況

豊田商事は、昭和五七年三月二七日にトヨタゴールドを設立して以来、数多くの関連会社を設立もしくは買収してゆき、最終的に、豊田商事グループの関連会社と目されるものは、豊田商事、銀河計画を含めて約一〇〇社にのぼったが、それら関連会社の商号、設立(買収)の日、事業内容等は別表八のとおりである。

豊田商事(銀河計画設立後は銀河計画)は、これら傘下の各関連会社に出資金、貸付金等の形態により、ファミリー契約による導入金を投下したが、その殆どは赤字会社であった。

これらを概観すれば、既に述べたとおり、乙川二郎が永野の指示で設立した会社は、いずれもペーパーカンパニーであり、その他に売上が零で企業活動に至らなかった会社や売上はあるが僅少でグループの損益にほとんど影響のない会社を合計すると約五七社あった。そして、豊田商事及び銀河計画並びに財務諸表が不存在もしくは不備でその財務状態及び営業成績が判然としない銀河計画総合販売株式会社、株式会社富士商事、株式会社ワールドゴルフディベロップメント、株式会社イーグルカントリークラブ、株式会社白樺カントリークラブ、仙台藤屋産業株式会社、ニセコ藤屋産業株式会社、株式会社ブリオンハウス、日本不動産抵当株式会社、日本ジョンソン・マックミラン株式会社、ユニバーサルプロレスリング株式会社、渡嘉敷総合開発株式会社、医療法人厚愛会、株式会社エバーウェルシー・インターナショナル、財団法人全国マラソン後援会、宗教法人浄土真宗親鸞会を除いた残り八二社の昭和六〇年七月三日現在の期末未処理欠損金合計額は約一二一億円に達していた。このうち、一期だけでも一〇〇〇万円以上の利益を計上できた会社としては、ベルギーダイヤモンドが昭和六〇年三月期に約三億円、豊田ゴルフクラブが昭和六〇年三月期に約一〇〇〇万円、岡山開発が昭和六〇年三月期に約一三〇〇万円を計上した位で、関連会社の財務状態及び営業成績は極めて劣悪であり、これら関連会社による収益でファミリー契約の償還金をまかなうことは到底不可能の状態であった。

二  主たる関連会社の状況

ベルギーダイヤモンド、豊田ゴルフクラブ、鹿島商事等主な関連会社のほか、マリーン関係会社の営業実態並びに財務内容は、既に述べたとおりである。

三  その他の関連会社の状況

1 ベルギー貿易株式会社

ベルギー貿易は、昭和五八年一一月二八日、本店を大阪市南区南船場に置き、資本金一〇〇〇万円で設立されたが、その業務内容は、ベルギーダイヤモンドが販売するベルギー製ダイヤモンドの裸石の仕入れが主であり、その他に宝飾加工品も仕入れていた。そして、商品の仕入れについては、ベルギーダイヤモンドと協議のうえ、仕入予定表を作成し、それに基づいて行っていたが、代金の支払はもとより経費についてもすべてベルギーダイヤモンドが支出しており、ベルギー貿易は単にベルギーダイヤモンドの仕入部門を担当するにすぎず、独自の経営権はなかった。したがって、ベルギーダイヤモンドが昭和五九年六月ころから経営が悪化し始めたことに伴い、仕入代金も枯渇し始め、昭和六〇年四月ころには営業できなくなった。

ちなみに、ベルギー貿易の第二期(昭和五九年一一月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二〇万円、当期未処分利益は約三〇万円であった。

2 日本高原開発株式会社

日本高原開発は、豊田商事の不動産事業部が独立する形で、昭和五七年六月八日、資本金一〇〇〇万円で設立されたものであり、発足当初は、豊田商事が青山高原に所有していた山林を開発する目的でスタートしたが、保安林の解除ができず、結局何もできないまま、他に不動産売買や仲介、建売住宅の販売等を行っていたが、昭和五八年一一月一日(登記は同月四日)同社の代表取締役に就任した丁谷四男が、永野の指示を受けてゴルフ場の買収を行うようになってからは、これに重点を移すようになった。

ちなみに、同社の第一期(昭和五七年六月八日~昭和五八年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二三〇〇万円であり、第二期(昭和五八年四月一日~昭和五九年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約四一〇〇万円で、当期未処理損失は約六四〇〇万円であり、第三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約一五〇万円で、当期未処理損失は約六六〇〇万円であった。

3 日本海洋開発株式会社

日本海洋開発は、昭和五七年九月一日、資本金一〇〇〇万円で設立された豊田観光が、昭和五九年一〇月二六日日本海洋開発と商号変更登記されたものであるが、同社は、もともと豊田商事が昭和五七年七月ころ、社員の福利厚生用にも使えるということで買収した和歌山の旅館望海楼を経営するために設立された会社である。

その後、永野がマリーナ建設を思い付いたことにより、同社がマリーナ建設予定物件の調査及び買収を担当することになったもので、その買収状況は、前記第一の六の8(一)(1)において述べたとおりである。したがって、同社は、マリーナ用地の買収のための会社であって収益力はない会社であった。

ちなみに、同社の第一期(昭和五七年九月一日~昭和五八年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二六〇万円であり、第二期(昭和五八年四月一日~昭和五九年三月三一日)は、営業活動を全く行っておらず、第三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約四四〇万円で、当期未処理損失は約七〇〇万円であった。

4 白馬高原開発株式会社

白馬高原開発は、昭和五八年一二月八日、本店を長野県北安曇郡白馬村に置き、資本金三〇〇〇万円でスキー場の建設、運営を目的として設立され、スキー場の用地買収交渉をすすめていたが、用地買収及び建設資金の手当てや運営についての具体的な事業計画の策定もなく、完成の目処はたっていなかった。

ちなみに、白馬高原開発の第二期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約五八万円で、当期未処理損失は約一〇一万円であり、売上は零となっている。

5 豊田航空グループ

日本産業航空株式会社は、昭和四二年一二月二五日、日本エアシステムの前身である日本国内航空株式会社の小型機部門が分離する形で、資本金三〇〇〇万円で設立され、不定期航空運送事業、航空機使用事業を行っていたもので、昭和五八年ころには、セスナ機二四機を有する我国小型航空業界の上位にランクされる企業であったが、折からの航空業界の不況により、同社の第一六期決算(昭和五七年一〇月一日~昭和五八年九月三〇日)では、当期利益約四七〇万円を計上したものの、当期未処理損失は約二六〇〇万円となった。ところで、そのころ、日本産業航空は、八尾空港の整備計画に伴い、本社移転、格納庫建設を行うことになったが、その資金調達のため当時の資本金二億一六〇〇万円から四億円に増資する予定でいたところ、豊田商事が購入したセスナ機の保守管理をすることになったのがきっかけで、豊田商事が増資分一億八四〇〇万円(三六万八〇〇〇株)のうち一億二〇〇〇万円(二四万株)を引受けることになり、その結果、昭和五八年八月ころ発行済株式総数八〇万株の三〇パーセントを豊田商事が取得し筆頭株主となった。その後、豊田商事と日本産業航空との間で紛争がおきたため、豊田商事側は株を買占めて発行済株式総数八〇万株の約五一パーセントにあたる約四一万株を取得するなどした結果、結局和解して、昭和五九年一一月役員七名中四名を送り込み経理関係も握ったことにより、日本産業航空は銀河計画グループの傘下に入った。

公共施設地図航空株式会社は、昭和四二年九月七日、資本金三九〇万円で公共施設地図株式会社として設立され、昭和四四年一二月九日公共施設地図航空に商号変更登記された航空会社で、小型機による二地点間の旅客輸送(沖縄―慶良間)や航空宣伝等を行っていたが、多額の負債を抱え経営が行き詰まったため、昭和五九年一二月五日銀河計画が負債約一〇億円を引受けることを条件に、公共施設地図航空の株式二万九二〇〇株を代金約三億円で買受けたことにより、同社は銀河計画グループの傘下に入った。

ホワイト空港株式会社は、昭和五一年八月二八日、本店を宮城県栗原郡に置き、資本金二〇〇〇万円でスワン航空株式会社として設立され、昭和六〇年四月六日ホワイト空港に商号変更登記された航空会社であるが、同社は、もともと収益目的ではなく、代表取締役の七浦邦雄のレジャー目的のために設立されたものであって、収益は、所有している飛行場の使用料程度であった。また、北日本航空株式会社は、昭和五六年四月一七日、本店を宮城県岩沼市に置き、資本金二〇〇〇万円で三陸航空株式会社として設立され、昭和五七年二月四日、北日本航空に商号変更登記された航空会社であるが、同社は、スワン航空を設立した右七浦が、航空学校を経営するために資本参加して設立したものであり、航空写真、測量、宣伝等を営業内容とする一方、昭和五八年四月に右スワン航空の所在地に北日本航空大学校を開設し、毎期平均約二〇名の入校者を受け入れていた。ところが、スワン航空、北日本航空とも赤字経営であったため、右七浦が日本産業航空の取締役をしていた知人の丙月六雄に資金援助を依頼したところ、既に同社を傘下におさめていた銀河計画が資金援助をすることになり、北日本航空については、昭和五九年一二月二四日、五〇〇〇万円で株式を買受け、スワン航空と航空大学校については、昭和六〇年二月施設も含めて一一億四〇〇〇万円で買受けたことにより、銀河計画グループの傘下に入った。

以上のように、銀河計画は、右各航空会社を傘下におさめたことにより、昭和五九年一二月から各航空会社の役員らが出席して航空関係合同会議を開催し(北日本航空は昭和六〇年一月ころから参加)、事業方針等を協議していくことになったが、第一回会議の席上、永野は、「北海道から沖縄まで全国の主要地に飛行場を作り、将来はクラブ組織にして会員権を販売し、レジャー産業化したい。」旨構想を発表し、さらに、飛行場は一〇〇基地、人員は一〇〇〇人、航空機は一〇〇機が目標であると述べた。そして、ペーパーカンパニーとして設立していた豊田航空株式会社を日本産業航空、公共施設地図航空、北日本航空の三社の統括会社に位置付け、乙川二郎が中心となって、飛行機及び諸施設の利用権を内容とするスカイ会員権の販売や買収した前記北日本航空大学校を拡充して二〇〇名位を受入れられる航空大学校を開設するということで準備をすすめていた。

しかしながら、航空業界は、運輸省の強い指導監督下に置かれ、簡単に高収益が期待できるものではなく(現に、銀河計画が買収した航空会社はいずれも赤字会社であった。)、また、会員権販売についても、スカイクラブの性質上大衆的でないので必ず売れるという保証もなく(なお、豊田スカイクラブの会員権は売切りのみの予定であった。)、航空大学校の経営にしても、予定投資額の約三五億円の資金手当の目処は全くたっていなかったこと等からすると、これら航空事業は永野の思い付きにすぎないもので、右事業により高収益をあげ、ファミリー契約の償還資金にすることは到底期待できないところであり、このことは、役員会議や関連会社報告会において、航空事業の説明を受けていた被告人らにしても充分認識し得たことであった。

ちなみに、豊田航空の第二期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二八〇〇万円であり、日本産業航空の第一八期(昭和五九年一〇月一日~昭和六〇年九月三〇日)決算報告書によれば、当期損失は約九三〇〇万円で、当期未処理損失は約一億三〇〇〇万円であり、公共施設地図航空の第一八期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約一億四五〇〇万円で、当期未処理損失は約八三〇〇万円であり、北日本航空の第四期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約三〇〇〇万円で当期未処理損失は約三四〇〇万円であり、スワン航空の第一〇期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約一五万円で、当期未処理損失は約四〇〇〇〇万円であって、いずれも赤字を計上しており、このことは被告人らも関連会社報告会での報告により認識していた。

6 株式会社トヨタゴールド

トヨタゴールドは、昭和五七年三月二七日、本店を大阪市北区に置き、資本金一〇〇〇万円で設立され、宝石、貴金属の販売を行っていたが、もともとは、豊田商事が純金等の貴金属の販売会社であることを印象付けてファミリー契約の売上を増大させるためのイメージ作りとして、自社の店舗で販売していたのを独立させたものであった。

トヨタゴールドの営業形態は、豊田商事と同様、営業マンには歩合給を支給し、また店舗毎(一二店舗)にノルマを課し、報奨金等の各種賞金を支給する一方、ノルマ未達成の場合には降級、降格等の処分がされることになっていたが、当初から営業不振が続き赤字経営であった。その原因は、購入者として一般客はほとんどなく、豊田商事の客や豊田商事及びその関連会社の営業マンが客にプレゼントするために購入する場合がほとんどであって、客層が限られていたうえ、これらの者には、大体定価の三割引で販売していた一方、市場価格よりも一割程度高く仕入れていたこと、高額の歩合給、賞金等により販売費及び一般管理費が売上に比して多かったこと等であった。

ちなみに、トヨタゴールドの第一期(昭和五七年三月二七日~昭和五八年二月二八日)決算報告書によれば、売上総利益約七一〇〇万円に対し、販売費及び一般管理費が約八八〇〇万円であり、営業損失は約一七〇〇万円となり、当期損失は約一八〇〇万円であった。また、第二期(昭和五八年三月一日~昭和五九年二月二九日)決算報告書によれば、当期損失は約四億六〇〇〇万円で、当期未処理損失は約四億八〇〇〇万円であり、営業成績は、売上総利益約九〇〇〇万円に対し、販売費及び一般管理費が約三億四〇〇〇万円であり、営業損失は約二億四〇〇〇万円であった。さらに、第三期(昭和五九年三月一日~昭和六〇年二月二八日)については、当初、当期損失が約五億七〇〇〇万円で、当期未処理損失が約一〇億五〇〇〇万円と記載された決算報告書がトヨタゴールドから銀河計画財務本部へ送られてきたので、担当社員がチェックして誤りがないことを確認したうえ、上司に提出したところ、上司を通じて永野から黒字の粉飾決算書を作成するように指示されたことにより、当期利益約一〇〇万円の粉飾決算書を作成し、税務署に提出した。

以上のように、トヨタゴールドは、当初から赤字続きで劣悪な財務状態であり、将来的な見通しもない会社であった。

7 トヨタワールドツーリスト株式会社

トヨタワールドツーリストは、昭和五七年六月九日、本店を大阪市北区に置き、代表取締役社長を丁月七夫として、資本金五五〇万円で設立されたものであるが(当時の商号はトヨタツーリストであり、昭和五八年七月一四日トヨタワールドツーリストに商号変更登記された。)、設立の趣旨は、豊田商事が社員旅行を行う際に多人数で手数料もいることから、そのために以前旅行会社に勤務していた経歴をもつ丁月を代表者として旅行会社を設立したものである。したがって、一般客は少なく、客は豊田商事並びにその関連会社の社員がほとんどであったから、収益は上がらず赤字続きで、第一期(昭和五七年六月九日~昭和五八年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約一五〇〇万円であり、第二期(昭和五八年四月一日~昭和五九年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約六〇〇〇万円で、当期未処理損失は約七五〇〇万円であり、第三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約四〇〇〇万円で、当期未処理損失は約一億一〇〇〇万円であった。

8 国際情報サービス株式会社

国際情報サービスは、昭和五九年四月二五日、豊田商事の電算室の一部が分離独立した形で、資本金一〇〇〇万円で設立されたが、同社の業務内容は、豊田商事から買受けた電算機を同社にリース料を徴収して貸与するほか、豊田商事、銀河計画、鹿島商事、ベルギーダイヤモンド等に対するソフトウエアの開発、管理等の情報サービスであった。

しかし、国際情報サービスは、毎月赤字が続いていたうえ、銀河計画の監査の結果、社長の甲丘一助が三〇〇万円位の隠し預金をしていることが判明したため、同人を解雇し、昭和六〇年二月一日付けで、銀河計画の人事部長であった乙丘二助が代表取締役に就任して、多少業績は上向いたが、第一期決算(昭和五九年四月二五日~昭和六〇年三月三一日)では、当期損失は約二〇〇〇万円であり、しかも、取引先はすべて豊田商事の関連会社であったため、仮に利益を計上しても内部的なものにとどまり、ファミリー契約の償還には役立たなかった。

9 株式会社サンタモニカ

サンタモニカは、昭和五九年四月二一日、資本金一〇〇〇万円で設立された株式会社ルイ・シャンテが、同年一一月一五日サンタモニカに商号変更登記されたもので、レストラン経営を行っていたが、もともとは、ベルギーダイヤモンドの顧客会員を対象として経営を始めたものである。そして、昭和五九年九月被告人石川の弟でホテルの従業員をしていた甲沼十介が同被告人の誘いで、同社の代表取締役に就任した後、銀河計画からの借入れにより次々と店舗を開設し、当初二店舗であったのが、昭和六〇年三月末には七店舗となった。しかし、店舗は、いずれも立地条件のよくないところにあって、客も少なく、各店舗とも赤字続きで、銀河計画からの借入により何とか凌いでいたものの、第一期(昭和五九年四月二一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二億五〇〇〇万円であった。

10 日本インベスターズリサーチ株式会社

日本インベスターズリサーチは、昭和五九年六月二七日、資本金一〇〇〇万円で設立されたが、その設立の目的は、商品取引業界から締め出されていた豊田商事もしくはその関連会社の名前では、商品取引員の資格を得ることができないため、既存の商品取引員の資格を有する会社を買収するためであった。そのため、日本貿易振興会に勤務していた経歴をもつ丁丘三助を名目上の代表取締役としたが、実質的には、銀河計画の監査役で、かつて商品取引会社に勤務していたことのある丁原九郎が永野の指示を受けながら経営に当たることになった。そして、日本インベスターズリサーチ設立当時、既に銀河計画グループは、商品取引員の資格を有する山文産業株式会社の株式四〇〇万株及び五菱商事株式会社の株式七八万株をそれぞれ所有していたが、日本インベスターズリサーチ設立後、銀河計画より資金を借入れて買収をすすめ、山文産業については発行済株式総数約六二八万株のうち五五〇万株を、同じく商品取引員の資格を有する株式会社石原産商については、発行済株式総数三二〇万株のうち約三一五万株を、五菱商事については、発行済株式総数八〇万株のうち七八万株をそれぞれ所有することになったが、永野は、その後もこれらの会社を通して商品先物取引を行っていた。

日本インベスターズリサーチの収入は、コンサルタント料という名目で、昭和五九年七月から石原産商及び五菱商事から毎月各二五万円、山文産業から毎月五〇万円を徴収しており、不足分は銀河計画より借入して賄っていた。ちなみに、日本インベスターズリサーチの第一期(昭和五九年六月二七日~昭和六〇年五月三一日)決算報告書によれば、当期利益は約四万八〇〇〇円であったが、日本インベスターズリサーチ自体は、前記のとおり、商品取引員の資格を有する会社を支配するためのダミー会社にすぎず、収益を上げることが目的の会社ではなかった。

11 株式会社石原産商

石原産商は、昭和二四年四月二日、穀物の現物卸売業の会社として設立された第一農林株式会社が前身であり、昭和二七年一〇月ころ、穀物の先物取引の市場として東京穀物商品取引所が開設されたのに伴い、同社も仲買人(現商品取引員)として登録し、小豆、大豆等の商品先物取引業を始め、昭和四六年四月に商号を株式会社石原商店から現在の石原産商に変更した後、昭和五四年ころから商品先物取引に本格的に乗り出したが、次第に業績が悪化したことにより、商品取引所から資本金を増やすようにとの指導を受け、順次増資を続けていった。しかし、業績は悪くなる一方で、昭和五九年夏ころ、商品取引所から、不良債権約一億円を清算するため、取引員の許可の更新日である昭和六〇年七月までに、資本金一億五〇〇〇万円を倍額の三億円に増資し、この増資分で不良債権を清算して減資をするようにとの指導を受け、もしこれが実行できない場合には、同業他社と合併せざるを得ない状態に追い込まれていたところ、日本インベスターズリサーチが昭和五九年一二月から同六〇年二月にかけて合計二億五一五〇万円で石原産商の株式三一五万株を買取り、これによって石原産商は商品取引所の指導どおり増資して不良債権を清算し、合併を免れた。

ちなみに、石原産商の第三八期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約八八〇〇万円で、当期未処理損失は約一億一〇〇〇万円であり、業績は極めて悪かった。

12 五菱商事株式会社

五菱商事は、元代表取締役の丙丘四助が商品取引会社である株式会社直木三和を買収して、昭和五七年四月、株式会社ユニバース交易と商号変更し、同年七月、商品取引所の指導により四〇〇〇万円に増資した後、同年一一月、五菱商事に商号変更したものであるが、業績不振のため、昭和五八年五月ころ、再び商品取引所から倍額増資の指導を受けたことにより、同月末ころ、右丙丘は、知人の紹介で永野一男と会い、銀河計画グループから四〇〇〇万円の融資を受け、その代わりとして会社の株券計七八万株を引渡した。

ちなみに、五菱商事の昭和五九年三月期の決算報告書によれば、当期利益は約一九〇〇万円で、当期未処理損失が約九〇〇万円であり、昭和六〇年三月期の決算報告書によれば、当期利益は約四〇〇万円で、当期未処理損失は約五〇〇万円であった。

13 日本リッチモンド株式会社

日本リッチモンドは、昭和五六年一一月二四日、資本金二〇〇〇万円で設立された株式会社全国貴金属取引協会が、昭和五九年五月二二日、日本リッチモンドと商号変更登記されたものであり、同社は、同社の会員となった全国の時計店を通じて純金の販売を行う一方、東京金取引所の会員でもあったが、昭和五九年三月末ころ、経営不振に陥っていた同社に、豊田商事が丁田三介、戊丘五助の名前で合計一〇〇〇万円出資したことにより、同年五月二二日右両名が同社取締役に就任し、豊田商事の傘下に入った。その後、銀河計画は、同年五月三〇日丁田と戊丘の名前で計一〇〇〇万円さらに出資し、日本リッチモンドは、資本金を四〇〇〇万円に増資した。

ちなみに、日本リッチモンドの昭和五九年三月期の決算報告書によれば、当期損失は約一〇〇〇万円で、当期未処理損失は約七〇〇万円であったが、昭和六〇年三月期については、月次報告書によると、約三〇〇〇万円の経常利益を計上していた。しかし、右の利益は、たまたま純金等の先物取引が当たって上げたにすぎず、将来的に有望な会社というものではなかった。

14 菊池商事株式会社

永野は、前記のとおり、商品先物取引業界から締め出されたことにより、自己もしくは豊田商事の名前では相場を張れなくなったことから、かくれみのとして投資専門の商品取引会社を設立することにし、永野が名古屋の商品取引会社である岡地株式会社に勤務していた時の同僚であった戊山十夫を代表取締役として、昭和五七年六月二二日、資本金二〇〇〇万円で、本店を名古屋市に置く菊池商事を設立した。同社の業務は、毎日の相場変動を永野に報告し、同人の指示に基づき小豆、大豆、生糸、乾繭等の商品先物取引の注文を出すというもので、それらの取引状況、収支決算については、菊池商事の帳簿に記帳していたが、毎月豊田商事(銀河計画設立後は同社)の財務本部の社員が、右帳簿を見て月々の試算表を作成し、また、期末の決算も豊田商事もしくは銀河計画において組んでいた。

なお、菊池商事の第一期(昭和五七年六月二二日~同年一二月三一日)決算報告書によれば、売上総利益は約一億七〇〇〇万円の損失であり、販売費及び一般管理費が約五五〇万円であるので営業損失は約一億七六〇〇万円となり、当期損失は約一億八〇〇〇万円であった。また、第二期(昭和五八年一月一日~同年一二月三一日)決算報告書によれば、売上総利益は、約一二億七〇〇〇万円の損失であり、販売費及び一般管理費が約一五〇〇万円であるので、営業損失は約一二億八〇〇〇万円となり、当期損失は約二三億八〇〇〇万円で、当期未処理損失は約二五億七〇〇〇万円であった。さらに、第三期(昭和五九年一月一日~同年一二月三一日)決算報告書によれば、売上総利益は約二億二〇〇〇万円の損失であり、販売費及び一般管理費が約三〇〇〇万円であるので、営業損失は約二億五〇〇〇万円となり、当期損失は約一四億三〇〇〇万円で、当期未処理損失は約四〇億円であった。昭和六〇年度の決算書は作成されていないが、月次報告書の中の営業損益報告書によれば、昭和六〇年四月現在で約一億三〇〇〇万円の損失であった。

以上のように、菊池商事は、永野が商品先物取引をするための会社であって、大和商事も含め被告人ら役員の間では経営に反対の意見が強かった。

15 大和商事株式会社

永野は、前記菊池商事に続いて、かくれみのとして投資専門の商品取引会社を設立することにし、同人が商品取引を通じて知った商品外務員の丁山九夫を代表取締役にして、昭和五八年二月二四日、資本金一〇〇〇万円で、本店を大阪市北区に置く大和商事を設立した。同社の業務は、永野の指示で商品先物取引の相場を張るほか、海外現地法人のエバーウェルシー台湾、同タイ、同ジャカルタ等に毎日、日本の商品取引相場の値動きを知らせることであり、毎日収支決算報告書を作成して、永野に送って収支状況を報告する一方、会社の帳簿にも記帳していた。

ちなみに、永野は、昭和五八年二月から大和商事を通じて相場を張り、同年三月三一日までの収支は約二〇〇〇万円の利益であったが、同年四月一日から昭和五九年三月三一日までの間の収支は、約一〇億円の損失であり、同年四月一日から昭和六〇年三月三一日までの間の収支は、約七〇〇〇万円の損失で、合計約一〇億五〇〇〇万円の損失を出していた。

なお、大和商事の第一期(昭和五八年二月二四日~同年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約四八〇万円であり、第二期(昭和五八年四月一日~昭和五九年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約一四億八〇〇〇万円で、当期未処理損失は約一四億八五〇〇万円であり、第三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約二億五〇〇〇万円で、当期未処理損失は約一七億四〇〇〇万円であった。

16 日本ジョンソン・マックミラン株式会社

日本ジョンソン・マックミランは、昭和五九年六月ころ、銀河計画が出資してロンドンに設立した先物取引並びに貿易を目的とする現地法人を統括するために、同年六月二五日、本店を東京都中央区に置き、資本金二〇〇〇万円で設立した会社であったが、営業活動は一切行っておらず、全くのペーパーカンパニーであった。

17 株式会社ジャパンファイナンス

ジャパンファイナンスは、昭和五八年六月二〇日、本店を東京都豊島区に置き、資本金五〇〇万円で設立されたが、当初は事業内容が決まっておらず、永野は、元商品取引会社の社員で、同年六月二五日ジャパンファイナンスの代表取締役に就任した戊本九平に、商品取引関係の仕事をしてはどうかと話すなどしていたところ、その後、ベルギーダイヤモンドが割賦販売をすることになったことから、同年九月ころからベルギーダイヤモンドの専属クレジット会社として稼働を始めた。当初は客からの入金もなく、豊田商事から資金を借入れて運営していたが、昭和五九年二月ころから立替払金を回収できるようになり、同社の第一期(昭和五八年六月二〇日~昭和五九年五月三一日)では、約三〇〇万円の利益を計上した。

ところが、ベルギーダイヤモンドの売上の低下に伴ってジャパンファイナンスの売上も低下し、しかも代金を支払わない客が増えてきたので、審査基準を厳しくしたところ、さらに売上が低下し、経営が悪化していった。これに対し、ベルギーダイヤモンドからは、もっと客と契約をするようにとの要求が出されたが、銀河計画からの送金がなかったので、金融業者から借入をして立替払をするようになった結果、第二期決算(昭和五九年六月一日~昭和六〇年五月三一日)では、約九〇〇〇万円の赤字を計上した。ちなみに、期末における金融業者等からの借入金残高は約二六億八〇〇〇万円であり、そのうち、銀河計画からは約九億円借入れていた。

18 日本長期信用ファイナンス株式会社

日本長期信用ファイナンスは、昭和五九年一一月二四日、本店を東京都中央区に置き、資本金五〇〇〇万円で設立されたもので、鹿島商事が販売するゴルフ会員権の割賦代金の立替払を行っていたが、昭和六〇年六月末までの間に、鹿島商事の社員二名を含めて顧客はわずか三名であり、第一期(昭和五九年一一月二四日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約五〇〇万円であった。

19 海外タイムスグループ

海外タイムス株式会社は、永野の発案で昭和五八年一月二四日、新聞、雑誌等の発行を目的として資本金一〇〇〇万円で設立され、同年五月二〇日(登記は同月二一日)、豊田商事東京支社長をしていた丁本八平が永野の指示で代表取締役に就任したが、丁本は、海外タイムスの実情が、販売ルートもないうえ広告スポンサーも見つからず、また従業員にも経験者がいないことがわかって不安を抱き、同年六月ころ、永野に、この事業には見込みがなく、経営に責任が持てないからやめさせて欲しい旨訴えたところ、永野から、「日本で一流の財界人といわれる者でも新聞社を持っている者はおらん。あの国際興業の小佐野賢治でも持っていない。おれは新聞社を持つんや。今は新聞屋がうちのことを書きたい放題に書いているが、いずれ書けんようになる。おれが海外タイムスを見るから、しっかりやってくれ。」と言われ、やむなく経営にあたることにした。

そこで、昭和五八年六月ころカタログ雑誌「オウン」を発行したが、ほとんど売れなかったため一回で廃刊し、その後女性向けの「女性タイムス」や海外のニュースを写真中心で紹介する「海外タイムス」を発行したものの、販売ルートがないためほとんど売れず、毎月大幅な赤字を計上した。このため、毎月の関連会社報告会の席上で、丁本は、各役員とりわけ被告人石川、同藪内の両名から「今月も金くい虫か。稟議書を書いたらすぐ金が出ると思っているんと違うか。金がいつまでも出ると思うなよ。机に座っているだけが社長やないぞ。」などと罵倒されていたが、昭和五八年一二月ころの関連会社報告会において、丁本が、編集、販売、広告の三部門をすべて担当するのは、現在の人員では無理である旨発言したところ、これを永野が採用し、広告、販売部門については別会社を設立することになった。そして、広告部門は、昭和五九年三月三〇日、資本金二〇〇〇万円で設立された海外広告株式会社並びに同年三月一四日、資本金二〇〇〇万円で設立された海外通信株式会社(昭和六〇年五月一五日ミクロネシア開発株式会社に商号変更登記された。)が担当することになり、また、販売部門は、昭和五九年四月一四日、本店を東京都中央区に置き、資本金三〇〇〇万円で設立されたタイムス販売株式会社を統括会社として、その下にさらに販売代理店として、同年四月一二日、資本金一〇〇万円で、本店を大阪市南区に置く株式会社ワールド販社を、同年四月一八日、資本金一〇〇万円で、本店を大阪市西区に置く山口商事株式会社を、同年四月一九日、資本金一〇〇万円で、本店を東京都中央区に置く児山商事株式会社をそれぞれ設立し、名古屋方面では、ワールドレビューという会社に貸付けを行って代理店としたが、ほとんど効果はなく、児山商事株式会社においては、わずか二件しか販売契約がとれないという惨状であったため、約二か月間で右広告、販売会社はすべて閉鎖し、従業員は鹿島商事に移籍することになった。

その後も、丁本は、駅の売店等に置いてもらうようにする等して営業努力を続けたが、業績は好転せず、海外タイムスの第一期決算(昭和五八年一月二四日~同年三月三一日)は、当期損失が約二〇〇〇万円であり、第二期決算(昭和五八年四月一日~昭和五九年三月三一日)は、当期損失が約四億五〇〇〇万円で、当期未処理損失は約四億七〇〇〇万円であり、第三期決算(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)は、当期損失が約四億四〇〇〇万円で、当期未処理損失は約九億一〇〇〇万円であった。

そして、被告人石川と同藪内は、海外タイムスの存続に強く反対しており、関連会社報告会の席上で、永野に当てつけるような言い方で、丁本に対し、「こんな会社は利益が全く上がらんし、資金を食うばかりや。こんな会社を存続させることはない。」とよく言っていたが、その度に永野が丁本に助け舟を出していた。さらに、海外タイムスから新聞記者経験のある人を採用しようとして銀河計画に上げた稟議書について、被告人藪内以外の他の役員の決裁は可もしくは社長一任で、永野も可と決裁していたのに対し、被告人藪内だけが「不可」の決裁をし、結局不可になったケースがあったので、丁本が被告人藪内に説明を求めたところ、同被告人から「稟議の最終権限はわしが持っとるんや。」といわれた。

なお、昭和五九年九、一〇月ころの関連会社報告会で、海外タイムスの閉鎖、縮少の意見が出て、結局発行部数を減らして規模を縮少することを決議し、永野もこれを了承した。

20 株式会社海外プロモーション

永野は、昭和五九年六月ころ、前記ジャパンファイナンス代表取締役社長の戊本九平と丁原九郎を通じて、ボクシングジムの協栄ジムの会長から資金援助を頼まれ、協栄ジムを海外タイムスボクシングジムに名称変更することを条件に一〇〇〇万円を支払うほか、毎月五〇〇万円を資金援助することで合意したが、さらに、同年八月ころ、当時協栄ジムの試合をプロモートしていた株式会社協栄プロモーションの資本金一〇〇万円を、銀河計画の出資により二〇〇万円に増資して共同経営することで合意し、同年八月二八日海外プロモーションに商号変更登記した。

そして、海外プロモーションの共同経営が決まってから月一二〇〇万円をボクシングジムに資金援助することにし、破産時まで合計約一億四〇〇〇万円位援助したが、これらの出資は収益を上げるためのものではなく、いわば永野の趣味、道楽の類であり、全く無駄な出資であった。

21 株式会社ムサシノ・エンタープライズ

ムサシノ・エンタープライズは、昭和五五年三月二四日資本金三〇〇万円で設立され、自動車の板金塗装及び自動車のリース業等を行っていたが、昭和五七年ころから、パラオ共和国に中古自動車を輸出していたところ、パラオ政府から同社に対し、発電所建設の要請があり、昭和五八年一〇月二〇日付けで、パラオ共和国アイライ州政府との間で、発電所建設工事契約を締結して、工事に着工し、昭和五九年八月ころ完成した。そして、発電所及び発電機等の工事のほか、付帯工事のダム建設、道路工事、変電所工事等を加えると総工費約二二億円となったが、右工事代金は、全額ムサシノ・エンタープライズが立替える等していたところ、パラオ共和国アイライ州政府が右工事代金を支払えなくなったため、その代わりとして、昭和五九年一〇月ころ、ムサシノ・エンタープライズがアイライ州の土地三〇〇万坪を、昭和五九年八月一五日から九九年間租借するという契約をアイライ州政府との間で締結した。ところが、ムサシノ・エンタープライズは、右二二億円のうち機材代金や下請に支払うべき資金がなく、融資先を捜していたところ、同社の非常勤取締役であるとともに同社の親会社の武蔵野自動車販売株式会社の代表取締役であった甲田十平が、昭和六〇年一月末ころ、乙田一介の紹介で永野一男に会い五億円の融資を申込んだ。そこで、永野は、同年二月中旬ころ、現地を視察したところ気に入り、ムサシノ・エンタープライズが租借した土地をレジャー基地として開発することにし、すぐに銀河計画とパラオ共和国との間で、銀河計画において一般住宅約一〇〇〇戸並びに学校、病院等公共施設を建設して無償貸与するとともに、周辺離島間に飛行機の定期便を就航させる見返りとして、ムサシノ・エンタープライズの租借地三〇〇万坪を銀河計画においてレジャー基地として開発し、ホテル建設約三〇〇〇室、ゴルフ場建設七二ホール、ヨットハーバーの建設、総合運動場の建設、ビーチの開発等を行い、さらにパラオ諸島のうちの七か所を九九年間租借する旨の合意書を取りかわした。なお、その際、永野は、甲田十平に、パラオの開発は、豊田商事の関連会社であるミクロネシア開発株式会社に行わせることやそれまで沖縄の慶良間列島の開発を手がけていたが、パラオの立地条件にはかなわないので、その方はあきらめる等と話していた。

そして、同年三月三日、ムサシノ・エンタープライズは銀河計画グループに対し、三〇〇万坪のうち二〇〇万坪を九九年間、賃料合計三七億円で賃貸するという契約を締結したが(残り一〇〇万坪については、将来適当な時期に賃貸する旨約束)、右賃料の支払については、当初、頭金が一〇億円で残金は毎月一億円ずつ支払うということであったにもかかわらず、数日後、永野が「うちには金がないので、この間約束したような支払方法は実行できそうにない。ついては、ムサシノ・エンタープライズで緊急を要する資金だけを請求してもらって、それを賃料の支払にあてることにしたいので了解して欲しい。」旨言ってきたので、甲田十平もやむなくこれを了解したが、銀河計画の資金繰りが苦しいのに気付いた同人は、昭和六〇年三月中旬ころ、先に締結した賃貸借契約について、ベルギーダイヤモンド、サンタモニカ、富士商事等に連帯保証人になってもらったうえ、永野にレジャー共通会員権を担保として提供して欲しい旨申し出たところ、永野は「うちの会員権は、ゴルフもマリーンもまだ買収をしているところで施設が整っていないから、まだ担保にはならない。」と述べ、また、租借地内の住民に対する立退料一億五〇〇〇万円の支払も苦しいと述べていた。なお、昭和六〇年二月から同年七月一日までのムサシノ・エンタープライズの銀河計画からの受入金は、約一六億円であった。

ちなみに、ムサシノ・エンタープライズの第五期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約八〇〇万円で、当期未処理損失は約一五〇万円であった。

以上のように、パラオ開発計画の実施には膨大な資金が必要であって、到底実現不可能な事業計画であったから、被告人らも右事業計画の実施については危惧しており、期待はしていなかった。

22 沖縄リゾート開発グループ

銀河計画は、沖縄にホテルやレジャー施設を建設、運営することを目的として、昭和五九年六月三〇日、資本金五〇〇〇万円で、本店を沖縄県那覇市に置く沖縄リゾート開発株式会社を設立し、これを統括会社として、その下にさらに同年九月二五日、資本金五〇〇万円で本店を沖縄県島尻郡座間味村に置く座間味総合開発株式会社を、昭和六〇年四月一五日資本金五〇〇万円で本店を同県同郡渡嘉敷村に置く渡嘉敷総合開発株式会社を各設立し(慶良間総合開発株式会社は登記準備中)、用地買収や借地の交渉をすすめていた。しかし、永野が昭和五九年一二月の関連会社報告会において、慶良間列島の開発には一〇〇〇億円を予定している旨発言しているように、この開発には、莫大な資金を要するところ、それらの資金を手当する目処は全くたっておらず、到底実現不可能な事業であった。

ちなみに、沖縄リゾート開発は、毎月一〇〇〇万円以上の赤字を計上し、昭和六〇年四月までの累積赤字額は約一億七〇〇〇万円であり、座間味総合開発も、毎月一〇〇万円ないし三〇〇万円位の赤字で、昭和六〇年四月までの累積赤字額は約一三〇〇万円であり、渡嘉敷総合開発の昭和六〇年四月度の経常損益は約一一〇万円の損失であった。そして、右の状況は、関連会社報告会での報告により、被告人らも十分認識していた。

23 医療法人日生会

永野は、昭和五九年夏ころ、ジャパンファイナンスの社長の戊本九平の紹介で、医療関係のコンサルタントをしていた乙田一介を知り、同人と話しをするうち、病院経営を思い立ち、同人を通じて、昭和五九年七月一六日付けで銀河計画が宮崎市所在の休眠中の医療法人錦向会(昭和三七年一〇月九日設立)を一五〇〇万円で買収する契約を締結したが、同会は、その後、茲光会と名称変更された後(未登記)、昭和六〇年一月一八日付けで日生会と名称変更登記された。なお、右買収により、永野、丙野、被告人石川らが理事に就任したが、昭和六〇年に入って、永野らが理事として名を連ねていることを理由に金融機関から融資を断られたことから、昭和六〇年二月一三日(登記は同年三月七日付け)同人らは理事を辞任した。

銀河計画は、永野の指示により、乙田一介や銀河計画秘書室の戊谷五男らを買収担当者として、病院の買収交渉を行っていたが、破産時までに日生会の傘下に入り開院していた病院は、高知市の医療法人厚愛会高知城東病院、岐阜県中津川市の中津川城山病院、宮崎県宮崎郡の久峰温泉病院の三病院であり、この他に宮崎県東諸県郡の高岡東病院(仮称)が建設準備中であった。

このうち、高知城東病院は、昭和五五年七月開設され、診療科目は内科、外科、産婦人科で病床数約二八〇の病院であったが、昭和五九年一一月五日付けで、同病院の金融機関等に対する合計約二三億円の債務を引受けるという条件で二億五〇〇〇万円で買収した。なお、買収交渉にあたった乙田一介の判断では、右病院の債務額が余りにも大きかったことから買収反対の意見を永野に述べたが、結局同人に押し切られ買収したものである。

中津川城山病院は、昭和五六年一〇月ころ開設され、診療科目は、内科、外科、消化器科、皮膚科、放射線科で病床数四六の個人病院であったが、昭和六〇年三月一日付けで、同病院の金融機関等に対する債務を含め総額五億円で買収した。

久峰温泉病院は、昭和五八年五月開設され、診療科目は、内科、理学診療科で、病床数一四〇の病院であったが、同病院は、もともと乙田一介が理事長兼病院長の丙田二介ら七名と共同経営していたところ、同年一二月ころ右丙田が無断で第三者に売却したのを、永野の指示により買戻すことにし、昭和六〇年三月二〇日付けで、同病院の金融機関等に対する合計約九億円の債務引受をすることを条件に五億円で買収した。

高岡東病院は、錦向会を買収した際に、売主側との間で病院建設が条件となっており、また、所轄の宮崎県知事から日生会を医療法人として許可してもらうためにもその母体となる病院の建設が必要であったことから、昭和五九年一〇月八日、代金約六〇〇〇万円で宮崎県東諸県郡高岡町に土地を購入したうえ、同月建設設計業者と設計監理委託契約を締結し、各種申請手続も行うなど準備をすすめていたが、建築着工には至っていなかった。ちなみに、建設予定費は約五億円であった。

以上のように、買収した各病院はいずれも多額の負債を抱えており、その返済だけでも多額の金がいるうえ、新病院の建設に多額の資金を要するところ、銀河計画の資金繰りの悪化に伴い、同社においてこれらの資金を手当する目処は全くたっていなかった。のみならず、日生会の第二三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約三三〇〇万円であり、高知城東病院の第一六期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)決算報告書によれば、当期損失は約九七〇〇万円で、当期未処理損失は約九億七〇〇〇万円であり、また、昭和六〇年三月度の月次報告書によれば、高知城東病院の経常利益は約一五〇万円で、中津川城山病院の経常損益は約一五〇〇万円の損失であり、同年四月度の月次報告書によれば、高知城東病院の経常利益は約八八〇万円で、中津川城山病院の経常利益は約三〇〇万円であって、月によっては、若干の利益を計上していたものの、この程度では、前記の負債を返済してゆくことも到底期待できなかった。そして、各病院の経営状態等については、関連会社報告会で報告されており、被告人ら各役員も十分認識していた。

24 株式会社エバーウェルシー・インターナショナル

エバーウェルシー・インターナショナルは、昭和五九年六月六日、商品先物取引を行っていた海外現地法人を統括する会社として、豊田商事の海外事業部が独立する形で資本金二〇〇〇万円で設立された会社である。同社の代表取締役に就任した丁田三介は、同年八月ころ、関連会社報告会に出るようになったが、海外現地法人でペーパーカンパニーでないものは、商品取引を業務内容としていたが、いずれも毎月の経費が膨大で業績は不振であり、エバーウェルシー香港は月三~四〇〇〇万円の赤字、同インドネシアは月一〇〇〇万円余の赤字、同台湾は業務をやっておらず、月一〇〇〇万ないし一五〇〇万円の経費がそのまま赤字となっており、同バンコックは、月により赤字と黒字があったが、トータルでは赤字であることがわかった。またニューヨーク、ロンドン、オーストラリアは全くのペーパーカンパニーで、経費がそのまま赤字で、合計すると月一億円前後の赤字であって、その結果、海外現地法人の累積赤字は四〇億円以上にも達していた。同人はこのことを知って驚き、同年九月ころ、被告人石川らの役員に事情を聞いたところ、同被告人らは、「あれは永野の道楽だ。豊田商事が海外に進出していることを見せかけるためのものだ。」と答えたので、永野に対し、毎月多額の赤字を計上している海外現地法人を閉鎖するよう意見を具申したが、同人は、「赤字はわかっているが、現地法人はつぶさない。豊田商事が海外に進出していることを看板にしているのでつぶさんのや。海外に出ているという看板があるからお金が集まるんや。」と述べて取りあわなかった。そこで、丁田は、永野にたのんで自己の担当分野から商品取引部門を外してもらい、昭和五九年九月、一〇月ころから貿易事業に乗り出したが、結果的にはほとんど失敗に終わった。ちなみに、その主なものは次のとおりである。

(一) エバーウェルシー香港を通じて、中国へテレビや自動車、スクラップ船等を輸出したが、一か月二〇〇万円程度の収益しかなく、エバーウェルシー香港の前記赤字を解消するにはほど遠かった。

(二) インドネシアの石油公社が関係する病院に備品を供給したが、三〇〇万円程度の収益しかなく、エバーウェルシーインドネシアの前記の赤字をわずかに減らす程度であった。

(三) インドネシアの海軍指定業者に機械類を輸出する構想があったが、計画倒れに終わった。

(四) タイからコプラを二、三回日本に輸入し、一回につき三〇〇万円程度の収益があったが、タイやインドネシアでは利益をあげても法律の規制により国外に持出せなかった。

(五) タイでは、空軍弾薬庫建設の構想もあったが、そのための投資資金を銀河計画が出してくれなかったため、結局プロジェクトには参加できなかった。

(六) インドネシアやバンコクで受けた商品取引の申込を日本へ取次ぐための中継基地であるヘッジセンターをシンガポールに建設するため、約一億円を出資したが、このヘッジセンター自体は収益を上げる性格のものではなかった。

(七) 中国広東省との間で貿易ビルの建設プロジェクトの話があり、これに関連して、中国との間でビール工場、発電所、宝山製鉄所等の建設や海南島のレジャー開発等の構想もあり、これについての資金融資を受けるための合弁会社を設立する計画があったが、その第一回目の資金二五〇〇万円すら銀河計画から出してくれず、計画倒れに終わった。

(八) ハイチで合弁会社を作って縫製工場を建設する計画があり、エバーウェルシー・インターナショナル側の出資は一〇〇万ドル(当時の為替レートで約二億五〇〇〇万円)であったが、一回目の五〇〇〇万円、二回目の九〇〇〇万円合計一億四〇〇〇万円を出してミシンの買付等をしたものの、結局追加の一億一〇〇〇万円を銀河計画が出してくれず、失敗に終わった。

(九) その他、台湾の船舶が北洋で漁獲したサケ等の輸入、オーストラリアから鮮魚肉類の輸入、タイからの活性炭や椎茸の輸入、タイのバンコクでイトーヨーカドーとの合弁会社で缶詰工場を作る等の構想があったが、いずれも計画倒れに終わった。

このようなエバーウェルシー・インターナショナルの貿易部門の赤字は六億円位であり、海外現地法人の商品取引部門とともに大幅な赤字を計上していたが、その営業実態並びに財務内容については、被告人らは、関連会社報告会において、月次報告書等に基づく報告を受けており、エバーウェルシー・インターナショナルが業績不振で将来の展望もないことを十分認識していた。なお、被告人道添は、永野の指示により、昭和五九年秋ころから度々エバーウェルシー・インターナショナルに行き丁田の相談にのっていたので、会社の実情はよくわかっていた。そして、右関連会社報告会では、各役員とりわけ被告人石川や被告人藪内らは、エバーウェルシー・インターナショナルは経費の無駄遣いであり、将来性もないからつぶすべきだとの意見を述べていた。

第八豊田商事に対する社会の対応と内部の状況

一  被害者、弁護士等の対応(告訴、訴訟等)

豊田商事のファミリー商法による契約者らは、ファミリー契約が発売された昭和五六年ころから通産省の消費者相談室、悪徳商法被害者対策委員会等の被害者救済団体及び弁護士らに苦情や相談を持ち込み、全国各地の裁判所に民事訴訟の提起や保全処分の申請を行うとともに、各地の警察、検察庁に詐欺罪、出資法違反罪等で永野らの役員やその他の従業員らを告訴し、その問題性を追及していた。

ちなみに、豊田商事関係者に対する昭和六〇年六月末までの告訴、告発状況は、京都府警察本部に対し、昭和五八年七月一三日永野外一名が詐欺罪により告訴されたのをはじめ、いずれも大阪地方検察庁に対し、昭和五九年三月二日豊田商事及び永野外三名が出資法違反罪により、同年四月一一日豊田商事関係者一名が詐欺罪により、同日永野外二名が詐欺罪により、同日永野及び被告人ら五名外四名が詐欺及び出資法違反の各罪により、同年九月一二日永野及び被告人ら五名外四名が詐欺及び出資法違反の各罪により、それぞれ告訴され、昭和六〇年に入ると永野や被告人ら豊田商事関係者が各地で相次いで告訴、告発された。

二  マスコミによる報道

マスコミは、ファミリー契約証券が発売された昭和五六年から、豊田商事の実名こそ挙げないものの、同社のファミリー商法を取り上げ、たとえば、昭和五六年九月四日の朝日新聞は、「一割の受益金でつる、金の先物取引詐欺まがいの新手口」との見出しで、「通産省が年内に予定している金の先物取引公設市場開設を前に、詐欺まがいの手口で消費者を食い物にする駆け込み勧誘が目立っている折、今度は正当な取引に似せた新手の商法が横行し始めた。被害者団体は現物取引の仮面をかぶった悪質な新商法と警戒を強めている。」との記事を掲載した。

そして、昭和五七年から昭和五八年にかけても、一部では実名を挙げてファミリー商法の問題性を断続的に報道する一方、永野の商品先物取引についても報道し、昭和五七年一一月二日の岩手日報、秋田魁新報、神戸新聞等は、「金ブームに乗って金の現物や相場取引を装う悪徳商法が横行、全国で被害者が続出しているが、大阪に本社を置く大手の金取引業者が一般投資家から集めた巨額の資金を小豆などの商品相場に投入、仕手戦を演じ、市場を攪乱していた新たな実態が明らかになった。警察庁も重大な関心を示しているが、農水、通産両省は事態を重視、商品取引業界に対し、こうした悪質な投機資金を相場から排除するようこのほど指示した。従わない業者には取引員資格取り消しなど厳しい処分を取るという異例の強硬姿勢を示し、ダーティーマネーの封じ込め作戦に乗り出した。」との記事を掲載した。

このようなマスコミによるファミリー商法に関する報道は、昭和五八年夏ころから一段と激しくなり、例えば、同年七月一三日の朝日新聞夕刊は、京都市内の八三歳になる一人暮らしの老女が、豊田商事のセールスマンの甘い話に乗せられて、米国在住の息子らから預かったお金をそっくり注ぎ込み、その後、解約を会社側に申し入れたが、応じてくれないとして、一三日、豊田商事を相手取って三〇〇〇万円の損害賠償を求める訴訟を京都地裁に起こすとともに、豊田商事の社長である永野と外務員を京都府警に詐欺容疑で告訴した旨報道した(同年七月一四日の京都新聞もほぼ同旨)。同年八月一四日の朝日新聞は、「豊田商事の詐欺まがい金商法に対し、同社の従業員と元従業員から、この会社はお客をだますようなことばかりしているとの内部告発が一三日、朝日新聞に寄せられた。それによると、豊田商事社内ではほんのわずかの金地金しか見たことがなく、契約が満期になっても客に現物を渡さないようセールスマンに強制しているという。また、ほとんどの人が電話での金販売に不審を抱いていて、話に乗って来るのは独り暮らしのお年寄りか、悪質セールスマンに慣れていない新婚の主婦くらいで、名古屋市内の支店従業員は、最近は名古屋市郊外のお年寄りを狙っていると打ち明けた。さらに、東京支店の従業員によると、客に断られても、会社からは客の家へ上がり込み、午後一〇時まで粘れと電話で指示され、客が生活保護世帯とわかり、売り込みは無理と報告した時は、バカヤロー、小銭ぐらいは隠しているはずだと、再訪問を指示されたという。」との記事を掲載した。

同年九月九日の朝日新聞は、「苦情殺到豊田商事の金商法」との見出しで、「客の多くは老人、主婦のためか、、契約後満期になっても強引に更新された、中途解約になかなか応じてくれず高額の違約金を取られたなど、解約をめぐるトラブル、苦情がこのところ全国の通産局などに多数持ち込まれている。弁護士による研究団体は、同社が取引に見合う金地金を購入した形跡はなく、利回りのよい運用益を上げられるはずもない。ネズミ講に似た悪質な詐欺的商法だと追及を始め、京都では詐欺容疑の刑事告訴まで行われた。国会でもこの問題が取り上げられ、通産省が、こうした商法に乗せられないよう啓発活動に乗り出すなど、社会問題化する様相を見せてきている。」との記事を掲載した。

同年一〇月八日の全国紙を含む多数の新聞は、「岡山市内の女性(四九歳)が、豊田商事に騙されて契約したとして約一二〇〇万円の仮差押の申請をしてこれが認められ、七日豊田商事岡山支店において仮差押執行をしたところ、金庫の中にはわずか一〇〇グラムの金地金しかなかった。」と報道した。

昭和五九年から昭和六〇年に入ってからも、豊田商事に対する民事訴訟の提起、仮差押の執行、告訴、国会での追及、元豊田商事社員らによる恐喝事件の発生と赤字の発覚、被害者から自殺者が発生したこと等のほか、関連会社であるベルギーダイヤモンドに対する民事訴訟の提起、同社の物品税の滞納、同じく関連会社である鹿島商事の社員が詐欺容疑で逮捕されたこと等豊田商事をめぐる一連の動きが詳しく報道され、特に同年六月に入ってからは、各紙が連日のごとく報道した。

三  国会の対応

国会においては、昭和五七年四月二七日、二八日の第九六回国会衆議院商工委員会で豊田商事のファミリー商法が取り上げられ質疑が交わされて以来、昭和五九年末までに、昭和五七年七月六日の参議院商工委員会、昭和五八年五月一八日及び同年一〇月四日の衆議院商工委員会、昭和五九年三月一〇日及び同月一二日の衆議院予算委員会、同年四月一二日及び同年一二月二〇日の衆議院物価問題等に関する特別委員会と合計九回取上げられ、ファミリー商法の現物まがい性、営業社員の勧誘行為の実態等その問題点について質疑がなされたが、これに対する関係各省庁の答弁、対応は、大要次のようなものであった。

まず、前記公開質問状に対する豊田商事の回答書の中で引用されている昭和五七年七月六日の第九六回国会参議院商工委員会における警察庁刑事局保安部保安課長仲村規雄の答弁は、「豊田商事については、大変関心を持っており、現在会社の実態あるいは個々の行為の態様、中身、内容等について慎重に調査している。」「豊田商事のやり口等についていろいろ調査をしているが、何分やり方が非常に巧妙なので、直ちに犯罪に該当するというわけにはいかないというのが実情であり、今後あらゆる法令に該当しないかどうか慎重に検討していきたいと考えている。」というものであり、右回答書でいうように犯罪に該当しないとは答弁しておらず、その後の警察庁の答弁、対応も右と同様であった。また、法務省も、「被害者が昭和五九年三月二四日付けで大阪地方検察庁に対して、豊田商事の関係者を詐欺罪等で告訴しているが、検察当局としては、これまでと同様、迅速適確に処理していきたい。」旨答弁し、さらに、通商産業省は、「豊田商事のファミリー商法については、通産省本省、各地方通産局の消費者相談室等に苦情が寄せられ、相談に応じているが、通産省としては、金地金の購入については、昭和五四年一〇月に設立した社団法人日本金地金流通協会加盟の登録店で現物と交換で購入するようテレビ、新聞、雑誌等でPRしている。また、豊田商事に対し内情等について聞いたことはあるが、答えはほとんど返ってこないという状況であり、立入調査権もないことから、現状では調査に限界はあるが、こういった消費者に非常に被害を及ぼすような商法が蔓延するということについては、消費者保護の立場から非常に問題であろうと思われるので、関係省庁とも連絡して今後とも的確に対処していきたいと考えている。」旨、大蔵省は、「出資法二条で規定する預り金に該当するかどうかについては、勧誘行為の実態、資金拠出者の認識等事案に則して個別に検討して判断する必要があると思うが、今後情報の収集を積極的に行って、必要に応じて関係当局とも十分相談していきたいと考えている。」旨、経済企画庁は、「豊田商事のファミリー商法に関して消費者の苦情が多発しているので、消費者全般に対して情報提供するなどし、また、関係各省とも協力しながら、消費者が被害を受けることをできるだけなくすように努力している。」旨各答弁し、いずれもファミリー商法について否定的見解を示していた。そして、昭和六〇年に入ってからも、破産時までに、同年三月二七日の衆議院法務委員会、同年四月一八日の衆議院物価問題等に関する特別委員会、同月二三日の衆議院決算委員会のほか、同年六月中に衆参両院の委員会で計一三回取り上げられ、前記ファミリー商法の問題点やゴルフ会員権商法、ネズミ講類似のベルギーダイヤモンドの販売システム等の問題点についても質疑が行われたが、各省庁の答弁、対応は、前述したのとほぼ同じ内容であった。

四  豊田商事の対応

以上のような豊田商事に対する社会の対応、動きについては、豊田商事は、管理本部が中心となって情報を収集していた。すなわち、昭和五七年九月二四日付け管理本部通達第四号「マスコミ対策の件について」により、最近マスコミによる新聞記事等が載ってこれにより顧客が動揺し解約等の申入があるが、このような新聞記事等が載った場合は速やかに各ブロック部長を通じ本社管理本部石松常務まで連絡するよう各支店長・営業所長らに指示し、さらに、昭和五九年一月一七日付け管理本部通達第八号「通産局及び各地消費者センター等訪問の件」により、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡、高松の各地方通産局消費経済課へ、担当者(東京、大阪については、本社管理本部次長、その他の通産局はブロック長)が毎週火曜日(但し、高松は第一、第三火曜日)に訪問し、クレームの件数、客名、数量、苦情の内容その他を聞き出し、それをその日の午後五時までに管理本部丙畠次長宛にファクスで報告すること、また、各県又は市の消費者センター、苦情処理センター等を各支店・営業所の管理責任者が毎週水曜日に訪問し、クレーム件数、客名、数量、苦情の内容その他を聞き出し、その日の午後六時までに管理本部丙畠次長宛にファクスで報告するとともに、所属ブロック長にも報告書を提出するよう各管理本部ブロック長、各支店・営業所の管理責任者宛に指示しており、昭和六〇年二月六日付けの「管理の業務」と表題のある文書では、警察関係について、営業マン等に出頭の依頼があった場合、直ちに当該警察に出向き出頭理由等を詳細に聞き出しその旨本部に報告すること、裁判所による仮差押、証拠保全等についても直ちに詳細報告し、仮差押については、応接室に通して応対し時間を稼ぎ、証拠保全については、時間がある場合は管理課から本部へ連絡し、本部から顧問弁護士へ連絡を入れて対応を考え、時間がない場合は用件を聞き時間を稼ぐ等対策についても指導していた。また、株式会社M&Bという会社を使って、警察や検察庁の動向、国会の動き、新聞報道の様子等を調査し、万全を期していた。さらに、昭和五八年四月及び七月ころの役員会議で豊田商事に関する新聞報道について報告がなされ、被告人藪内は、豊田商事に関係する報道がなされた各地の新聞に目を通して検印を押し、また、ゴルフ雑誌の「ゴルフダイジェスト」が豊田商事グループのゴルフ商法の問題点を追及する記事を掲載したことに関して作成された昭和五九年一一月二〇日付け「ゴルフダイジェストのTGK問題について」と題する報告書にも検印を押し、被告人山元も、金先物取引被害問題研究会作成の「金先物取引被害の実態と対策」と題する冊子に、昭和五七年一一月一六日付けの検印を押していた。

五  豊田商事の内部における状況

豊田商事では、右のようにファミリー商法に対する社会の各層からの批判があったことを十分承知しながら、これに耳を傾けることなく、かえって前記のとおり、営業社員らに対し、さらに高額の賞金や歩合を支給するなどして、導入金の拡大に狂奔し、豊田商事内部の社員らが抱いている疑問等に対しても、まともには答えず、ひたすら叱咤激励して導入金獲得にかりたてていた。

たとえば、昭和五七年一〇月ころから福岡支店長をしていた甲嶋五介が、導入金の半分近くを経費に費消していることからみても、償還をするためには運用額の倍額の利益を上げなければならないが、そんなに利益を上げる運用方法があるのかと大阪支店長を通じて営業本部長の被告人石川に尋ねたところ、「運用方法は企業秘密で詳しく言えないが、現場はそんなことは心配せず、売上げを上げることに努力せよ。」と返答し、大阪支店長であった乙嶋六介が、支店長会議で、客から聞かれると説明に困るので、運用方法を教えてほしいと言うと、被告人石川は、「ゴルフ場の経営を始めているし、マリーナの買収もしているから、運用のことは心配しなくてよい。」と答えるのみで、それ以上の説明をせず、また被告人藪内は、部課長会議の席上で丙川三郎から、マスコミに叩かれて部下が動揺しているが、どのように対応したらよいかと問われ、「部下のそのような動揺を押えられないようでは、幹部として値打ちがないからやめてしまえ。」と言い、経営コンサルタントとして銀河計画へ入社し財務部に配属された甲岡一彦が、部課長会議で、「銀河計画グループ全体の基本方針をたてて、計画的に運営すべきである。」と提言したところ、被告人藪内は、「そんなことは財務だけでやっておけ。」と言って一蹴した。

そのほか豊田商事の部内で行なっていたテレホン嬢に対するアンケートでも、ファミリー商法に対する疑問や真剣に会社の倒産を危惧する声が集まっていた。

第九被害の状況

一  導入額について

豊田商事が、第一期の昭和五六年四月から第五期の昭和六〇年六月までの間に、ファミリー契約により顧客から受け入れた導入額は、別表一四導入額一覧表のとおりである。これを期間別にみると、

1 第一期(昭和五六年四月~昭和五七年三月) 約九一億八五〇〇万円

2 第二期(昭和五七年四月~昭和五八年三月) 約三〇四億二四〇〇万円

3 第三期(昭和五八年四月~昭和五九年三月) 約五四〇億七五〇〇万円

4 第四期(昭和五九年四月~昭和六〇年三月) 約九二一億三七七一万円

5 第五期(昭和六〇年四月~同年六月、但し、昭和六〇年六月分は、計上していない。) 約一五五億二七一七万円

6 全期間

合計 約二〇一三億四八八八万円であった。

ちなみに、豊田商事が五年ものファミリー契約の導入を開始した昭和五八年七月以降の導入額は、約一四八九億円であり、昭和六〇年一月以降の導入額は約四〇三億円であった。

二  破産時におけるファミリー契約の導入額と未償還額

1 残存ファミリー契約の導入額

豊田商事においては、大阪本社総務本部業務部が、地方店舗からの報告に基づき、ファミリー契約毎に店舗名・顧客氏名・契約種別・注文年月日・一グラムあたりの注文単価(国内値)・注文数量・手数料・総代金(売買代金に受取手数料を加えたもの)・賃借料・差引金額(総代金から賃借料を差引いたもの)・入出金庫年月日・入出金金額・入出庫数量・契約期間・償還年月・担当者(営業社員、テレホン嬢)等のデータを同社の電算室コンピューターに入力し、そのデータに基づき出力された顧客契約台帳等により(他に顧客管理台帳もある。)、全顧客の顧客管理を行っていたが、前記のとおり、永野の指示により右顧客契約台帳をすべて廃棄処分したため現存しないものの、コンピューターに入力された右データは永野の指示にも拘らず破産宣告時に電算室で保管されていたため、豊田商事の破産管財人が管財業務の一環として、右入力データから、破産時に残存している未償還のすべてのファミリー契約について、顧客名・注文日・商品・契約期間・国内値・注文数量・総代金・賃借料・差引金額・営業社員等のデータを出力して作成したのが、支店・営業所別「ファミリー契約者リスト」である。右ファミリー契約者リストにより、破産時になお契約が存続しているファミリー契約者を集計した結果は、

顧客件数 延べ六万一九五九件

注文数量 純銀 九七〇キログラム

純金・白金 六万一二七四・七キログラム

総代金(売買代金+受取手数料) 一六八七億六七七一万五四六八円

支払済賃借料 二五七億七四〇一万〇一九五円

差引金額(導入金総額) 一四二九億九三七〇万五二七三円であった。

2 残存ファミリー契約の未償還債務額

昭和六〇年七月一日の豊田商事の破産宣告時点において、未償還のまま残存していた純金等ファミリー契約の件数は、前記のとおり、延べ約六万二〇〇〇件であり、顧客から受け入れた総代金は、約一六八七億円に達するが、このうち豊田商事が顧客に対して償還すべき債務額は、右総代金から受取手数料を差し引いた金額すなわち豊田商事の決算報告書の負債勘定に計上している「インゴット受入金」であり、第五期決算報告書のインゴット受入金残高は、一五三七億三四六九万八四〇〇円であるから、これが、破産時にも存続していたファミリー契約の末償還債務額と認められる。なお、このうち、確定破産債権は、破産管財人作成の昭和六三年九月七日付け捜査関係事項照会回答書(証拠請求番号七四三五)によると、二万七九五一件、一一〇五億五二五〇万一五六〇円であった。

三  本件起訴にかかる被害の状況

本件起訴にかかる被害の状況を要約すると

1 犯行期間 昭和六〇年一月一日~同年六月一〇日

2 被害者総数 四〇六三名

3 被害総額 一三八億〇一五二万八三二〇円

内訳

(一) 現金 一三七億六八六三万九一七一円

(二) 金地金 一万〇九〇〇グラム(合計二七六六万四五〇〇円相当)

(三) 株券 五六七七株(合計四〇一万一五九〇円相当)

(四) 社債 一二〇口(合計一二一万三〇五九円相当)である。

被害者は、北海道から沖縄まで全国に及んでおり、その総数四〇六三名の年代別内訳は、

二〇代 一三六名(三・三パーセント)(最低年齢者二一歳)

三〇代 三五八名(八・八パーセント)

四〇代 三五三名(八・七パーセント)

五〇代 六〇〇名(一四・八パーセント)

六〇代一一四二名(二八・一パーセント)

七〇代一一六五名(二八・七パーセント)

八〇代 三〇〇名(七・四パーセント)

九〇代 九名(〇・二パーセント)(最高年齢者九一歳)

であり、そのうち女性が二四五七名で約六〇・五パーセント、六〇歳以上の被害者は、二六一六名で全体の約六四・四パーセントを占め、女性と六〇歳以上の男性合計は三五七四名で、実に約八七・九六パーセントの高率であった。

なお、最高被害金額は約九一三七万円で、一人あたり平均被害額は約三四〇万円であるが、これらの被害者は、老後の生活資金としてこつこつ貯えていた預貯金等を解約して騙取されたケースが大部分であった。

第一〇罪となるべき事実

被告人石川洋は、昭和五六年四月二二日大阪市北区梅田一丁目一番三号に本店(同五九年八月一七日同市同区梅田一丁目一一番四号へ本店移転)を置き、貴金属販売等を目的として設立された大阪豊田商事株式会社(代表取締役永野一男。同五七年九月二七日豊田商事株式会社に商号変更。以下「豊田商事」という。)に勤務し、同五七年四月から同社取締役、同年一一月から同社専務取締役営業本部長、同五九年二月から同社取締役副社長、同年四月豊田商事及びその関連会社の経営指導と資金の統括等を目的として設立され右永野がその経営を主宰していた銀河計画株式会社の取締役副社長を兼務するかたわら、同六〇年二月以降は、豊田商事の代表取締役社長を務め、主として同社の営業部門を統括していたもの、被告人藪内博は、同五七年一月豊田商事の取締役総務部長に就任し、同五八年一月から同社常務取締役総務本部長兼関連事業本部長、同五九年二月から同社取締役副社長を務め、同年四月以降は銀河計画の取締役副社長を兼務し、主として豊田商事及び銀河計画の総務・財務等の内勤部門を統括していたもの、被告人山元博美は、同五六年四月豊田商事の常務取締役に就任し、同五七年六月から同社専務取締役、同年一一月から同社専務取締役総務本部副本部長、同五九年三月から同社専務取締役財務本部長を務め、同年四月以降は銀河計画の専務取締役を兼務し、主として豊田商事及び銀河計画の財務部門を統括していたもの、被告人石松禎佑は、同五六年四月豊田商事の取締役に就任し、同五七年六月から同社常務取締役管理監査部長、同五九年二月から同社専務取締役管理本部長を務め、同年四月以降は銀河計画の専務取締役を兼務し、主として豊田商事の顧客管理部門を統括していたもの、被告人道添憲男は、同五七年一月豊田商事の監査役に就任し、同年一〇月から同社取締役業務部長、同年一一月から同社取締役総務本部副本部長、同五九年二月から同社常務取締役、同年六月から同社専務取締役総務本部長を務め、同五九年四月以降は銀河計画の常務取締役、同年七月以降は同社専務取締役を兼務し、主として豊田商事の総務・業務・人事部門を統括していたもので、いずれも右永野を補佐しながら豊田商事及び銀河計画の役員会議を通じて右両社の業務全般を掌理していたものであるが、豊田商事では、顧客との間で純金・純銀・白金(以下「純金等」という。)の売買契約と純金等の賃貸借契約と称する純金等ファミリー契約を締結し、顧客から純金等の売買代金及び売買手数料を受領する一方で、顧客に対し純金等の引渡しに代えて純金等ファミリー契約証券を交付することにより、顧客に引渡すべき純金等は豊田商事が一年又は五年の期限を定めて預託を受けることとし、預託期間一年のファミリー契約については右純金等の預託時価格に対し年一〇パーセント、預託期間五年のファミリー契約については右価格に対し年一五パーセントの各賃借料を顧客に前払いし(一年ものはファミリー契約締結時に、五年ものは契約締結時のほか更に翌年から契約応当月に向う一年間の賃借料を支払う。)、その預託期間満了時に同種、同銘柄、同数量の純金等を返還することを約しつつ、その実態は、契約締結時点では契約に見合う純金等の現物を保有せず、賃貸借の目的物となる純金等の特定もせず、純金等の売買及びその賃貸借の実質を伴わないまま、これらを巧みに仮装した取引形態により金銭を受け入れていたものであるところ、被告人らは、豊田商事が設立当初から顧客より受入れた金銭を多額の経費等に費消し、顧客に対し満期に償還すべき純金等の購入資金及び右賃借料の支払資金に充てるに足りる有効な資産の運用を行っていなかったため、毎期多額の欠損を計上し、新規契約の獲得により顧客から新たな資金の受入が得られないときには直ちに倒産する極めて不堅実な経営を続け、昭和五九年一一月ころには、豊田商事のファミリー契約による未償還債務額が約一〇〇〇億円に達しており、資金難のため、営業社員に対する歩合給の引き下げを行ない、また同社の関連企業とりわけ被告人らが最も期待していたベルギーダイヤモンドやゴルフ会員権による収益もほとんど期待できない状況になり将来的な展望もなかったことから、豊田商事及び銀河計画の経営はもはや破綻を来しており、新たに顧客から金銭を受け入れても、顧客に対し純金等を約定期限に返還し、また約定どおり賃借料を支払うことが不可能になるかも知れないことを認識しながら、さらに、警察の手入れを察知して財務関係書類等を廃棄するなど証拠の隠滅をはかり、また豊田商事の営業社員の給料が遅配になるなど資金繰りが極めて逼迫する事態となった昭和六〇年四月下旬ころ以降は、もはや約定どおり純金等を償還し、賃借料を支払う見込みがないことを知りながら、それもやむを得ないという意思を暗黙のうちに相通じ、右永野らと共謀のうえ、顧客との間に前記純金等の売買契約及びファミリー契約を締結する方法を引き続き行うことにより金銭を騙取しようと企て、別紙犯罪事実一覧表一―(一)ないし一一―(七)記載のとおり、昭和六〇年一月一日ころから同年六月一〇日ころまでの間、前後四〇六三回にわたり、大阪府八尾市高砂町○丁目○○番△号八尾市営住宅○○棟△△号C方等同表各欺罔場所欄記載の場所において、Dら同表各担当社員欄記載の豊田商事の営業社員を介し、Eほか四〇六二名の同表被害者欄記載の顧客に対し、真実は、豊田商事及び銀河計画の経営が破綻していて、顧客から新たに金銭を受け入れても、約定どおりの純金等の償還及び賃借料の支払ができる見込みがないことを秘匿したうえ、豊田商事は優良堅実な企業であり、純金等は安全確実な資産保有の手段であるうえに、豊田商事との間で純金等の売買契約と同時にファミリー契約を締結すれば、預託期間満了時には約定どおり確実に純金等を償還するばかりか、他の金融商品よりはるかに有利な所定の賃借料を前払いするので、純金等の値上りと合わせて二重の利益が得られるなどと申し欺き、同人らをして、預託期間満了時には確実に純金等の返還が受けられることはもとより、五年ものファミリー契約については約定どおりの賃借料の支払を受けられるものと誤信させ、よって、そのころ大阪市東区唐物町五丁目五番地東亜ビル内豊田商事大阪支店等前同表各騙取場所欄記載の場所において、同人らから現金合計一三七億六八六三万九一七一円、金地金一万〇九〇〇グラム(合計二七六六万四五〇〇円相当)、東京電力株式会社等株券五六七七株(合計四〇一万一五九〇円相当)及び同社等社債一二〇口(合計一二一万三〇五九円相当)を、現金、株券、社債については純金及び白金の売買代金及び売買手数料、金地金については賃貸借名下にそれぞれ交付を受けてこれを騙取したものである。

第二部証拠の標目《省略》

第三部弁護人らの主張に対する判断

第一弁護人らの主張(被告人道添の弁護人を除く。以下、個別にいう場合を除き、「弁護人ら」という。)

一  被告人石川及び同山元の弁護人(以下「被告人石川らの弁護人」という。)の主張

被告人石川らの弁護人は、被告人石川及び同山元の両名は詐欺について永野と共謀したことはなく、また、その犯意もないので無罪である旨主張し、その理由として大要次のとおり主張する。

1 共謀の点について

豊田商事は、創設者であり、かつ、同社の株式の大半を持つ永野のワンマン経営であって、同社の実態の全般を把握していたのは永野一人であり、被告人らは総務、人事、営業、財務、管理等のそれぞれの担当部門の責任者の地位を与えられた後、永野殺害に至るまでのわずか数年間、同人の指示、命令のもとに担当部門の職務を実行したというに過ぎないから、会社の実態の全般を知らされておらず、また、これを把握する立場にもなかったものであり、役員会議も協議の場ではなく、永野の意見発表とこれを実現するための指示、命令の場であった。したがって、被告人らが、それぞれ永野を補佐しながら豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理していたとの事実は認められず、ましてや、本件について永野との共謀の事実などなく、ただ、永野の指示命令に従っていたというのが実態であった。

2 詐欺の犯意の点について

(一)

(1) 被告人らは、永野が企画、実行したレジャー、航空、医療、貿易等各種の大規模な関連事業の収益によって、ファミリーの償還は十分可能であると信じていたが、右関連事業のうち、特に被告人らに償還の期待を抱かせる事業として次のものがあった。

ア ベルギーダイヤモンドは、昭和五八年二月に設立後、急成長を遂げ、その成長振りは豊田商事の導入額を凌ぐ勢いであったところ、その後一旦は行き詰まったが、それは経営のまずさによるものであって、企業基盤は堅固であった故、人材を得ることによって、十分再成長が見込まれ、現に経営陣の刷新により、その後徐々に上昇しつつあった。

イ 豊田ゴルフクラブ及び鹿島商事は、ゴルフ場の建設とゴルフ会員権の販売を目的とする会社であって、昭和六三年中に三〇コース、近い将来に一〇〇コースのゴルフ場を建設し、その共通ゴルフ会員権を発売しようとしていたもので、当時既にオープンしていたゴルフ場を含め、一九コースを買収済みで、他に仮契約ないし買収交渉中のものとして七コースあった。

近年ゴルフ人口の増加に伴い、ゴルフ会員権の価格が急騰し、ゴルフ会員権は資産として有用なものとなっており、また、投機ないし投資の目的となっているが、永野がこれに目をつけ、ゴルフ場の買収、建設、共通会員権の発売を目論んだことは、まさに画期的な企画であったというべきで、現に営業開始後わずか一年の昭和六〇年五月には月商一〇億円に達しており、被告人らがファミリー契約の償還をして余りある収益があがるものとして将来性に期待したとしても決して不思議ではなく、それ故にこそ、永野は、ファミリー契約をやめてゴルフ会員権の販売に切替えることとし、既に昭和五九年五月ころにその腹案を明らかにしていたのである。

ウ 豊田マリーンクラブ、大洋商事、豊田スキークラブ、西村商会、豊田航空グループ、豊田サバイバルクラブ等の会社は、ゴルフ会員権と同様、マリーン、スキー、テニス、スカイ、サバイバル等の各会員権の販売を目的とするもので、総じて右レジャー会員権の販売は時代に適した大規模でかつ期待のできる関連事業であった。

エ エバーウェルシー香港は、大規模なプロジェクトやビル建設等の受注があり、また、エバーウェルシーバンコックでも軍の施設に関する受注があり、商品取引でも相当額の黒字が出ていて、まさにこれからというところであった。

オ その他沖縄関係の開発、住宅関係、病院、牧場等の事業についても、その将来について期待できるものがあった。

(2) 検察官は、これら関連会社について、豊田商事倒産時に収益をあげていなかったから、到底償還を期待できるものではなかった旨主張するが、企業は有機的な組織体であって、まさに動的な存在であるから、一時点をとらえて、さほどの利益をあげていないから期待できないなどということはできない。殊に、豊田商事の関連会社は、いずれも将来に対する長期的な展望のもとに事業計画を立てていたが、その殆んどが設立後日が浅いうえ、企業には好不調の波がつきもので、幾度も見直しを繰り返しながらその基盤を固めつつ発展していくものであって、その良い例がベルギーダイヤモンドであり、短期間で急成長を遂げた後、一時低迷したものの、見直しをすることによって、再び成長することが十分に期待し得たし、ゴルフを始めとするレジャー産業についても、用地の買収や設備の建設等に投資を重ねてその収益基盤ができようとした矢先に、マスコミ批判に続く永野殺害という思いがけない事件の発生により頓挫してしまったもので、もし、かようなことがなければ、ゴルフを始めとするレジャー会員権の発売は、折からのレジャーブームにより十分軌道に乗って、莫大な収益を挙げ得たものと考えられる。

(二) 検察官は、五年ものファミリー契約は、単に償還の先送りにすぎない旨主張するが、関連事業はその成長に若干の期間を必要とするところ、永野は、五年の期間があれば、少なくともファミリー契約の償還に十分な程度に関連事業が成長するものと計算して、五年ものファミリー契約の導入を打ち出したものである。被告人らは、この五年ものファミリー契約の導入後、以前にもまして関連事業の成長に期待し、その収益による償還を確信していたのであり、顧客から金員を詐取しようという意思は全くなかった。

(三) 豊田商事ないし銀河計画では、検察官出身者を含む約一〇名の顧問弁護士が出席して、しばしば顧問弁護士会議が開催され、会社の法律上の重要な課題について討議し、かつ、弁護士に法律上の見解を求めており、ファミリー契約についてもそれが法律に抵触しないか殊に詐欺罪に該当しないか問題とされたが、ファミリー契約が詐欺罪になるとの意見を述べた者は一人もいなかった。そして、右顧問弁護士は、ファミリー商法について、その実態を知悉したうえで、適法であるとの判断を示していたものであり、被告人らは、右のような顧問弁護士会議における顧問弁護士らの意見や態度によって、本件ファミリー商法は、詐欺罪に該当しないと判断したものであり、被告人らがそのように判断したのも無理からぬことであった。

(四) 被告人石川が自己の弟、妻の姉及び妻の姪をわざわざ他の職場から引き抜いて豊田商事の関連会社に就職させたことや、被告人らも最後まで辞めずに豊田商事に在籍していたこと等の事実は、被告人らが関連会社の成長に大きな期待を寄せていたことの何よりの証左である。

3 供述調書の信用性について

被告人らの検察官に対する各供述調書中、右に反する供述記載は、被告人石川については、検察官が同被告人の言い分を聞き入れようとせず、自己の見解ないしは主張を押し付けて勝手に作成したものであり、被告人石松については、警察官による取調べ中の暴行や、自白すれば寛大処分をするかのごとき不当な利益誘導等による影響下で、検察官に対し、不本意な供述をしたものであり、被告人道添については、検察官により、取調べが終われば寛大な処分により釈放されるかのごとき口吻で、同被告人にその旨の期待を抱かせて、その反論を封じつつ、日下調書等に基づき一方的に作成したものであるから、いずれも信用性が認められない。

二  被告人藪内の弁護士の主張

被告人藪内の弁護士は、被告人藪内らに詐欺の犯意及び共謀がなく無罪である旨主張し、その理由として大要次のとおり主張する。

1 豊田商事が、顧客との間で純金等の売買契約と併せてファミリー契約を締結していたのは事実であるが、これは両者を組み合わせた取引形態であり、純金等の売買契約のみでも良く、意図的に純金等の売買と消費寄託を巧みに仮装したものではないから、検察官主張のごとく契約形式そのものが詐欺罪であるとはいえない。

2 豊田商事及び銀河計画は、永野が設立し、かつ、独裁的に経営していたものであり、役員会議においても、被告人らは発言こそしていたものの、永野の意見と食い違った場合には、その意見は通らなかった。また、会社内の組織はいわゆる完全な縦割であり、被告人藪内ら役員といえどもその担当業務を、永野の指示、命令に基づいていわば事務的に遂行していただけで、担当業務以外の業務についてはお互いに干渉できない立場にあった。

被告人藪内は、その役職上一応財務部門も担当していたことになっていたが、実際には財務部門には殆ど関与しておらず、したがって、被告人藪内が財務部門を統轄し、豊田商事及び銀河計画の全般を掌理していた事実はない。

3 検察官は、昭和五八年六月中旬豊田商事大阪本社貴賓室における役員会議で、五年ものファミリー契約の発売を決定したときに本件詐欺の共謀が成立する旨主張するが、被告人藪内は、五年ものファミリー契約の賃借料を年一五パーセントとし、また歩合を一五パーセントにするということに、経費の増加につながるという観点から強く反対したものの、永野の意見には逆らえず、最後まで反対意見を通せなかったにすぎず、したがって、共謀に加担していたとはいえない。

(一) ゴルフ、レジャー会員権の販売

永野は、昭和五八年九月、一〇月ころから、ゴルフ場の経営を含めたゴルフ会員権等のレジャー会員権の販売によって運用益をあげる事業計画を立て、昭和五九年になって、ゴルフ場の共通会員権の具体的な販売計画を立てた。その内容は、三年から五年の間で全国に一〇〇コースのゴルフ場を保有することとし、初年度はまず三〇コースを目標とするというもので、一ゴルフ場について会員権を三〇〇〇枚ないし三五〇〇枚、一枚につき二〇〇万円で販売するとして、これを単純に計算すれば、三〇×三〇〇〇×二〇〇万円で一八〇〇億円の売上があることになり、一コースの設立について二〇億円かかるとして、三〇×二〇億円で六〇〇億円となり、これを差し引いても一二〇〇億円の荒利が出ることになる。そして、右は三〇コースとして計算したものであるが、コースが増えれば増えるほど共通会員権の価格は値上げ可能で、一枚三〇〇万円ないし五〇〇万円でも売れるから、さらに売上は増えるし、一方、経費の方は、鹿島商事への委託販売をやめて豊田商事が直接販売することにすれば、既に店舗展開も終わっていることであるし、三〇パーセント位におさえられる見通しであり、また、オーナーズ契約の年一二パーセントの賃借料についても、売り切りの共通会員権の販売だけにすれば、賃借料の支払は不要ということになり、ゴルフ会員権が高騰を続けている状況と相まって、右計画によりファミリー契約の償還を賄うに足りる収益をあげることが実現可能であった。しかも、豊田商事では単に計画していただけではなく、順次ゴルフ場を買収し又は買収交渉をすすめ、現実にこれを実行しつつあった。

また、マリーン、スキー、テニス等の各種レジャー会員権の販売も、近時のレジャーブームに適合した企画であった。

(二) ベルギーダイヤモンドは、昭和五九年の秋、組織が改善されたうえ、経営陣を刷新して再出発したもので、その過去の実績からして十分運用益をあげることが期待できる会社であった。

(三) 商品取引関係において優良会社であった山文産業株式会社は、黒字であり、さらに増収を図ることが期待できた。

(四) 豊田航空関係の航空事業の関連会社も、運用益をあげる見込みがあった。

(五) エバーウェルシーインターナショナルも、中国広東省における貿易ビル建設計画、タイでの軍需設備計画、ハイチでの被服縫製工場建設計画等と大型商談が現実に進んでおり、また、社員も優良な人材を現地に派遣しており、順次運用益をあげていくことが出来る計画であった。

(六) 以上の次第で、被告人藪内らにおいては、被告者らに償還する意思は十分あり、またその見込みもあった。

5 被告人藪内らは、豊田商事の顧問弁護士らから、きちんと償還し、またその事業計画も立てておれば詐欺罪に問われない旨言われており、その言葉を信じて行動していた。

6 被告人らが、破産時までゴルフ会員権の発売等に努力し、逃走などしていない事実は、被告人らが詐欺にならないことを確信していたことの証左である。

7 なお、被告人藪内が朝日新聞社のインタビューに答えた内容は、同被告人が述べたとおり、正確に報道されていないし、同被告人が豊田商事の決算について赤字の圧縮方を指示したというのは、豊田商事の所有する不動産、什器、備品等の評価を見直せば赤字額も減少するのではないかと指摘したというのが実態である。また、興信所に対し、黒字の決算書を交付したのは、被告人藪内が発案したものではなく、永野の指示に従って交付したにすぎず、さらに、永野がファミリー契約の中止を言い出したことに被告人藪内が反対したのは、急にやめれば償還に困るからで、この時点ではゴルフ会員権の販売という実現可能な運用益をあげる計画があったので、むしろ同被告人の態度は正しかったというべきである。

8 被告人藪内以外の被告人らの検察官に対する供述調書は、結果的に償還出来なかったことで、多くの被害者に迷惑をかけたことから諦観し、あるいは検察官の言うままに供述すれば処分も軽くなると期待して、検察官の言うとおり作成されたものであり、また、乙野二夫の供述も、起訴を免れるため、検察側に殊更有利な供述をしたものであり、いずれも信用性に欠けるというべきである。

三  被告人石松の弁護人の主張

被告人石松の弁護人は、ファミリー商法自体は詐欺罪の欺罔行為に該当しないうえ、被告人石松らに詐欺の犯意はなく、その共謀も存しなかったので無罪である旨主張し、その理由として大要次のとおり主張する。

1 ファミリー商法自体は詐欺罪の欺罔行為に該当しないとの主張について

(一) ファミリー契約の法的性質

純金等の売買契約とファミリー契約とは全く別個の契約であり、しかも、売買契約においては必ず現物の受渡しがされており、しかる後に承諾者に対してのみファミリー契約を締結していた。そして、純金等ファミリー契約は、契約時に純金等を一定期間運用するものとして借り受け、同種、同銘柄、同数量の純金等をもって返還するというものであるから、消費寄託契約というべきであり、したがって、顧客との取引高に相当する純金等を常に在庫する必要はなく、その返還時に返還に必要な量の純金等を調達し、保有すれば足りるところ、豊田商事は、破産に至るまで若干の遅滞はあったにしても、現実に償還に見合う純金等を調達し、返還してきたのである。よって、ファミリー契約は、売買と消費寄託を仮装した借金システムなどではなく、契約自体欺罔行為に該当するものではない。

(二) 導入金の運用の実態

満期償還時に純金等を調達しないことが確定的であるにもかかわらず、ファミリー契約を締結するのは、欺罔行為に該当するというべきであるが、豊田商事は導入金の運用として次の事業を行っていた。

(1) 大阪府の金融業資格を有し、不動産担保の貸金業で利益を上げていた。

(2) 日本高原開発は、青山高原の土地を購入し、別荘地の販売業を始めようとしていた。

(3) トヨタゴールドは、金加工品の販売をしていた。

(4) トヨタツーリストは、旅行代理店を営業していた。

(5) エバーウェシー香港等は、大規模なプロジェクトやビル建設等の受注があり、さらに、現地での商品取引においても利益をあげて十分採算可能であった。

(6) ベルギーダイヤモンドと豊田ゴルフクラブは、それぞれダイヤモンド販売とゴルフ会員権販売で相当の期間利益を上げていた。

(7) 豊田マリーンクラブ、日本海洋開発、白鳥高原開発、豊田スカイクラブ、豊田航空、日本産業航空、公共施設地図航空、豊田スキークラブ、豊田サバイバルクラブ等によるマリーン、スキー、テニス、スカイ等の会員権販売を目的とする会社群は十分実現可能性があり、しかも近時のレジャーブームに乗って実現すれば利益が見込まれた。

(8) その他病院、建売住宅、牧場等の事業も計画中もしくは買収済であった。

右のうち、ゴルフ会員権販売システムについては、ゴルフ場三〇コース(一八ホール)として、一ホールあたり一〇〇枚の会員権を二〇〇万円で売り出す計画であって、右売買代金から鹿島商事の販売手数料四〇パーセントを差し引いても、一三〇〇億円程残る計算となり、この計画が実行されれば、ファミリー契約の償還は十分可能であったと考えられる。

以上のように、豊田商事は、ファミリー契約の償還が可能になるような事業計画を有していたのであるから、ファミリー契約自体が欺罔行為に該当しないことは明らかである。

2 詐欺の犯意の不存在の主張について

(一) 検察官は、本件においては、ファミリー契約形態についての認識があれば、それだけで詐欺罪の犯意がある旨主張するが、豊田商事においては、前述のとおり、純金等は現実に存在し、その受渡しもされていたのであるから、契約が仮装であるとはいえず、したがって、契約形態の認識をもって、本件詐欺の犯意があるとはいえない。

(二) また、検察官は、豊田商事の実態を隠して契約の勧誘をしたこと自体が、本件詐欺の犯意を構成すると主張するが、期限内償還が可能な限り、会社の実態をすべて告知すべき作為義務は商取引上も法律上もないというべきであるから、右主張は失当である。

(三) 本件において、詐欺の犯意ありというためには、償還意思が始めからないか、あったとしてもそれが客観的に不可能なことを認識していることが必要であるが、以下の理由により被告人らに右の意味での詐欺の犯意はなかった。

(1) 豊田商事の財務諸表は、第一期分を除いて、被告人石松ら取締役にも開示されておらず、被告人石松は豊田商事の正確かつ詳細な財務内容を知り得なかったし、また、同被告人は、関連会社報告会等にはほとんど出席しておらず、たまに出席したとしても、財務諸表の分析がなく、関連会社の営業実態について正確かつ詳細に知る由がなかった。

(2) 豊田商事は永野のワンマン会社であり、役員会議といっても、永野の決定した方針等の説明を一方的に受ける場にすぎないうえ、同社は完全な縦割組織であり、被告人らは全体の一部分を限定的に把握していたにすぎず、それぞれの担当部門の責任者であるとはいっても、結局は永野の指示、命令のもとにその担当部門の職務を遂行したというだけであって、豊田商事全体はもちろんのこと関連会社の実態は詳細には知らなかった。

(3) 昭和五九年三月三日の第一回顧問弁護士会議において、顧問弁護士らは、被告人石松らに、ファミリー商法は刑法上の詐欺罪に該当しない旨明言し、同商法に対するお墨付を与えたことから、同被告人らは、本件ファミリー商法は詐欺罪に該当しないと確信するに至った。

3 詐欺の共謀の不存在の主張について

以上のように、被告人らに詐欺の犯意がなかったことは明らかであるから、詐欺の共謀も存しなかったものというべきである。

4 被告人らの捜査官に対する供述調書は、長い拘禁と執拗な自白強要の結果作成されたものであり、しかも、その内容は、豊田商事は詐欺会社で、設立当初から詐欺の目的でファミリー商法を展開したとするもので、およそ事実に合致せず、不自然極まりないから、信用性がないというべきである。

また、乙野二夫の供述も、その退社理由や第二期以降の豊田商事の財務諸表が被告人石松らの閲覧に供されていたかどうか等の点について虚偽があり、信用性がないというべきである。

四  要約

以上のように、弁護人らの右各主張は、基本的に本件詐欺の犯意及び共謀を争う点において共通しているので、以下その点を中心に、第一部で認定した各事実に基く当裁判所の判断を示すこととする。

第二犯意の形成及び共謀成立の要因について

一  行為の反社会性

1 旧豊田商事の呑み行為

豊田商事の前身である旧豊田商事は、前記第一部の第一の一において認定したとおり、金地金の先物取引である予約取引及びサヤ取引を中心に営業活動を行っていたが、その予約取引の実態は、旧豊田商事は、客に対し、東京貴金属市場という私設市場に加入している業者で、顧客の注文を同市場に取次いでいるように装い、先物取引の委託証拠金名下に金銭を受け入れておきながら、現実には東京貴金属市場という私設市場は存在せず、したがって市場に取次ぐこともせずに、顧客から受入れた金銭を経費等に費消していたいわゆる金ブラック業者であった。

このように、旧豊田商事の実質的経営者であった永野は、既にこのころから呑み行為という反社会的な行為により、大衆から金銭を導入して会社経営を行っていたものであるが、後に述べるように、大阪豊田商事設立直前の昭和五六年三月に入社した被告人藪内を除く被告人四名は、ファミリー商法を開始する前の旧豊田商事が、呑み行為を行っていたことを事後的にせよ認識していた。

2 ファミリー商法の構造

(一) ファミリー商法の狙い

前記のとおり、金地金の先物取引において呑み行為を行っていた旧豊田商事は、前記第一部の第一の一において認定したとおり、昭和五四年末ころから昭和五五年初めころにかけての純金の暴騰により、客への精算金の支払ができなくなったこと等から経営から行き詰まったうえ、横行する金ブラック業者の悪徳商法を規制するために、昭和五六年初めころから、それまで規制の対象外であった金地金を商品取引所法の政令指定商品とする動きが出てきて、右先物取引が出来なくなることを察知した永野が、右規制に触れない新商品の開発に迫られた結果、案出したのが「純金信託証券」であったが、顧問弁護士から信託という名称を使うと信託業法違反のおそれがあるとの指摘を受けたため、間もなく発売を中止し、これに代わってほぼ同じ形態のファミリー契約による商法を企画したものであり、したがって、ファミリー商法の発端は、金地金の先物取引にあったと認められること、永野は、前記第一部の第一の二において認定したとおり、昭和五六年四月に旧豊田商事とは別法人の大阪豊田商事を設立したが、資本金一〇〇〇万円はいわゆる見せ金である可能性が強く、同社には自己資本というものはなく、しかも、前記第一部の第五の一で認定したとおり、旧豊田商事の顧客に対する約二〇億円を上回る債務を引継いでおり、金ブラック業者として、大阪豊田商事の信用力は全くなかったため、金融機関からの融資も受けられず、会社の運営資金を調達するためには、一般大衆から資金を導入するしかなかったこと、豊田商事は、前記第一部の第四の二において認定したとおり、契約締結の時点ではそれに見合う純金等の現物を購入しておらず、償還時にこれを仕入れていたので、それまでは客から受け入れた導入金はまるまる利用できたこと、後記第三部の第二の二の4で述べるように、豊田商事には償還に対する計画性は全くといってよいほどなく、ファミリー契約による導入金は、経費に費消するほか、もっぱら永野が行っていた商品先物取引の資金に使用されていたこと(前記第一部の第一の三の6の(一)において認定したとおり、時には社員の給与支払いのために備蓄していた金員を取り崩して差入保証金に投入することもあった。)、さらに、前記第一部の第二の一において認定したとおり、永野は、かつて商品取引会社に勤務した経験があり、丙島七介の検察官に対する供述調書(証拠請求番号一九)によれば、永野は、旧豊田商事の元社員であった丙島七介に、「日本の商売の考え方は時代遅れや。アメリカのように一晩たてば大金持ちにもなるし、一晩たてば貧乏人になってしまうような商売のやり方がある。」とか「人生自体がマネーゲームや。金を集めるのは一つのゲームや。いかに金を集めて利用するかが自分の人生や。」と話しており、また、昭和六一年四月四日付け司法警察員作成の捜査報告書(証拠請求番号七三三七)及び押収してあるカセットテープ一個(昭和六三年押第二二四号の二二一)によれば、永野がインタビューに答えて「二〇歳のときに相場を知った。」「株に対して興味がない訳ではないが、商品の方が資金効率が有利だ。」「商品はカネが少なくて多くもうけられる。」「商売の縮図は相場である。商品相場の良いところは経費がかからないところである。」「商売の法則、原理は、相手に損をさせてカネをもうけるのが商売だ。」「事業そのものは、マネーゲームと考えている。」等と述べているのであって、以上の各事業及び永野の経歴や考え方を合わせ考えると、豊田商事のファミリー商法は、永野が行っていた商品先物取引の資金を大衆から集めるために導入されたものと推認されるところであって、その本質は、大衆からの資金の借入れであり、その目的はまことに不健全というべきものであった。

(二) ファミリー商法の虚構性

(1) 現物の裏付けのないペーパー商法

豊田商事においては、前記第一部の第四の二において認定したとおり、現引と称していた純金等の売買契約だけを締結する場合も全くなかったわけではないが、その場合豊田商事には売買手数料しか入らず、殆ど利益にはならなかったから、同社は現物売買には重きを置いておらず、歩合給の算定基準も、売買契約のみの場合とファミリー契約を締結した場合とでは格段の差をもうけていたのであって(すなわち、歩合給の計算の対象となる売上は、売買契約のみの場合は、売買手数料を基準としていたのに対し、ファミリー契約を締結した場合には、導入額を基準としていた。)、豊田商事においては、純金等の売買契約とファミリー契約を組み合わせ、一体として機能させてこそ意味があったのである。

そして、豊田商事のセールス方法は、前記第一部の第四の三において認定したとおり、テレフォン嬢が顧客方に電話をして面談の約束を取り付けたうえ、営業社員が顧客方を訪れ、顧客に対し、純金インゴットの実物大の写真入りパンフレットを示しながら、現金と同じ、無税、値上がりが大といういわゆる純金の三大利点を強調する「現物トーク」と称していたトークを駆使して純金の購入をすすめてまず売買契約を締結し、その際、顧客から、署名捺印してもらった純金注文書(契約条項が記載されており、売買契約書の代りとなっていたが、その第四条(取引方法)には、売買契約の成立した日の取引価格をもって取引を行うこととし、契約日を含む三営業日以内に契約日の取引価格をもって対象現物を受渡す旨規定されており、第五条(履行日の履行方法)には、客は履行日に買注文の場合、現金を豊田商事に支払うと引替に対象物を受領し、受渡の場所は、原則として豊田商事の本店、支店又は営業所とする旨規定されていた。)を受領していた。そして、原則として、客宅では手付けだけを受領し、残代金は会社に来て支払ってもらうことにしており、来社した客を会社の豪華な応接室に案内したうえ、ヘルプと称して支店・営業所の管理職が応待し、見本用に置いてある純金インゴットの現物を示して実際に客の手に持たせ、「これがあなたに買っていただいた純金です。営業マンが話したようにズシーンと重いでしょう。」などと現物売買であるかのように装って客を安心させた後、引続き第二段階として、ファミリー契約の勧誘に入り、購入した余地金を豊田商事に預けた方が盗難、紛失のおそれがないうえ、それを運用して高い収益をあげることにより、顧客に所定の高額の賃借料を支払い、かつ、満期には買ってもらった純金と同種、同銘柄、同数量を返還するので、賃借料と純金の値上りの二重のもうけとなる旨いわゆる「ファミリートーク」をして、ファミリー契約を締結し、その際、客の署名捺印のある証券申込書が下欄にある純金ファミリー契約書並びに金地金の売買代金及び売買手数料の合計額から契約時に前払いする賃借料を差引いた金額(豊田商事ではこれを導入金と称していた。既に手付けを受領している場合には、さらに右手付け額を控除する。)等を客から受領し、客には納品書や純金等ファミリー契約証券を交付していたが、右各書類には、純金等インゴットの銘柄、ナンバー等インゴットを特定するような記載は一切なかった。

このように、ファミリー商法は、一応売買契約とファミリー契約の二段階に区分され、外観上それぞれが別個の契約である体裁を整えており、そのセールス方法も現物売買であることを殊更強調していたため、客の多くは、自己の購入した純金等の現物が存在し、その現物を豊田商事に賃貸することにより賃借料を受領できるものと理解していたが、豊田商事は契約締結時には売買契約に見合う純金等を仕入れておらず、預託期間満了時になってその都度仕入れるというのが実態であり(だからこそ、契約時点において導入金を全額利用することができた。)したがって、客との間で純金等の現物の授受は一切なく、客の手もとに渡るのは、現物の裏付けのない純金等ファミリー契約証券等の紙片にすぎなかった。

しかしながら、ファミリー商法の本質が一般大衆からの資金の借入れであり、契約に見合った金地金が存在せず、客の手元に残るのはせいぜい借用証程度の意味しかない純金等ファミリー契約証券だけのいわゆるペーパー商法であることを客が知れば、大半の客はファミリー契約の締結に応じないことは明らかであったので、この実態を隠蔽・仮装するための手段として、純金等の売買契約とファミリー契約を組み合わせたうえ、セールストークにおいて、殊更現物の裏付けがあるかのように装い、一般大衆の純金等に対するイメージ、信用力を利用して集金をはかったのが、豊田商事のファミリー商法であった。

なお、前記第一部の第四の二において述べたとおり、豊田商事発行の純金等ファミリー契約書及び純金ファミリー契約証券に記載されている約款の第一条には、「純金ファミリー契約は、純金の賃貸借契約である。」と明記されており、他の条項にも賃借料という文言が使用されていたが、一方で、第九条では「純金ファミリー契約の純金の返還については同種、同銘柄、同数量の純金を以って返還します。」と記載しており、また、昭和五九年三月五日付け業務通達第九二号により削除される前の第一〇条では「純金ファミリー契約期間が終了した時は、純金ファミリー契約の純金を純金ファミリー契約証券と引換に金銭でお支払いすることもあります。」と規定していて、その法的性質について非常にあいまいかつ不明瞭な規定の仕方をしていたが、これは、売買契約に引続いて契約するファミリー契約を賃貸借契約と称することにより、あたかも対象となる現物が存在するように客に印象付ける一方で、現物が存在しないことの辻褄合わせとして、契約時には必ずしも現物を保有している必要はなく償還時に調達すれば良いと主張できる余地を残しておくため、消費寄託契約ともとれるように殊更曖昧模糊とした形にしたものと推認されるのであって、その点でも非常に巧妙な商法であった。

(2) 出資法の脱法

前記のとおり、豊田商事のファミリー商法の本質は、不特定かつ多数の者からの金銭の受入れであったから、同社は、出資法二条の「預り金」の規定の適用を免れるため、純金等の売買契約と賃貸借契約と称するファミリー契約を組み合わせることにより、外形上豊田商事は、客に純金等を売却してその売買代金を受け取り、一方、右純金等を会社が賃借してその賃借料を客に支払ったうえ、期間満了等に純金等を返還するという形をとったというべきであり、このことは、永野らがファミリー証券を企画する際に、出資法その他の法令に違反しないかどうかを検討し、顧問弁護士にも相談していること(乙野二夫の検察官に対する昭和六二年二月一〇日付け供述調書(証拠請求番号一四)等により認められる。)、その後も、昭和五八年六月二九日に開催された部課長会議において、顧問弁護士の戊原十郎弁護士が、「ファミリーの金は預り金にはあたらないので、出資法違反にはならないが、ただ注文と同時にファミリー契約を結ぶことは少々問題があるので、できることなら注文を受けて地金を渡し、何日か経ってからファミリー契約を結ぶ方がいい。」旨説明していること(乙川二郎の検察官に対する昭和六二年二月二〇日付け供述調書(証拠請求番号一一三)により認められる。)、昭和五九年三月三日に開催された第一回顧問弁護士会議において、出資法に抵触しないかどうかについての検討がなされた結果、純金等ファミリー契約書第一〇条の金銭償還条項を削除することに決定し(甲谷一男の検察官に対する供述調書(証拠請求番号一一二)及び検察事務官作成の昭和六二年二月三日付け捜査報告書(証拠請求番号七三三八)により認められる。)、昭和五九年三月五日付け業務通達第九二号により削除したこと等をみれば明らかであって、豊田商事のファミリー商法はまさに出資法の脱法行為というべきものであった。

3 セールス方法の反社会性

(一) 対象

豊田商事のセールス方法は、前記第一部の第四の三において認定したとおりであって、豊田商事は、ファミリー商法の顧客として、主として一人暮しで資産を有する老人や家庭の主婦等に狙いを定めていたものであるが、概して、これらの人達は、セールス方法を徹底的にたたき込まれた百戦錬磨の営業マンに対抗するだけの投資知識を持ち合わせていないうえ、言いなりになりやすい傾向があり、しかも特に老人の蓄えというのは、その多くは老後の生活を支えるための資金であるから、このような人々を狙ってセールスをすること自体、まことに卑劣な方法であった。

被告人石川は、テレフォン嬢の勤務時間を午前一〇時から午後三時一〇分までとしたのは、それがテレフォンのパートを募集するのに最も都合のよい時間帯であったからで、ことさら老人や家庭の主婦をターゲットにするため右の勤務時間を定めたのではない旨供述するが、前記認定のとおり、テレフォン嬢は電話帳のほか、店舗によっては、老人クラブ名簿、軍人恩給関係等の名簿を使用して電話をしていたこと、テレフォン嬢が客から聞き出して面接用紙に記入すべき事項の中には、年齢、職業、家族構成等が含まれており、このことは、取りも直さず豊田商事がこれらの点を重視していたことを示すものであること、テレフォン嬢が電話をし、かつ、営業担当者が訪問する時間帯である平日の昼間に在宅している人は、自営業者以外では、成人男性等に比べて勧誘しやすい老人や家庭の主婦が多いことが十分予測できたはずであること(現に、前記第一部の第九の二で述べたとおり、本件被害者のうち、六〇歳以上の人が全体の六割を超えており、また、全体の約六割が女性であって、女性と六〇歳以上の男性の合計は八七・九六パーセントであった。)、戊江五治の司法警察員に対する供述調書(証拠請求番号四一)によれば、テレフォン嬢に対し、職場での面談や自営業で営業中の面談は取り付けないよう指導していたこと、甲沢六治の司法警察員に対する昭和六二年一月二四日付け供述調書(証拠請求番号八九)によれば、昭和五八年六月ころ、テレフォン部門の北海道ブロック長をしていた甲沢は、釧路営業所のある地域が、共働きのため昼間不在の家庭が多く、テレフォンの成績が悪かったことから、電話をする時間帯を夜間に変更したところ、夜間は、主人や息子らが在宅しており、また、家庭だんらんの時間帯であったことから全くといってよい程契約がとれなかったため、一か月足らずですぐに中止したことが認められること、乙月五雄の司法警察員に対する昭和六二年四月一日付け供述調書(証拠請求番号八三)によれば、テレフォン責任者等を対象とした研修の際に使用する「各テレフォンフロントの実施事項」と題する教材には、「お年寄りの方にアポを取る場合」という項があり、それには「若い人達より資金的には余裕がある可能性が高いから、一番留意して欲しいのは、主権(決定権)の有無です。要するに、お年寄りは時間的にひまがあるので強引にやればいくらでも面談につなぐことは出来るし、又お年寄りは大概のことは聞くとすらすら教えてくれる場合が多いので、思い切ったアプローチをして一歩突込んだ面談内容にするように努力しよう。」というような記載があること等を総合すると、前記テレフォン嬢の勤務時間の設定には、被告人石川の主張するような面もあったかもしれないが、やはりその主たる目的は、平日の昼間に在宅している可能性の高い老人、家庭の主婦の面談を取り付けるところにあったと考えられる。

なお、マスコミによる豊田商事の商法に対する批判や訴訟等が次々とおこされていることが盛んに報道されるようになってからでも、豊田商事との間にファミリー契約を締結し、本件の被害にかかった人たちには、平素から新聞などを読まない老人や女性が多く含まれていた。

(二) 方法等

セールスの手法についても、前記第一部の第四の三において述べたとおり、契約に見合う金地金の現物の裏付けがないのに、現物取引であるかのように装ったうえ、基本トークである純金の三大利点のトークすなわち純金は現金と同じ、無税、値上がりが大であるとの点はいずれも虚偽又は不正確というべきであり、さらに、各地の一等地の一流ビルに入居している豊田商事の支店・営業所に客を来社させ、豪華な内装設備や調度品、多数の関連会社名を記載した(半数以上はペーパー会社)豪華パンフレットや会社案内ビデオ等を見せたうえ、安全・確実・有利をうたい文句にしたファミリートークをして、ファミリー契約の勧誘をし、いかにも豊田商事が優良、堅実な会社であるかのように作為的に装っていたのは、豊田商事が、巨額の損失を計上しており、関連会社もそのほとんどが赤字であるという実態に照らせば、明らかに不当な勧誘方法というべきであった。

しかも、前記第一部の第三の四の5において認定したとおり、豊田商事は、営業社員に対する研修で、「五時間粘れ、客の方は断ることができなくなる。」「うそも方便」「契約するまで絶対に帰るな」等と教育し、前記第一部の第四の三において認定したとおり、営業社員は、その指示どおり長時間居座って相手が根負けするまで粘ったり、キャッチボールと称する煽りトークを用いる等して客の正常な判断力を失わせ、また、客宅に金地金の売買代金を支払うだけの現金を置いていない場合には、客の気が変わらないうちに営業社員が金融機関に同行し、もしくは代行して解約、払戻、借入等の手続を行って資金を調達し、その結果後戻りができないようにしたうえ、資金に余裕がある場合には増契約を勧め、全財産を洗いざらい吐き出させる等し、テレフォン嬢においても、面談の可能性がある客に対しては、面談の約束がとれるまで執拗に何回も電話をする等していたものであり、このような豊田商事のセールス方法は、社会的に許容される範囲を明らかに逸脱した非常に強引なものであった(なお、前記インタビューに対して、永野は、「うちのセールスの基本は、お客さんが断れないようにもっていくことであり、そのようにこちらで教育している。」「お客の断り文句で一番多いのが、お金がないということであるが、お金がないという断り文句を一定のところまでいくと壊してしまうようなセールストークが組まれている。お金がないという切札について言えなくなって陥落してしまう。」と述べていた。)。

(三) まとめ

以上のように、豊田商事のセールス方法は、もっぱら勧誘しやすい老人や家庭の主婦を狙って、客観的に虚偽であるセールストークを駆使したうえ、客の判断力を失わせるべく社会的相当性の範囲を逸脱した不当な手段を用いて、執拗かつ強引に契約の締結に持ち込み、老後の資金等生活のために必要不可欠な資金まで奪っていたものであって、極めて反社会性の強い行為であった。

4 会社実態の隠蔽・仮装

(一) 粉飾決算書の作成配布等

豊田商事は、発足当初から赤字続きで、新規導入金によってファミリー契約の満期償還を行ういわゆる自転車操業の状態が続いていたため、導入金の新たな獲得が得られなければ破綻することは避けられない状況にあった。そして、客が右のような豊田商事の実態を知れば、契約の締結に応じてくれず、導入金が得られなくなることは明らかであったから、豊田商事では、会社実態を秘匿するだけでなく、優良堅実な会社であるように装っていたが、わけても前記第一部の第一の三の4、同四の4の(二)及び同五の4で認定した第一期ないし第三期分の黒字の粉飾決算書の作成配布は、第一期が約八億八〇〇〇万円(見直し修正後は約三五億円)の赤字を約一二〇〇万円の黒字に、第二期が約三〇億円(見直し修正後は約一五八億円)の赤字を約一九〇〇万円の黒字に、第三期が約一八四億円の赤字を約五五〇〇万円の黒字に、それぞれ粉飾したものであって(なお、前記第一部の第五の一、二のとおり、第一期及び第二期分の修正前の公表決算書の赤字額も、被告人藪内の指示により圧縮されていた。)、いずれも粉飾の程度が著しいうえ、民間信用調査機関等にこれを配布することにより、一般大衆を欺く手段として用いられた点において、極めて反社会性の強い行為であった。

また、戊谷五男の検察官に対する昭和六二年三月二四日付け供述調書(証拠請求番号一〇七)、押収してある会社概要入り封筒一袋(昭和六三年押第二二四号の四四)及び会社概要(豊田商事株式会社)四冊(同押号の三七七の一ないし四)等によれば、豊田商事では、被告人藪内の指示により「会社概要」という冊子を作成していたが、その内容にはいくつか虚偽があり、たとえば、各役員は出資をしていないにもかかわらず、被告人藪内が適当に決めて持株数を記載しているほか、従業員数についても適当に水増ししており、さらに、売上目標についても、被告人藪内が適当に決めた数字を記載しただけで全く根拠のない数字というべきであり、右会社概要の作成も前記粉飾決算書の作成と同性質のものであった。

(二) 償還不能の隠蔽・仮装

豊田商事は、後記二で述べる要因により、設立当初から毎期多額の赤字を計上し、自転車操業を続けていたが、昭和五九年三月末には、期末未処理欠損金は約三七七億九〇〇〇万円の巨額に達し、さらに同年秋ころには、未償還債務額が約一〇〇〇億円となり、また、同年一一月には、それまで上げる一方であった歩合給の引き下げを断行せざるを得なくなる程資金が枯渇した。そして、同社の関連会社は、ほとんど収益を上げることが出来ず、とりわけ被告人らが最も期待していたベルギーダイヤモンドも、昭和五九年五、六月ころをピークとして売上高が低迷し、同年六月から物品税を滞納し、翌七月ころからは業者への支払も遅滞し始める等急速に経営が悪化し、また、ゴルフ会員権の販売も、後述のとおり、行き詰まりが予想され、将来的な展望もなかったことから、既にそのころには豊田商事及び銀河計画の経営は完全に破綻し、新たに顧客から金銭を受け入れたとしても、もはや約定どおりの純金等の償還に充てるべき資金を準備しうる可能性はほとんどない状態に陥っていた。

そして、被告人らは、第一部で認定した客観的な諸事実から推認されるとおり、右のごとく償還不能の状態に陥っていたことを認識・認容しながら、顧客のみならず、従業員らに対しても、豊田商事及び銀河計画の経営が完全に破綻していて、新たに金銭を受け入れたとしても、もはや約定どおりの純金等の償還に充てるべき資金を準備しうる可能性がほとんどない実情にあることを秘匿しただけでなく、豊田商事の会社組織を利用し営業社員らを督励して、積極的に顧客に対し、豊田商事は優良堅実な企業であり、純金等は安全確実な資産保有手段であるうえに、豊田商事との間で純金等の売買契約と同時にファミリー契約を締結すれば、預託期間満了時には約定どおり確実に純金等を償還し、かつ、他の金融商品よりはるかに有利な所定の賃借料を前払いするので純金等の値上りと合わせて二重の利益が得られるから有利な投資である旨申し向けさせて勧誘していたものであって、豊田商事の前記実情に照らせば、右セールストークは、まさに真実に反した虚偽の事実を申し向けたものであり、その結果、本件被害者は、例外なく預託期間満了時において確実に純金等の償還を受けられ、かつ、五年ものファミリー契約については以後毎年契約応当月に一五パーセントの賃借料の支払を受けられるものと誤信し、売買代金及び売買手数料等名下に、現金等を豊田商事の営業社員に交付したものである。そして、本件では、個々の勧誘行為において、セールストークの基本はすべて同じで、いずれも前記のとおりのものであったから、右セールストークは、本件詐欺の欺罔行為にあたるというべきである。

5 運用における反社会性

(一) ベルギーダイヤモンド

前記第一部の第一の四の16において認定したとおり、昭和五八年二月にベルギー製ダイヤモンドの裸石の会員制システム販売を目的として設立されたベルギーダイヤモンドは、その後急成長を遂げて、豊田商事の主要関連会社となったが、その販売システムは、ベルギーダイヤモンドからダイヤモンドを購入して会員となった者が、新たな会員(買主)を勧誘して会社に紹介し、その会員(買主)がさらに新しい会員(買主)を勧誘して会社に紹介するというように、ネズミ講形式で子孫会員が増えていくと、一定の条件のもとにその地位が上がって、紹介手数料の率も上昇するという仕組になっていた。

しかしながら、右システムによれば、会員がネズミ算的に増えていくことになり、やがては飽和状態になって最終的には破綻し、被害者が出ることは明らかであったから、それが直ちに無限連鎖講防止法等の法律に抵触するかどうかはともかくとして、少なくとも反社会的な商法であることは否定できず、現に、前記第一部の第八において認定したとおり、マスコミや国会等でもその商法の問題性について追及がなされていたところであって、このような商法が到底長続きするはずもないことは、被告人らにとっても当然に予測できたことであった。

(二) ゴルフ会員権

(1) ゴルフ会員権発売の目的

前記第一部の第一の四の15及び同五の3において認定したとおり、永野は、昭和五八年夏ころから激しくなったマスコミによる批判を受けて、周囲の者に、「いずれファミリーはやめないかん。マスコミに叩かれないような正業といわれる事業をやりたい。」との意向をもらしていたが、マスコミ報道に続き、弁護士らによる公開質問状の提出、被害者らによる民事訴訟の提起及び告訴、告発、国会での追及等ファミリー商法に対する社会的批判は一層激しくなり、極めて厳しい状況に追い込まれたため、同年一二月ころ、永野は乙川二郎に対し、「ファミリーはマスコミが叩くし、いつまでもやれない。これからゴルフの会員権を売ろうと思う。」旨述べて、ゴルフ会員権の販売システムの企画を指示し、昭和五九年二月から、同年四月オープン予定の札幌栗山コースについて、割引方式による会員権販売を開始したが、弁護士から、右割引方式は出資法違反のおそれがあるとの指摘を受けたため、発売を中止し、同年四月から、権利の販売に変更し、かつ、オーナーズ契約とマスターズ契約を組み合わせた「システムⅠ」と称するゴルフ会員権を発売し、次いで、同年六月から、豊田ゴルフクラブが保有する全コースを利用できる「システムⅡ」と称する共通会員権として発売するに至った。なお、右「システムⅡ」のオーナーズ契約は、ファミリー契約と同様の手法により、豊田ゴルフクラブが、豊田商事グループの保有する全コースの共通施設利用権を顧客に販売すると同時に、客に年一二パーセントの賃借料を前払いで支払って一〇年間右利用権を賃借し(その間、顧客はプレーできないことになる。)、一〇年後に会員から申し出があれば、会社が時価又は額面記載金額により責任をもって第三者に売却斡旋するというものであり、一方、マスターズ契約は、豊田ゴルフクラブが借り受けた右利用権を、プレーを希望する客に、年間一二パーセントの賃借料をとって貸付けるというものであった。

以上のようなゴルフ会員権発売の経緯に鑑みると、それまで豊田商事の営業活動の中心であったファミリー商法が行き詰まり、巨額の赤字を抱えて償還が困難になってきたことから、ファミリー契約に代わる新商品として、償還を要しない会員権を企画、販売するに至ったもので、その基本的発想は、ファミリー契約と同様、大衆からの資金の導入にあることは明白であり(現に、豊田ゴルフクラブの書類には、オーナーズ契約は、「ファミリー契約の一〇年ものの類似の契約である。」との記載があった。)、ただ、償還を要しないことや期間等の点でファミリー契約と異なっていた。

(2) ゴルフ会員権商法の虚構性

ところで、右ゴルフ会員権のセールストークは、前記第一部の第一の五の3において認定したとおり、会員権の利点として、いつでも売れる、すなわち現金と同じ、税金がかからない、値上りが大である等と説明し、さらに、オーナーズ契約については、年一二パーセントの賃借料がもらえるので、これを金利に置きかえると、他の金融商品に比べてはるかに有利であるし、会員権自体の値上りと二重のもうけになり、一〇年後には大変な値打ちになる等と強調するもので、ファミリー商法の場合とほぼ同様であった。

しかしながら、右ゴルフ会員権の対象となるゴルフ場の買収については、豊田商事グループにおいて、近い将来三〇コースを保有する旨標榜して、急激な勢いでゴルフ場の買収を行い、破産宣告までに一七コースを買収したが、永野が被告人石川に、「数をそろえるのが目的や。海外のコースがあると、客に格好がええ。会員権の売上に響いてくる。」と述べていることからも明らかなように、ゴルフ場の収益性や将来性を考えるよりも、とにかく数をそろえることを第一目標としていたことから、買収したゴルフ場は、高い交通費を支払ってプレーしに行くとはあまり考えられない遠隔地や海外のコースが多く、しかも、過去造成の途中で何度も倒産したコースや、多額の債務と大量の預託会員が存在し、その預託金の償還時期が到来しているか到来間近のもので経営困難な状態に陥っていたコースが殆どで(もともと経営状態の良好なゴルフ場が売りに出されるはずはなく、売りに出されるゴルフ場というのは、大概右のような条件の悪いものであったが、それにもかかわらず、豊田商事は、事前に十分調査することもなく、実勢価格よりもはるかに高い価格で買収していた。)、ゴルフ場経営の専門家のいない豊田商事グループが経営を引継いだからといって業績が好転するはずもなく、買収後も赤字経営が続いて、将来の見通しも暗かったこと、しかも、右一七コースの買収金総額は約三七一億円であるところ、全体の支払済額は約七五億円、未払額は約二九六億円であって、全契約額の約五分の一が支払われているにすぎず、未払分の決済は、一コースにつき毎月額面一億円ないし二億円程度の約束手形で分割支払をしていくというものであったが、前記第一部の第一の五の8で述べたとおり、これらの買収資金がもともと資金繰りの悪化していた豊田商事グループの資金状態を一層圧迫し、財務担当の被告人山元が、ゴルフ場の買収を担当していた永野や被告人藪内に、計画的にゴルフ場の買収を行うよう進言していたこと等からすれば、最終目標の一〇〇コースはおろか、当面の目標である三〇コースの確保も疑問であること等の点に鑑みると、右ゴルフ会員権は、セールストークどおり将来値上りするどころか、時価又は額面で第三者に売却できる見通しもなく、殆ど財産的価値がないのに等しいものであった。なお、約款には、豊田ゴルフクラブは、責任をもって売却斡旋する旨規定されており、購入する第三者がいなかった場合に、豊田ゴルフクラブが償還義務を負う趣旨であるのかどうかあいまいな形にしていたが、割引方式は出資法違反のおそれがあるとして権利の販売に変更した経緯や、前記第一部の第一の五の2において認定したとおり、永野が昭和五九年五月二九日ころの銀河計画の役員会議において、ファミリー契約を廃止する意向を表明した際に、「ゴルフやマリーンの会員権はカネを返さんでええからな。」と話していたこと等からすれば、豊田商事側では、償還義務はないものと考えていたことが認められるから、そうなると、ゴルフ会員権の購入者は、出資した金銭さえ戻らない可能性が大きく、また、オーナーズ契約の賃借料の財源となるべきマスターズ契約についても、ゴルフ会員権商法の対象がもっぱらゴルフには縁のない老人や家庭の主婦が多く、また、ゴルフをするについても、北海道や東北などの遠隔地や海外まで高い交通費を払ってプレーをしに行く人はあまりいないことなどから、契約がとれる見込みは殆どないうえ(現に、前記第一部の第一の五の3で認定したとおり、破産時までに締結されたマスターズ契約の件数は、わずか一、二件程度であった。)、豊田商事グループのゴルフ場の経営も軒並み赤字であることや、豊田商事グループ自体の資金繰りが悪化していたことも考え合わせると、採算を度外視して、専ら客寄せのために定めたと考えられる年一二パーセントという法外に高額なオーナーズ契約の賃借料さえ支払っていけるのかも疑問であり、以上によれば右ゴルフ会員権は、ほとんど値打ちのない紙切れ同然というべきで、これを前記のとおり、資産的価値があるように告げて勧誘し売りつけていたのは、まさにペーパー商法であるファミリー商法と軌を一にする反社会的な商法というべきものであり、現に当時のゴルフ雑誌でも、豊田商事グループのゴルフ会員権商法に対して批判警告する記事がのせられていた。

(3) ゴルフ会員権のセールス方法

ゴルフ会員権のセールス方法も、前記第一部の第一の五の3において認定したとおり、ファミリー商法と同一手法であり、テレフォン嬢が電話帳等により午前一〇時ころから午後三時ころまで客宅に電話をし、年齢、家族構成、収入等を聞き出して面談用紙に記入し、営業マンが右面談用紙に基づき客宅を訪問し、前記セールストークを駆使して勧誘するのであるが、その対象は、被告人石川が「テレフォン嬢が電話をかける時間帯(午前一〇時ころから午後三時ころまで)に自宅にいる人は、自由業の人か主婦又は年寄りが多く、実際にゴルフをする人が家にいることは少ないから、ゴルフのプレーの話より、会員権がいかに投資に向いているかという点に重点を置いて勧誘せよ。」等と指示していたことや、老人であること、一人暮らしもしくは小家族であること、一戸建住宅に居住していること等を条件の良い面談として、「A面談」と称していたこと等に照らせば、ファミリー契約と同様、ゴルフや投資の話とは全く縁のない老人や家庭の主婦を狙っていたことは明らかであり、また、そのセールスの仕方も、「五時間トークが鹿島商事の基本トーク時間である。」等と指導して長時間粘ったり、いわゆるキャッチボールと称するあおりトークを行っており、社会的相当性の範囲を逸脱した強引かつ執拗なセールスというべきであった。

(4) まとめ

以上のように、ファミリー商法に対する社会的批判をかわす目的で、ファミリー商法に代わるものとして企画したゴルフ会員権商法も、結局は、ファミリー商法の焼き直しにすぎず、その反社会性の面からも到底長続きするものではなかった。

(三) レジャー会員権

豊田商事は、ファミリー商法に代わるものとして、ゴルフ会員権の発売に続き、昭和六〇年四月からマリーン会員権を発売し、さらに、同年六月から、ゴルフ、マリーン、スカイ、スキー、テニス、サバイバル等の各会員権を包括した総合レジャー会員権を発売したが、これらについても右ゴルフ会員権と同様の問題点があった。

すなわち、前記第一部の第一の六の8において認定したとおり、マリーン会員権のシステムも、ゴルフ会員権の場合とほぼ同様で、オーナーズ契約とマスターズ契約(但し、マスターズ契約の賃借料は年一五パーセント程度)があり、一〇年後に会員から申し出があった場合に、会社が時価又は額面記載金額で責任をもって他に売却斡旋をするというものであったが、昭和六〇年五月ころまでに豊田商事グループが買収したマリーナ施設九か所のうち、昭和六〇年四月現在で営業可能であったのは、一か所だけであり、他三か所が営業移管の予定であったが、その他の五つのマリーナは、使用できる目処がたっておらず、しかも、買収総額約六〇億円(この他に、さらに買受価格未定のものがあった。)のうち、半分以上の約三五億円が未払であって、未払分の決済は約束手形で分割支払をしていくものであったが、ゴルフ場の買収と同様、買収額の未払分や多額にのぼることが予想されるマリーナ施設の建設資金、さらには高額な賃借料の資金を調達できる見通しもなく、(例えば、高知横浪マリーナの買収金の一部として二〇〇〇万円を支払うことの稟議が、銀河計画に出された際、昭和六〇年五月一四日付けの決裁書で、被告人山元は支払不能とし、被告人藪内は、支払条件等考えて五月中は不可能、六月に入り再稟議の事と付記して保留の決裁をしていたことは、前記認定のとおりである。)、海洋レジャーがまだ一般的に普及していない状況で、右のような貧弱な施設しかない豊田商事のマリーン会員権が、将来値上りしかつ換金性があるかどうかは、ゴルフ会員権の場合よりもさらに疑問であって、これまたペーパー商法といわざるを得ないものであった。

そして、同じことは、総合レジャー会員権にも当てはまり、前記各レジャークラブが保有していた営業可能な施設は、ゴルフ、マリーンについては前記のとおりであり、それ以外では、前記第一部の第一の六の8において認定したとおり、テニスについてはわずか一箇所、スキーについては用地取得の段階で、施設が十分に整っていないうえ、条件の良くないところが多く、総合会員権としての実質は、ほとんど備えていなかった。

なお、前記第一部の第七の三の21において認定したとおり、昭和六〇年三月中旬ころ、ムサシノ、エンタープライズの取締役であった甲田十平が、永野に、レジャー会員権を担保として提供して欲しい旨申し入れたところ、同人は、「うちの会員権は、ゴルフもマリーンもまだ買収をしているところで施設が整っていないから、担保にはならない。」と述べていたのであって、永野自身も右会員権に価値がないことは分かっていた。

6 総括

以上のように、豊田商事は、その前身ともいうべき旧豊田商事のころから既に呑み行為という反社会的な営業活動を行っていたものであるが、豊田商事が設立された後、ファミリー商法によって大衆から金銭を集め、これに対する社会的批判をかわすために、導入金を運用する関連会社として設立した中でも有力な鹿島商事や大洋商事で、ゴルフやレジャー会員権を販売し、さらに会員制システム販売で一時は有望視されていたベルギーダイヤモンドも、いずれも実態は金集めの会社であって、しかも前記のとおり反社会的な商法をとっており、その他多数設立、買収した関連会社は結局、運用のカムフラージュにすぎないものであって、このようにみてくると、豊田商事の営業は一貫して虚業であり、反社会的な活動といわざるを得ないものであった。

そして、このような商法は、社会的に許容される営業活動の範囲を逸脱したものであるから、もともと永続性のあるものではなく、早晩社会的に批判を浴びて立ち行かなくなることは明らかであった。もとより、これらの商法は、いずれも永野が中心となって企画したもので、その根底には、前記のような同人の独特の考え方があるものの、被告人らも役員として、右永野に協力し、右各商法を推し進めてきたものであり、豊田商事の各商法が次々にマスコミ等を通じて社会的に批判をあびて来ていた現状に照らしても、その問題点については当然認識していたものと認められ、したがって豊田商事の右各商法がいずれも長続きしないものであることも認識していたものと推認されるところである。

二  経営破綻の要因と償還困難性

1 設立当初からの経営基盤の欠如

前記のとおり、豊田商事は、設立当時から自己資本はなく、しかも、旧豊田商事の約二〇億円に上る債務を引継いで出発したものであって、財政的な基盤は全くなかった。そして、永野は、前記のとおり、商品先物取引の資金集めのために、ファミリー商法を発案したものであったから、ひたすら導入金の拡大を目指す以外に、何らの経営理念も窺われないうえ、人材も弱体であって、健全な会社経営のあり方からは程遠いものがあった。

2 ファミリー商法の損益構造

ファミリー商法は、豊田商事が客から取得する売買手数料に比較して、客に支払うべき賃借料の方が高額(但し、前記第一部の第四の一において認定したとおり、売買手数料のうち純金一〇〇グラム券については、一枚につき売買代金の五パーセントであるところ、客が現物の返還を希望せずに金銭償還を望む場合には、豊田商事が一旦返還した現物を買い取るという形にして、売買手数料としてさらに五パーセントすなわち合計一〇パーセントを豊田商事が取得することになるから、純金価格の変動を度外視すれば、一年ものファミリー制約の賃借料一〇パーセントと見合うことになるが、そのような場合は、ごく少数であり、他の多くの場合、とりわけ主力商品である五年ものファミリー契約の場合は、賃借料の方がはるかに高額であった。)であることから、右損失分を補ってファミリー商法(豊田商事ではファミリー契約の損益科目をまとめたものを「インゴット勘定」と称していた。)自体で利益を計上するためには、インゴットを低価で仕入れて、インゴット売上がインゴット仕入を上回るようにする方法しかなく、あとは償還時に、インゴットの相場が契約時より低落することを期待するしかなかった。

そこで、前記第一部の第五の一において認定したとおり、決算プロジェクトチームの責任者として第一期の決算作業を行った乙山七夫は、昭和五七年七月ころの役員会議で、右損益構造を永野ら出席役員に説明するとともに、純金の値上りによるインゴット差損の危険性を回避するために、資金のあるときに純金を仕入れ備蓄しておくいわゆる準備金制度の創設を提唱したが、これに回せるだけの資金的な余裕がないこともあって、右の提案は受け入れられず、償還時に償還に必要なインゴットを仕入れて償還するというのが実態であった。したがって、もし、純金は値上りするとのセールストークどおり純金が値上りしていれば、巨額の損失を計上していたところであったが、右セールストークとは裏腹に、昭和五五年初めころの一グラム六〇〇〇円台をピークに、以後下落の傾向をたどったことにより、相当額のインゴット差益が生じ、インゴット勘定自体の損益で大幅な損失を計上することは免れた。しかしながら、右は結果的に損失を免れたにすぎず、本来真摯に償還並びに賃借料の支払いを考えていたのであれば、当然右乙山の提案を受け入れるべきであったのにこれを採用せず、不確定要素が支配する金地金相場の成行にまかせるというのは、極めて危険なやり方であって、ファミリー商法に一貫して流れている償還に対する無計画性を如実に示すものであった。

もっとも、被告人山元博美の当公判廷における供述及び第五回公判調書中の証人乙山七夫の供述部分によれば、財務担当の被告人山元や乙山七夫の方で、独自に備蓄するため、毎日約二キログラムの純金を購入していたことが認められるが、その程度では、乙山の提唱した右準備金制度の趣旨を実現するためには程遠く、しかも給与の支払等にこれを取崩していたことが窺われるから、到底実効性のあるものではなかった。

以上の次第で、財政基盤の全くない豊田商事としては、客から受け入れた導入金を的確に運用して、多額の経費や顧客への償還資金並びに高額な賃借料等を賄うに足りるだけの収益を上げることが、会社存立のために必要不可欠であったが、豊田商事では設立当初から導入金の運用を真摯に考えておらず、遅ればせながらとりかかった運用による収益も全くあがらず、そのためやむなくファミリー商法によってあらたに受け入れた顧客からの導入金を食い潰して多額の経費と第二期から始まった償還の資金等にあてるといういわゆる自転車操業の状態を当初から続けざるを得なかった。

永野一男の側近にいた戊島九介の検察官に対する各供述調書(証拠請求番号三〇二、七三六七)によれば、永野は、昭和五九年三月ころ、銀河計画の成立を思い立ったころ、戊島九介に対し、「自分は中卒の学歴しかなく、大阪へ出て来たときは一万円札一枚しか持っていなかったので、いざとなれば一万円残れば損も得もない。」「ファミリーの返済をしないで倒産するわけにはいかないが、今の状態では無理だ。このままでは自分はいずれ手が後にまわることになるだろう。それは絶対に困る。倒産するにしても刑事事件にならないような倒産の仕方を考えておかねばいけない。俺には、もっとやりたい夢があるんだ。」と述懐していたことが認められ、これによっても、永野はこの頃において、既にファミリーの償還が不可能であることを承知していたことを物語っているというべきである。

3 五年ものファミリー契約の償還困難性

前記第一部の第一の三及び四において認定したとおり、設立当初から自転車操業の状態にあった豊田商事は、永野の商品先物取引の失敗により三〇億円を超える巨額の損失を出したことから、昭和五八年三月からノルマ倍増賞金作戦を実施して新規導入金の増大を図るとともに、償還の先送りのため、継続ノルマを新設する等して継続業務により一層の力を入れることとし、さらに、同年七月から、償還の先送りのため、従来の二、三年ものファミリー契約を廃止して五年ものファミリー契約を新設し、これについては、従来の主力商品であった一年ものファミリー契約より高額の歩合給を支給することにして、五年ものファミリー契約重視の方針を打ち出した。

しかしながら、五年ものファミリー契約は、償還の先送りができるという点では豊田商事にとって有利である反面、将来の償還や賃借料の支払を考えるとき、同社にとって極めて危険な商法であった。

すなわち、五年ものファミリー契約の場合、インゴット受入金の一五パーセントにあたる賃借料を前払し、受取手数料を二ないし五パーセント受取るので、導入金はインゴット受入金の八七ないし九〇パーセントとなるが、翌年から契約応当月に、インゴット受入金の一五パーセントずつの賃借料を四年間支払い、かつ、満五年目の契約応当月には満期償還しなければならないから、インゴット差損益を捨象し、導入金全額を運用に供したものと仮定すると、この導入金で初年度は、インゴット受入金の一〇ないし一三パーセントの利益(導入金はインゴット受入金の八七ないし九〇パーセントであるから、これを基準にすると、導入金の一一・一パーセントないし一四・九パーセントの利益)、二年目からは受取手数料がないので、毎年一五パーセントの利益(導入金の一六・六パーセントないし一七・二パーセントの利益)を上げ続ける必要があることになる。もし、右にいう利益を全く計上できなかった場合を想定すると、翌年から向こう四年間の契約応当月に顧客に対して支払うべき一五パーセントの賃借料は、契約時に受け入れた導入金をあてるほかなく、四年目の契約応当月の支払をもって七〇パーセントないし七三パーセントを支払ってしまうので、契約満了時には、導入金はインゴット受入金の二七ないし三〇パーセントしか残っていない計算となる。したがって、満期償還に必要なインゴットとを仕入れようとすると、別の導入金を不足する七〇ないし七三パーセントにあてるほかなく、もしこれに足りる別の導入金の受入れがないと支払不能に陥ることになる。

また、翌年、翌々年と次々に五年ものファミリー契約を締結していくと、導入額が毎年一定でも、顧客に対して支払うべき賃借料の負担は年々重圧となってゆき、翌々年の契約応当月(昭和六〇年七月)には初年度(昭和五八年七月)契約分と次年度(昭和五九年七月)契約分の支払賃借料が合計三〇パーセントとなり、初年度契約分の四年目の契約応当月(昭和六二年七月)には合計で六〇パーセント(一五パーセント×四)の高負担となって、五年目の応当月にあたる昭和六三年七月の契約満了時には、六〇パーセントの賃借料の支払資金と初年度分の満期償還資金が必要となり、以後同じような状況が続くことになる。したがって、右にいう利益が全く計上できなかった場合は、仮に導入額が毎年一定であり、かつ、経費に全く費消しなくても、昭和六三年七月には、その月の導入金では初年度分の満期償還資金ですら不足し、保有している導入金をその不足分と賃借料の支払資金にあてざるを得なくなるが、そのうち保有している導入金も底をつき、昭和六三年七月以降の早期の時点で顧客に対する賃借料の支払と満期償還が不可能になってしまうこととなる。そこで、これを回避する方法として導入額の増加を図ってゆくと、導入金を殖やせば殖やすほど顧客に対する満期償還債務や賃借料の支払義務が雪だるま式に殖えてゆき、早晩行き詰まることは必至であった。

しかも、以上は、導入金を経費に費消しなかったことを前提としたものであるが、現実には、経費が必要であるから、これをも賄うに足りる運用利益をあげる必要があるところ、前記第一部の第五の五で述べたところによると、豊田商事の導入金に対する販売費及び一般管理費の比率(第一期から第四期までの平均)は、約四四パーセントであるから、これを前提とすると、初年度は導入金の約五五ないし五九パーセント(前記のとおり、賃借料の支払のために、導入金の約一一パーセントないし約一五パーセントの利益を上げる必要があり、さらに経費支払のために導入金の約四四パーセントの利益をあげる必要がある。)、二年目以降は導入金の約六一パーセント(右と同様、賃借料の支払のために導入金の約一七パーセント、経費支払のために導入金の約四四パーセントの利益を上げる必要がある。)の運用利益を上げる必要があることになるが、通常の導入金の運用では、そのような高収益を上げ続けることは到底不可能であり、もし右利益を計上できないとすると、右に示した昭和六三年七月の時点よりもっと早い時点で行き詰まってしまうことは明らかであり、以上のような五年ものファミリー契約の特質、危険性については、特別な会計知識等がなくとも、常識で判断すれば当然分かることであるから、豊田商事の役員として経営に参画し、財務担当以外の役員であっても少なくとも導入額や経費率等を知悉していた被告人らにおいては、大よそのところは認識していたものと推認される。

4 償還に対する無計画性

前記のように、ファミリー商法によって受け入れた導入金は、契約期間満了時に返済しなければならないものであり、しかも、高額な賃借料の支払もしなければならないのであるから、顧客に対し、ファミリー契約が安全・確実・有利との勧誘をする以上、よほど周到な償還計画を立てて会社経営を行う必要があるにも拘らず、豊田商事においては、役員会議において、ファミリー契約の償還計画を検討したことは一度もなく、以下に述べるように、償還に対する無計画性は随所にあらわれており、全く場当たり的な経営を行っていた(先に述べた準備金制度を採用しなかったのもその一例である。)。

(一) 集金中心主義

豊田商事は、前記のとおり、財政基盤の全くない状態で出発したから、経営が軌道に乗るまでは、新規導入金に頼ることもある程度はやむを得ないともいえようが、豊田商事の場合は、当初から導入金の運用については真摯に考えておらず、むしろ導入金の獲得が第一義的であって、ひたすら導入金の拡大を目指す集金中心主義であった。

すなわち、まずファミリー契約の賃借料の設定については、前記第一部の第四の四で述べたとおり、導入金の運用計画を立て収益率等を綿密に検討して、支払える見通しをつけたうえで設定したものではなく、支払可能性を度外視して、もっぱらいかにして客に飛びつかせるかという観点から他の金融商品より高めに設定したもので、特に五年ものファミリー契約の年一五パーセント、五年で実に七五パーセントという賃借料に至っては、そもそもそのような高額の賃借料を支払ったうえで償還するだけの運用利益をあげること自体が難しく、全く常軌を逸したものであったが、これももっぱら五年ものファミリー契約を売らんがための手段であった。さらに、前記第一部の第三の三及び第四の四において認定したとおり、導入金の獲得及び増大のため、営業社員らに厳しいノルマや導入額による昇降格の人事基準を設定したうえ、高額な給与、歩合給、各種賞金、賞品等を支給し、成績優良者の表彰式を行なう等いわゆるアメとムチの政策で、社員を導入にかりたて、永野の受け皿を大きくして導入金の拡大を図るという方針により、一県一店舗を目指して、急激な勢いで地方店舗の増設を行ったことにより、人件費や家賃等が増大し、また、豊田商事の内情を秘匿し、同社が優良堅実な企業であることを見せかけるために、店舗用として、一等地の立派なビルを賃借りしたこと等に伴う高額敷金の差し入れや高額家賃の支払のほか、豪華な内装設備の調度品を整えるために多額の費用を支出し、さらに、同様の目的で多数の関連会社を設立、買収したことに伴う経費や、トヨタゴールドフェスティバルのような派手な催し物の開催費用等に惜し気もなく導入金を注ぎ込んでいった。

しかしながら、豊田商事の財務内容は極めて劣悪であったから、健全な会社運営を目指すなら、これらの経費をできるだけ節減する必要があるのに、右のような狙いから、分不相応な多額の経費を支出し(前述のとおり、導入金に対する販売費及び一般管理費の比率は、平均約四四パーセントであった。)、あるいは資金を固定化し、その結果、運用に回せる資金量が少なくなって、投資効果が減少するという悪循環をもたらした。

なお、右集金中心主義の結果、確かに導入金は増大したが、そもそも導入金は純然たる収益ではなく、本来返還しなければならない性質のものであるから、導入金の増大が即経営状態の好転をもたらすものではなく、受け入れた導入金を運用して収益をあげる必要があるにも拘らず、運用に回せる資金の減少は、豊田商事の経営悪化にますます拍車をかけることとなった。

(二) 第一期の運用実態

また例えば、豊田商事の第一期(昭和五七年三月期)における運用実態をみても、前記第一部の第一の二の3において認定したとおり、貸金業等は行っていたものの、ファミリー契約の償還に寄与するようなものではなく、導入金の運用は、もっぱら永野が行っていた商品先物取引に頼っていた。なお、前記第一部の第一の三の6において認定したとおり、豊田商事の海外事業部門として、海外現地法人がいくつか設立されたが、そのうちロンドンの現地法人「トヨタショージUKリミテッド」やニューヨークの現地法人「トヨタショージUSAリミテッド」等は、事業活動を行っていないいわゆるペーパー会社であり、豊田商事が海外にも進出していることを顧客らに印象付けるための見せかけにすぎず、また、その他のエバーウェルシー香港、台湾等の法人も商品取引を行っていたもので、永野の商品取引と軌を一にするものであった。

しかしながら、商品先物取引というのは、極めて投機的でリスクの大きい取引であるうえ、永野の相場の張り方というのは、前記第一部の第一の四の3において認定したとおり、少々の利益では満足せず、巨額の利益を狙って勝負するという博打的なやり方であったから、まことに危険性が大きく、到底運用という名に値しなかった。しかも、前記第一部の第一の三の6において認定したとおり、永野は役員会議に諮ることもせず、独断で商品先物取引を行っていたもので、これを知っていたのは、財務担当の被告人山元位であったが、昭和五七年の後半ころ各役員の知るところとなり、乙野を始めとする役員が、永野に商品相場から手を引くよう進書したものの、同人に「他に運用方法があるなら言うてみろ。あるなら相場をやめる。」等と開き直られ、各役員は、誰もこれに答えることができなかった。これをみても、被告人らは導入金の運用を永野に任せ切りにして、各役員はいずれも真面目に償還のことを考えているとはいえなかったのであるが、しかし豊田商事が大々的に顧客から資金を集めていることを考えれば、真剣に償還のことを考えなければならないことは当然であった。

(三) 関連会社経営の無計画性及び放恣なレジャー事業計画

前記第一部の第一の三の6において認定したとおり、豊田商事は、関連会社として、第一期末の昭和五七年三月二七日に、トヨタゴールドを設立したのを手始めに、もっぱら永野の発案で、第二期以降次々と関連会社を設立していき、その数は、昭和六〇年七月の破産時には約一〇〇社にのぼった。

ところで、会社経営の基本的なあり方からすれば、たとえば、グループ全体としての経営方針を明確にし、その経営方針に基づき、グループ内の各関連会社毎に売上額、経費、利益等を綿密に検討した計画をたてたうえで、その計画に従って、会社相互の関係も考慮しつつ、各関連会社の経営を行い、その結果を基に随時計画の見直しも行うというように、計画的に進めていくのが原則であると考えられるが、豊田商事においては、そのような計画性といったものは全くなかった。すなわち、豊田商事においては、事業計画というものは全く策定されておらず、関連会社の設立も、総じて永野の思い付きによるもので、数の割りには効率が悪かった。さらに、ペーパー会社は論外として、実際に動いていた会社でも、前記第一部の第七の三の17において述べたジャパンファイナンスのように、具体的な事業目的を決めずに適当に会社を設立した後、しばらくしてから事業内容を決定したり、乙山七夫の検察官に対する昭和六二年二月九日付け供述調書(証拠請求番号一四六一)によれば、関連会社の事務所用に、一等地のビルを借り受けながら、かなりの日数が経過した後に、ようやく人が入り実際に稼働するという例もよくみられ、杜撰さが目立った。

そして、このような無計画性は、ファミリー商法に代わるものとして企画されたゴルフを始めとするレジャー事業計画の場合も同様であった。すなわち、右レジャー事業計画は、当初から計画的に推進しようとしたものではなく、昭和五八年夏ころから激化したマスコミ批判をはじめとするファミリー商法に対する追及を免れるため思い付いたのが、まずゴルフ会員権であり、次いでマリーン、スカイその他のレジャー会員権に順次手を広げていったものにすぎなかった。したがって、全体的かつ合理的な事業計画といったものは何一つ策定されておらず、前述したとおり、ゴルフ場の買収は、とにかく数をそろえるのが第一で、事前に経営状態等を十分調査することもせず、経営不振に陥っていてしかも立地条件の良くないゴルフ場を、到底採算の合わないような価格で買収していたのが実情であった。

もっとも、弁護人らは、前述のとおり、ゴルフ会員権販売による収益により、ファミリー契約の償還を十分なしうるとの目算があった旨主張し、被告人石川及び同藪内もこれに沿う供述をするが、前記ゴルフ会員権商法の諸々の問題点に照らせば、被告人らの供述するところは、結局合理的根拠のない数字を並べた到底事業計画といえないものであることは瞭然であり、このことは、役員であった被告人らにおいても当然認識していたものと認められ、弁護人らの右主張は採用できない。

なお、永野は、前記インタビューに対し、「事業構想は自然にパッと思い出したもので、豊田商事は一つの豆であり、ここから芽が出てきて、第二弾がベルギーダイヤモンドだ。」「これからの狙い目はやり方一つだ。テニス、ゴルフ、野球、競馬、競輪、スキー、サッカー、ウインドサーフィン、みんなそれぞれ稼げる。いけそうなところは何でもやる。」と述べており、また、被告人道添の検察官に対する昭和六二年四月二日付け供述調書(証拠請求番号一四四五=七四一二)によれば、永野は被告人道添らに「会社というものは、一〇〇作っても皆成功するもんやない。一〇〇のうち二、三社生き残ったらええのや。」と繰り返し述べていたことが認められ、これらの一連の永野の発言やその考え方に照らすと、同人には、もともと計画的、堅実に事を進めていくという発想はなかったことが窺われるのであり、それが豊田商事の経営姿勢に大きく影響を及ぼしていたものというべきであった。しかしながら、右のような考え方は、前記のとおり、会社経営の基本から外れたもので、そのような経営姿勢を続ける限り、早晩破綻することは明らかであった。

(四) 検察庁へ提出した経営計画書の虚構

永野は、昭和五九年九月ころ、顧問弁護士の示唆により、検察庁へ提出するための経営計画書の作成を、乙川二郎に指示し、出来上がった「関連会社別経営計画書」及び「関連会社グループ経営計画書」を、昭和六〇年一月検察庁へ提出したことは、前記第一部第一の五の9において認定したとおりである。そして、右経営計画書には、ファミリー契約の償還が可能であるような数字が記載されていたが、右経営計画書は、その作成経過から見ても明らかなように、豊田商事が導入金を関連会社に投資して収益をあげ、その運用利益により導入金の償還をする計画をたてていることを装い、捜査機関からの追及を免れんがために作成されたものであって、公認会計士石川昌司ほか三名作成の鑑定書(証拠請求番号一五〇七)によっても、その記載内容は何ら合理的根拠のないものであることが明らかであるから、右経営計画書があるゆえをもって、豊田商事が導入金を計画的に運用していたとは到底認められないところである。

5 導入金獲得のためのコスト高

集金中心主義により、豊田商事は、一年ものファミリー契約においては年一〇パーセント、五年ものファミリー契約においては、年一五パーセント、五年間で実に七五パーセントという高率の賃借料を支払ったうえ、営業社員らに、高額な給与、歩合給、各種賞金、賞品等を支給し、さらに、全国制覇と称して一県に一店舗を目指して店舗展開を図り、しかも、豊田商事が優良堅実な企業であることを見せかけるために一等地の一流ビルを借りたことによる高額家賃の支払や人件費の増大等のほか、前記第一部の第三の五において認定したとおり、高額な役員報酬(交際費名目の裏報酬もあった。)を支給していたこと等により、導入金のうち、これら賃借金の支払や経費等の占める割合が極めて高くなり、したがって、必然的に運用に回せる資金が減少し、投資効果も低下するという結果をもたらした。

ちなみに、導入金に占める販売費及び一般管理費の割合は、第一期が約四五・七パーセント、第二期が約四四・七パーセント、第三期が約四二・七パーセント、第四期が約四五・二パーセント(第一期及び第二期については修正後の販売費及び一般管理費の額を基準に算出した。)で、平均約四四・五パーセントであり、また、検察官作成の昭和六一年一〇月二九日付け捜査報告書(証拠請求番号一七三)等によれば、昭和五九年四月から昭和六〇年三月までの平均で、導入金のうち、元本払使用金額が約一八パーセント、解約払使用金額が約八・七パーセント、協定書払使用金額が約〇・二パーセント、賃借料支払使用金額が約五・三パーセント、豊田商事の販売費及び一般管理費が約四四・三パーセントで合計使用金額が約七六・五パーセントとなり、その残りである約二三・五パーセントが使用可能資金であることが認められるが、これにより、ファミリー契約の巨額の償還金を賄うだけの収益をあげることはほとんど不可能に近く、現に、前記捜査報告書及び被告人山元博美の検察官に対する昭和六二年四月一一日付け供述調書(証拠請求番号一四一三=七四五四)によれば、昭和六〇年一月度の使用可能資金は約一四億円であったことが認められるが、昭和六〇年一月中に支払わねばならない手形並びに手形に準じた扱いで支払うべき分割支払分は、約八億七〇〇〇万円にのぼり、鹿島商事の販売費及び一般管理費分約六億一〇〇〇万円を加えると、それだけで不足する計算であった。

ところで、昭和五九年三月に行なった高額歩合作戦では、それまで四・五%であった五年ものファミリーの継続の歩合を、一挙に新規契約と同率の一五%に引き上げたのであるが、会社には一円も入って来ない「継続」にこのような高い歩合を出すことは、とりもなおさず、会社にそれだけ償還に回すべき資金が不足していることを示すものであった。

6 導入の限界(自転車操業の限界)

豊田商事は、前述したように、設立当初から導入金の運用による収益をあげることができず、自転車操業が続いており、財務内容も悪化する一方であったから、会社の存続、維持を図るためには、導入額を殖やす以外にはなかった。

しかしながら、以下に述べるとおり、導入額の増加にも一定の限界があり、長期にわたって多額の導入金が得られるという状況にはなかった。

(一) 店舗展開の限度

既に述べたとおり、永野は、受け皿を大きくすることにより導入金の増加を図るという方針を打ち出し、全国制覇と称して一県に一店舗を設置することを目標に、ハイペースで店舗を開設していった。ちなみに、地方店舗数の変遷を見てみると、前記第一部の第三の一において認定したとおり、昭和五六年四月の大阪豊田商事設立時は、旧豊田商事時代の店舗である大阪、福岡各支店及び北大阪、岐阜、三重各営業所であったが、昭和五七年一一月当時で六支社・三三店舗、昭和五八年七月当時で七支社・四六店舗、昭和五九年三月当時で九支社・五二店舗、同年八月当時で九支社・五七店舗、昭和六〇年三月当時で九支社・六〇店舗となり、支店・営業所の設置されていない県は、最終的には佐賀、高知、山口、鳥取、滋賀のわずか五県であった。

しかしながら、このような店舗展開にも限度があり、店舗数が増加して全国的にある程度行きわたってしまうと、それ以上店舗数を殖やしても人件費等が増大するだけで、導入額の方はそれ程殖えないであろうことは、乙川二郎の検察官に対する昭和六二年二月一九日付け供述調書(証拠請求番号二三八)により、被告人藪内が、昭和五八年六月ころ、乙川二郎に対し、「これまでは支店展開でやってきたが、それには限度があり、もうそう多くは作る余地がない。」と述べたことが認められ、また、前記第一部の第一の五の2において認定したとおり、昭和五九年七月の豊田商事の部課長会議で、同社の店舗展開は六一店舗で終了という発表がなされたこと等からみて、被告人らにおいても十分認識していたものと認められる。

(二) マスコミ等による社会的批判

豊田商事のファミリー商法の反社会性については、前述したとおりであるが、前記第一部の第八において認定したとおり、ファミリー契約が発売された昭和五六年ころから、早くもファミリー商法についての顧客の苦情が相次ぎ、やがて弁護士らによる公開質問状の提出のほか、各地の裁判所に保全処分の申請や民事訴訟の提起がなされ、さらに、各地の警察及び検察庁に、詐欺罪、出資法違反罪で豊田商事の関係者を告訴(告発)する等の法的手段に訴える動きが全国的に広がっていった。

また、マスコミも、右被害者らの動きに呼応して、昭和五六年ころから豊田商事の実名こそ挙げていないものの、ファミリー商法の問題点を取り上げて以後、昭和五八年夏ころから一段と激しく豊田商事のファミリー商法を批判する報道を行うとともに、右被害者らの動静や国会での質疑等豊田商事をめぐる一連の動きを逐一報道するようになり、さらに、国会でも昭和五七年四月二七日の第九六回国会衆議院商工委員会で豊田商事の問題が取り上げられて以来、昭和五九年末までに計九回、昭和六〇年に入ってからも破産時すでに計一三回取り上げられる等社会問題化した。

そして、ファミリー商法は、前述したように、社会的に受け入れられない反社会的な商法であったから、このように社会的な批判が高まっていく中で、ファミリー商法による導入を続けていくことは最早できない状況にあったといわざるを得ず、そのことは、被告人らも十分認識していたものと推認される。

(三) ベルギーダイヤモンド商法及びゴルフ、レジャー会員権商法の限界

永野は、前述したようなファミリー商法の限界を察知して、昭和五八年後半から昭和五九年初めころにかけて、ゴルフ、レジャー会員権商法への転換を企図し、まずゴルフ会員権の販売システムの考案等具体的検討を始め、また、昭和五八年末ころから昭和五九年前半にかけて売上高が急増し、業績好調であった主要関連会社のベルギーダイヤモンドにも期待を寄せ、前記第一部の第一の五の2において認定したとおり、昭和五九年五月の役員会議において、ファミリー商法を昭和六〇年三月ころまでにはやめて、ゴルフ会員権商法に切替える旨の意向を表明した。

しかしながら、ベルギーダイヤモンドの会員制システム販売の商法及びゴルフ、レジャー会員権商法のいずれについても、ファミリー商法と同様の反社会性や問題点があることは、前述したとおりであり、ファミリー商法と同様、社会的批判も高まりつつあったから、早晩行き詰まることは目に見えており、案の定、ベルギーダイヤモンドは、前記第一部の第一の五の12の(二)で認定したとおり、昭和五九年五月頃をピークとして売上げが低下し、同年六月ころから物品税の滞納が始まり、同年八月末ころ、同社が一八億円もの物品税を滞納していることを被告人らは銀河計画の役員会議で知るに至った。

またゴルフやその他のレジャー会員権商法もその裏付けとなるゴルフ場をはじめマリーナその他の施設の買収、設置には莫大な費用を要し、満足な施設を用意する資金が不足していることは、銀河計画の役員会議や関連会社報告会等における報告や会議の模様で、被告人らは十分認識し得たところであり、したがって、豊田商事がファミリー商法に対する追及をかわすために逃げ込もうとした右各商法にもまた限界があることは明らかであった。

7 導入金運用の無効果性

(一) 商品相場による損失

前述のとおり、豊田商事の初期のころの導入金の運用は、もっぱら永野が行っていた商品先物取引に頼っていたが、導入金は会社の営業活動によって得た収益ではなく、実質的には期日がくれば返済しなければならない性質のものであり、しかも、高率の賃借料を支払う必要もあったから、商品先物取引のような投機性の強いものに投資すること自体、健全な導入金の運用であるとはいえないうえ、永野の相場の張り方は、博打的であったから、導入金の運用としては甚だ不適切といわざるを得なかった。そして、その結果、約三〇億円を超える巨額の損失を出したが、永野はその後も前記第一部の第一の四の3及び同第七の三において認定したとおり、永野のダミーとして設立した投資専門の商品取引会社である菊池商事及び大和商事や、さらには買収した商品取引所の商品取引員の資格を有する山文産業、石原産商及び五菱商事を通じて、規模は縮小しながらも商品先物取引を続けたが、これも結果的には失敗に終わった。ちなみに、菊池商事の第三期(昭和五九年一月一日~同年一二月三一日)の当期未処理損失は約四〇億円であり、大和商事の第三期(昭和五九年四月一日~昭和六〇年三月三一日)の当期未処理損失は約一七億四〇〇〇万円であり、この損失の多くは、永野の商品先物取引の損失であった。

しかしながら、このような結果に終わることは、商品相場の性質上十分予測できることであったから、なるべく早い時期に撤退すべきであったのに、ずるずると最後まで続けたことにより、赤字が拡大し、傷口を広げることとなった。

(二) 関連会社への投資

(1) 元々資金力のない豊田商事が、導入金の健全な運用を考えず、もっぱら商品先物取引にこれを投入することにより資金の増加をはかろうとしたため、かえって多額の損失を招いたうえ、おくればせながらも着手した関連会社への投資は、豊田商事(銀河計画設立後は銀河計画)から、導入金の中から関連会社への貸付金という形をとってなされていたところ、その額は前記第一部の第六の二において認定したとおり、昭和六〇年七月末日現在で約三五五億円に達したが、前記第一部の第七の一において認定したとおり、豊田商事、銀河計画並びに財務諸表が不存在もしくは不備である会社を除く約八二社の昭和六〇年七月現在の期末未処理欠損金合計額は、約一二一億円にも達しており、収益をあげるどころか、殆どの関連会社が赤字であって、豊田商事からの貸付金の元本、利息さえ回収する見込みもなく、将来好転する見通しもなかった。

以上のように、関連会社に対する投資効果があがらなかった最大の要因は、関連会社経営の無計画性であり、それについては既に詳述したとおりであって、わけても関連会社の設立、買収は、非常に場当り的で、多岐にわたる業種の会社を、短期間にペーパー会社も含め約一〇〇社設立又は買収したが、それら多種多様な事業について知識や経験を有する人材は豊田商事にはいないうえ、関連会社に派遣された人には、豊田商事で能力がないとして出された人達も多かったのが実情であり、また買収した会社はいずれも経営状態が良くなく、もともと収益力のない会社であったから、そのような会社を人材不足の豊田商事が引継いだからといって、業績が好転するはずもなかった。

また、関連会社は、ほとんど収益が上がっていなかったうえ、銀行融資等が受けられるような信用力もないため、独自の資金繰りは一部を除いて出来なかったことから、運営資金は、もっぱら豊田商事又は銀河計画が貸付けていたが、豊田商事自体も悪評が立っていたため銀行融資が受けられず、実質的には高利の借入金ともいうべきファミリー契約による導入金の中から貸付けていたもので、しかも、同社は、当初から自転車操業の状態にあったうえ、次第に資金繰りが悪化してきたことにより、関連会社への貸付もままならなくなる等資金面においても非常に苦しい状態であった。

つまり、豊田商事グループの関連会社は、豊田商事の赤字を補填するどころか、逆に赤字を増大させて導入金を食いつぶす存在にすぎなかった。

このような関連会社の設立及び買収の経緯を見てみると、多額の顧客からの導入金を投じて、結局、無駄な会社を多数設立したことになるが、これも当初から計画性もなく、ファミリー商法に対する社会的批判をかわすため、あわてて導入金を運用している外観を整えようとしたことによるものであって、豊田商事の関連会社への投資の試みには当初から成功する基盤がなかったというべきであった。

なお、前記第一部の第一の六の8において認定したとおり、豊田商事グループでは、宗教法人である親鸞会に、昭和五九年三月ころから昭和六〇年三月ころにかけて合計一億三〇〇〇万円を寄付し、また、財団法人全国マラソン後援会に、昭和六〇年二月ころ、三五〇〇万円を寄付する等全く収益活動とは関係のないことも行っていたが、ただでさえ経営が悪化し、顧客に対し多額の未償還債務が発生していた時期に、このような利益にならない出資をしてますます資金繰りを逼迫させていたのも、永野の精神的な苦悩を物語るものでしかなかった。

(2) 弁護人らは、前記のとおり、被告人らはいずれも関連会社の収益に期待していた旨主張し、被告人らもこれに沿う供述をするが、被告人らが最も期待していたベルギーダイヤモンドについては、前記第一部の第一の五の12で認定したとおり、昭和五九年五月ころまでは業績もよかったが、(昭和六〇年三月期において、約三億円の当期利益を計上したが、当期未処理損失は約二億円であった。)、その後急激に経営が悪化したもので、被告人石川ら及び同藪内の弁護人が主張するように、たとえ経営陣を刷新したところで、到底業績の回復を望みえない程に将来的な展望もなかったことは前述したとおりである。また、ゴルフを始めとするレジャー関係の各会社についても、前記第一部の第一の五の3において認定したとおり、豊田ゴルフクラブの昭和六〇年三月期は約一〇〇〇万円の黒字であったが、鹿島商事の昭和六〇年三月期は約一九億円の赤字であり、両者を合算すると大幅な赤字であったうえ、既に詳述したとおり、これ又将来的な展望もなかった。

次に、エバーウェルシー・インターナショナルについても、前記第一部の第七の三の24において認定したとおり、商品取引を行っていた海外現地法人の累積赤字が、昭和五九年九月当時で約四〇億円以上もあり、また、貿易部門についても、確かに弁護人らが主張するようなプロジェクトや商談があったことは認められるが、その多くは、資金が続かなかったこと等で計画倒れに終わったもので、決して期待できる状況にあったとはいえなかった。

さらに、被告人藪内の弁護人が指摘する商品取引会社である山文産業については、確かに昭和五九年一〇月一日から昭和六〇年九月三〇日までの第三六期決算において、約一億三八〇〇万円の当期利益を計上していることは認められるが、それでもまだ約四六〇〇万円の累積赤字があるうえ、右利益の中には手数料だけでなく、自己売買による利益が含まれているところ、商品相場の性質上必ずしも常に利益が出るとは限らず、危険性も大きいことからすれば(ちなみに、山文産業の昭和五八年一〇月一日から昭和五九年九月三〇日までの第三五期決算によれば、約八五〇〇万円の当期損失であった。)、着実に利益をあげることが期待できる会社とはいえなかった。

その他、弁護人らの指摘する会社についても、前記第一部の第七において述べたとおり、いずれも期待の持てる会社ではなかった。

また、被告人石川らの弁護人は、企業は動的な存在であるから、一時点をとらえてその成否を判断すべきでなく、ある程度幅をもって見るべきである旨主張する。

そこで検討するのに、なるほど設立後しばらくは赤字が続いても、その後黒字に転換する企業があることは確かであるが、しかし、その場合には、設立に当たって具体的な数字を織り込んだ綿密な事業計画を立て、何年後かには黒字基調に転換するという成算があって経営に当たっているのが通常であるところ、豊田商事の場合は、これまで述べているように、そのような計画性は全くないうえ、ベルギーダイヤモンド及びゴルフ、レジャー会員権商法についても前述したとおりの問題点があり、黒字に転換するための合理的な見通しはついていなかったのであるから、通常の企業経営とは本質的に異なっているというべきであり、右弁護人の主張は採用し得ない。

8 劣悪な財務状態

右に述べた要因により、豊田商事は、設立当初から損失を計上し続け、その損失額は、第一期が約三五億円(修正後)、第二期が約一五八億円(修正後)、第三期が約一八四億円、第四期が約三二七億円、第五期が約一四二億円であり、第五期までの未処理損失は約八四六億円(なお、右未処理損失額は、第五期の公表決算書上の当期未処理損失額に比べ約三九億円少ないが、これは前記のとおり、第三期の決算作業にあたった丁川四郎が、誤って約三九億円を過大計上して第三期の公表決算書に記載し、以後それを前提に積算されたからであり、公表決算書上の損失額から約三九億円差引いた額が正確である。)に達しており、これをみると、豊田商事は設立当初から自転車操業の状態で、しかも、期を追うごとに損失額が増大して経営状態が悪化し、第三期ころからは営業の継続による赤字の累積は著しく、もはやファミリー契約の約定どおりの償還は到底不可能な状態にあったことが明らかというべきである。

以上に述べてきたところからも明らかなように、豊田商事は、自己資本もなく、巧妙な方法で一般大衆から金銭を集め、それを正しく運用することもなく、まず商品相場につぎ込み、ファミリー商法に対する社会的批判が高まるにしたがい、収益性のない多数の関連会社を設立、買収して多額の導入金をそれらの経費に費消し、さらにファミリー商法と軌を一にするペーパー商法であるゴルフをはじめとするレジャー会員権商法により一般大衆から金銭を集める等正常な経営常識では到底考えられない常軌を逸した所業を重ねて来たものであって、豊田商事が行って来た営業は、到底実業とはいえず、まさに「虚業」であるといわざるを得ないものであった。それにもかかわらず、多数の顧客を集め得たのは、取引及び会社の実態を隠蔽、仮装し、営業社員や顧客を好条件をかかげて誘導し、強引に契約をとることによって、急激に成長した全国的な規模の優良会社であるかのような外観を作り上げたことによるのであって、しかしながら、その実態は、前記のとおり、社会的にも経営的にも多くの問題点を有し、到底長く存続できないものであることは明らかであって、早晩ゆきづまることは必至の状態であった。

三  被告人らの認識と犯意

1 被告人らは、前記第二の一及び二において論じてきた事柄については、自らが関与する以前の出来事を除き、役員としての業務遂行の過程で、あるいは、役員会議、関連会社報告会及び顧問弁護士会議等への出席やマスコミ報道、国会での追及等社会の対応を通じ、認識の程度に差こそすらあれ、概ね認識していたものと推認されるところである(但し、黒字の粉飾決算書の作成配布については、前記第一部の第一の三の4、同四の4の(二)及び同五の4で認定したとおり、被告人藪内、同山元及び同石松は認識していたものと認められるが、その余の被告人については認識していたと認めるに足りる証拠はない。)。そこで、以下その要点について述べる。

2 旧豊田商事がいわゆる呑み行為を行っていたことについては、大阪豊田商事設立寸前の昭和五六年三月に入社した被告人藪内を除く被告人四名については、いかなる経緯で知り得たかはともかくとして、認識していたものと認められる。

右被告人四名は、呑み行為を行っていたことの認識はなかった旨当公判廷において供述するが、旧豊田商事が真実、市場に注文を取次いでいたのであれば、たとえ純金が暴騰しても、前述したような同社が客への精算金の支払に窮することはあり得ないというべきであるから、旧豊田商事の社員で純金相場の仕組みを知っていた右被告人らとしては、純金が暴騰して、旧豊田商事で取りつけさわぎがおこったという一事をもってしても、同社が呑み行為をしていたことを知り得たものというべきで、被告人らの右公判供述は措信できない。

3 前記第二の一の2のファミリー商法の構造の項で述べた主要な点すなわち、豊田商事は、その実態は、売買契約に見合う純金等の現物を保有しておらず、したがって賃貸借の目的物としても特定していないことから、純金等の売買と賃貸借を巧みに仮装した取引形態により、売買代金及び売買手数料等名下に顧客から金銭を受け入れていたものであり、またファミリー契約による導入金の本質は、満期に償還義務を負う借入金であること等については、被告人らは、いずれも次の点から十分認識していたものと認められる。すなわち、被告人らは、ファミリー商法の問題点(特に現物まがい性)を追及したマスコミ報道(前記第一部の第一の四の5及び第八の四において認定したとおり、豊田商事では、同社の記事が掲載された各地の新聞の写しを、全国の地方店舗から管理本部へ送付させていたが、その新聞には、被告人藪内の検印が押印されているものがあった。)及び弁護士らの公開質問状等の社会的な動き、並びに役員会議及び昭和五九年三月から開催されるようになった顧問弁護士会議(検察事務官作成の昭和六二年二月三日付け捜査報告書(証拠請求番号七三三八)によれば、右顧問弁護士会議において、訴状、準備書面等の訴訟関係の書類や新聞等の資料をまじえながら、顧問弁護士を中心として、国会での追及、被害者らによる民事訴訟の提起、告訴(発)等に対する対策を検討していたことが認められる。)への出席等を通じて認識を得ていたほか、被告人石川は、前記第一部の第二の二において認定したとおり、昭和五四年一一月末ころに、一旦旧豊田商事を退社した後、ファミリー証券が発売されたころの昭和五六年三月、旧豊田商事三重営業所に営業係長として再入社し、同年八月ころ大阪豊田商事岐阜営業所長、同年一一月ころ松山支店長、昭和五七年二月名古屋支店長、同年五月取締役名古屋支社長と、営業の最前線である現場の地方店舗でファミリー証券の販売に従事していたものであり、その後昭和五七年一一月専務取締役営業本部長に就任して以来、営業部門の最高責任者として永野を補佐してファミリー商法を推進してきたこと、被告人藪内は、前記第一部の第二の三において認定したとおり、昭和五六年三月に入社し、総務課に配属されて以後、一貫して総務畑を歩き、営業部門に直接従事した経験はなかったが、前述のとおり、昭和五七年七月ころの役員会議で、乙山七夫が、第一期の決算報告書の写しと共に、同人が作成した満期償還に備えて準備金制度を創設することを提唱した「経理におけるファミリー契約の処理及び考え方」と題する書面等を出席役員の回覧に付したうえ、導入金の性質は、受入金もしくは預り金といった負債であるから、満期償還に備えて純金を準備しておく必要がある旨説明したことを、右役員会議に出席していた被告人藪内も良く知っていたものと認められるうえ、同被告人は、財務部門を統括していた事実はないと主張するものの、前記第一部の第三の四の8において述べたとおり、被告人藪内は、特別な事項を除き、原則として、稟議書や資金ミーティングによる出金についての最終決裁者であり、また、決算報告書についても、被告人ら五名の中では、被告人藪内と財務担当の被告人山元だけが毎期閲覧し得る立場にあったこと(但し、前記第一部の第五の四において認定したとおり、第三期分については、当時被告人藪内の不正が発覚したため、永野の指示により見せてもらえなかったが、乙山から経過報告を受けていたので、大よそのことは知り得た。)、さらに、同被告人は、前記第一部の第一の五の8において認定したとおり、役員会議において、経費や償還の支払予定額等を説明していたことや同四の2において認定したとおり、五年ものファミリー契約の導入を決めた役員会議において、「台所を預かっている者としてはありがたい。御苦労ですがやって下さい。」との発言をしていること等を考え合わせると、同被告人は財務部門を統括していたものと認められ、純金等の購入量等を把握しうる立場にあったこと、被告人山元は、前記第一部の第一の一の2及び同第二の四において認定したとおり、昭和五四年三月に旧豊田商事に入社後、営業主任等を経て北大阪営業所長となり、昭和五五年八月に取締役に就任し、昭和五六年初めころ、永野からファミリー証券の原型ともいうべき純金信託証券の説明を受け、次いで、同年三月に開催されたファミリー証券の企画会議にも出席したうえ、昭和五六年四月の大阪豊田商事設立と同時に、同社の金庫番ともいうべき財務担当の役員となり、以後一貫して財務部門の実務上の責任者としての役割を果たしており、豊田商事の財務面については、純金等の購入量等も含め、その設立当初から最も良く事情を知っていたというべきで、乙山が導入金の性質を説明した前記昭和五七年七月ころの役員会議にも出席していたこと、被告人石松は、前記第一部の第一の一の2及び同第二の五において認定したとおり、昭和五四年五月ころ旧豊田商事福岡支店に営業社員として入社後、昭和五五年八月取締役福岡支店長代理となって、前記昭和五六年三月のファミリー証券の企画会議にも出席したうえ、同年四月大阪豊田商事取締役福岡支店長を経て、同年一一月に同社取締役管理部長に就任するまで、第一線の地方店舗の長としてファミリー証券の販売に従事して、その営業実態は熟知していたものと認められ、また、前記昭和五七年七月ころの役員会議にも出席しており、さらに、管理部門の責任者として、客からの解約申入れや苦情処理、あるいはマスコミ対策等に従事する過程で、ファミリー商法の問題点について詳細に知り得たと認められること、被告人道添は前記第一部の第二の六において認定したとおり、昭和五五年一月ころ一旦旧豊田商事を退社した後、昭和五六年一月同社三重営業所総務責任者として再入社し、その後昭和五六年四月ころ大阪本社の営業部係長として営業部門に従事した経験があり、昭和五七年一〇月からは取締役業務部長として常時役員会議にも出席するようになり、それ以後総務・業務・人事担当の役員としての役割を果たしていたこと(なお、同被告人は、金地金の現物授受を省略する場合の方が多かったことを当公判廷において認めている。)、以上を総合すると、被告人らはいずれも前記のようなファミリー商法の構造、本質については十分認識していたものと認められる。

もっとも、弁護人らは、純金等の売買と消費寄託を組み合わせた取引形態であって、巧みに仮装したものではない旨主張し、被告人石川も、必ず現物売買を先行させてからファミリー契約を締結するように指導し、現実にもそのような例が多かったように供述するが、本件被害者らの供述調書によれば、同被告人がかつて支店・営業所長をしていた店舗を含め、現物の授受が省略されていた場合がほとんどであることが認められること、前記第一部の第五の二において認定したとおり、昭和五六年一二月四日付け総務通達第一三一号により、各支店・営業所には、見本用の純金インゴットA、Bセット(合計四キログラム)と現物取引用に計三キログラムをそれぞれ在庫しておくようにとの指示がなされ、さらに、昭和五八年四月二二日付け業務通知第二六号により、各支店・営業所には、Aセット(二キログラム)だけを保管し、それは絶対に売却してはならないとの指示がなされていたのであり、したがって、各支店・営業所には見本用のインゴットが置いてあるだけで、契約代金額に相当するインゴットを置いていないことについては、支店長をしていた被告人石川は良く知っていたはずであること等の点に照らすと、同被告人の前記供述は措信できず、弁護人らの右主張は採用できない。

4 次に、償還困難性の点については、前記第一部の第一の三の6及び同第五において認定したとおり、永野は、会社の実態を知られることを極度におそれ、役員にさえも財務内容の詳細を知らせないようにするため、公表決算報告書は、第一期分については役員会議で回覧したものの、第二期分以降は回覧を中止し、また、第二期に入って役員会議で配布するようになった使用可能資金報告書も相当期間経過後配布を中止し、さらに関連会社報告会で配布していた各関連会社の月次報告書類等も会議終了後回収していたため、財務担当の被告人藪内及び同山元を除く被告人石川、同石松及び同道添の三名については、昭和五七年七月ころの役員会議に出席した被告人石松が、右会議で回覧された第一期の公表決算報告書を閲覧したことは認められるものの、第二期分以降からは見ておらず、また、右の役員会議に出席していたとは断定し難い被告人石川及び同道添の両名については、第一期分以降の各期の公表決算報告書を見る機会はなかったということになるから、藪内、山元の除く右被告人三名については、確かに豊田商事の各期の決算内容の詳細について認識していたとは認め難い。

しかしながら、前記のとおり、被告人らはいずれも、ファミリー契約による導入金の本質が満期に償還しなければならない借入金であり、前記ファミリー契約の損益構造からして、償還をするためには導入金を運用して収益をあげることが必要不可欠であることを認識していたと認められるところ、被告人らは、各部門の責任者として所管業務を遂行する過程において、あるいは、取締役に就任して以降、豊田商事の最高意思決定機関である役員会議に出席し、経営の重要事項等の説明を受けて、その決定に参加し、また、前記第一部の第五の二において認定したとおり、第二期に入ってから破産時まで、役員会議等の席上で、「導入金と経費の対比表」の配布もしくは説明を受け(被告人らは、いずれも当公判廷において、「導入金と経費の対比表」は途中で配布されなくなった旨供述するが、仮にそうだとしても、前記第一部の第三の二の1、3の(三)において認定したとおり、被告人らは、営業本部や業務部さらには被告人石川が作成した導入状況を示す資料により導入額を把握していたものと認められ、一方、前記第一部の第一の五の8の(三)、10において認定したとおり、財務部門の統括者であった被告人藪内が、役員会議等で経費率等について説明していたことが認められるから、いずれにしても被告人らは導入額と経費率についての認識を有していたものと認められる。)さらには、昭和五七年八月ころから毎月一回開催されるようになった関連会社報告会に出席し、各関連会社の社長や総務もしくは財務責任者から、毎月の営業成績等を記載した月次報告書に基づき、営業成績や経営方針等の説明を受けていたこと等により、豊田商事は、導入金を採算性のとぼしい関連会社や莫大な人件費等に費消しながら、設立当初から導入金の運用による収益があがらず赤字続きであって、黒字になる見込みのないこと及びファミリー契約による償還は新たに受け入れた導入金によって行ういわゆる自転車操業の状態が続いていたことを認識しており、赤字額についても、財務担当の役員であった被告人藪内およひ同山元以外の被告人らは、正確な数字までは知らなかったにしても、前記のとおり導入額と経費率については、役員会議等において知っていたものと認められるから、導入金の運用による収益がないことにより、大まかにいって導入金のうち経費として費消する分位が赤字となることは理解し得たはずである。したがって、赤字額についても、おおよそのところは認識していたものと認められる(なお、被告人石松は、前記第一部の第五の一において認定したとおり、「何故赤字額がそんなに少ないのか。」と発言していることが認められる。)。

なお、被告人石松の弁護人は、前記のとおり、同被告人は、関連会社報告会等にはほとんど出席しておらず、たまに出席したとしても、財務諸表の分析力がなく、関連会社の営業実態について、正確かつ詳細に知る由がなかった旨主張するが、同被告人が、当公判廷において、銀河計画主宰となる昭和五九年四月ころより前は、三、四回に一回しか関連会社報告会に出席していなかったが、同年四月以降はほとんど出席しており、欠席するのは四、五回に一回位の割合であった旨供述していることからすれば、関連会社の営業実態を認識する機会は十分あったことが認められ、そうだとすると、たとえ財務諸表の分析力がなくとも、少なくとも関連会社のほとんどが赤字で、導入金運用の成果があがっていなかったことや各関連会社の問題点、将来の見通し等については理解できたものと認められるから、弁護人の右主張は採用できない。

その他、被告人らは、前述した経営破綻の要因として述べたことがらについても、これまで本項で述べてきたことや後記第三において述べるような出来事等を通じて概ね認識していたものと推認される(但し、検察庁へ提出した経営計画書については知らない被告人もいた。)のであって、以上に述べてきたところによれば、被告人らは、豊田商事のファミリー商法を根幹とする営業が、社会的にも経営的にも前記のような多くの問題点を有し、到底長続きしないもので早晩ゆきずまることが必至であることを十分認識しながら、互にその意思を通じて、自己らのあまりにも高額な報酬を引き続き獲得するため、豊田商事の会社組織を利用して顧客との間にファミリー契約を締結する方法を維持することにより、金銭の受入れを継続しようと企図していたことが優に認められるところである。

そして、被告人らの本件詐欺の犯意及び共謀が成立した時期については、どんなに遅くみても、ファミリー契約の未償還債務額が約一〇〇〇億円に達し、資金繰りが困難となって、それまで導入金拡大のために引上げる一方であった歩合給でさえも引下げざるを得ない状況に追い込まれた昭和五九年一一月ころには、被告人らは、豊田商事及び銀河計画グループの経営が破綻を来たし、新たに顧客から金銭を受け入れたとしても、もはや約定どおりの純金等の償還に充てるべき資金を準備しうる可能性はほとんどなく、右純金等を約定期限に返還し、また約定どおり賃借料を支払うことが出来なくなるかもしれないことを認識しながら、それもやむを得ないとの意思を暗黙のうちに相通じたものと認めるのが相当であり、さらに、昭和六〇年四月下旬ころ、証拠隠滅工作や財務本部の香港への移転を策したり、またそのころ、同年四月分の営業社員の給与が遅配となることを知った時点では、被告人らは、もはや右償還不能を確定的に認識し、本件詐欺につき、確定的故意を有していたものと認めるのが相当である。

5 以上のように、被告人らが償還不能になるかもしれないことを認識・認容しながら、営業社員らをして、従前どおり、顧客に対し、豊田商事は優良堅実な企業であり、純金等は安全確実な資産保有手段であるうえに、豊田商事との間で純金等の売買契約と同時にファミリー契約を締結すれば、預託期間満了時には約定どおり確実に純金等を償還するばかりか、他の金融商品よりはるかに有利な所定の賃借料を前払いするので純金等の値上りと合わせて二重の利益が得られるなどと申し向けて勧誘させることが、詐罔行為に該当することは、前記第三部の第二の一の4(二)で述べたとおりであり、その旨誤信した顧客から金銭等の交付を受けることにより、本件詐欺罪の既遂が成立する。

なお、被告人藪内は、セールス方法については、全く知らなかった旨供述するが、相手方を詐罔し金員を騙取するについての共謀があれば、共犯者である営業担当の被告人石川らにおいて実行行為の内容を認識している以上、セールス方法についてまで必ずしも具体的に認識することを要しないし、また、少なくとも、豊田商事との間で純金等の売買契約と同時にファミリー契約を締結すれば、預託期間満了時には約定どおり確実に純金等を償還するうえ、所定の賃借料も前払いする旨申し向けていることの認識があれば、詐罔行為の認識として欠けるところはないというべきところ、右はファミリー商法の基本であり、ファミリー証券の約款やファミリー契約のパンフレット等にもその旨記載されているから、豊田商事の役員であった被告人藪内は、営業社員らが行っていたセールストークを含めたセールス方法の詳細についてまでは知らなかったとしても、右のようなセールストークの核心部分についての認識は有していたものと認めるのが相当である。

第三犯意の形成及び共謀成立の過程について

一(1)  前述のとおり、設立当初から自転車操業の状態にあった豊田商事は、永野の商品先物取引が失敗に終わり、他にこれといった運用方法も確立していなかった状況下において、破綻を免れるための当面の策として、新規導入金の増額を図るとともに、償還の先送りをするために役員会議で決定したのが、昭和五八年三月から実施した継続ノルマの設定とノルマ倍増賞金作戦及び昭和五八年七月に発売を開始した五年ものファミリー契約であったが、右は経営の根本的な建直しを図るための方策ではなく、むしろ自転車操業を継続し、当座の経営危機を回避するための弥縫策にすぎなかった。

被告人石川らの弁護人は、関連事業の成長には若干の期間を必要とするところ、永野は、五年の期間があれば少なくともファミリーの償還に十分な程度に関連事業の成長が見込めると計算して五年ものファミリー契約を企画した旨主張するが、その当時、将来ファミリー契約の償還金を賄うだけの収益をあげられる見込のある関連事業はなかったし、その計画もなかったこと(ファミリー商法に代わるものとしてのゴルフ会員権商法が具体的に永野の構想として浮かび上がったのは、前述のとおり、乙川二郎に企画立案を指示した昭和五八年一二月前後のことと推認される。)、また、そもそも、五年ものファミリー契約の償還には、前記第二の二の3で述べたとおり、導入金の五〇パーセント以上という高収益を毎年あげ続ける必要があるところ、導入金の中から運用に回せる資金も少なく、関連事業により右のような高収益を生み出すことは、非常に困難であると考えられ、永野を始めとする被告人らもこの点は十分認識していたものと認められること、前記第一部の第一の四の2において認定したとおり、五年ものファミリー契約の発売を決めた役員会議において、永野が乙野の反対意見に対し、「お前、何を甘いことを言うとるんや。今この現状のままではやっていけへんやないか。ほっといたら、会社の寿命が尽きるのが早くなるだけや。背に腹はかえられん。」などと述べたことが認められ、これらの点に照らすと、永野に弁護人主張のごとき成算があってのこととは認められず、やはりとりあえず償還の先送りをして償還不能の事態に陥ることを避け、その間に対策を考えるといういわば窮余の一策として企画したものと認めるのが相当であり、このことは被告人らも、豊田商事の置かれた状況や前記永野発言を聞く等して十分認識していたものと認められる。

(2) ところで、昭和五八年八月ころから、ファミリー商法に対するマスコミ批判が一段と激しくなり、同年一〇月には、弁護士らから公開質問状が提出される等被告人らに改めて反省を迫る機会が出てきたのであるから、被告人らはそれを契機にして真摯に対応を考えるべきであったのに、前記第一部の第四の四の2において認定したとおり、右マスコミ報道は中傷にすぎない旨クラスター紙上で反論したり、前記第一部の第一の四の4において認定したとおり、被告人藪内において朝日新聞社のインタビューに客観的事実に反する回答をし(被告人藪内の弁護人は、右記事の内容は、同被告人が答えた内容と異なる旨主張し、同被告人もそれに沿う供述をするが、同被告人の検察官に対する昭和六二年四月八日付け(証拠請求番号一三八九)及び同月九日付(証拠請求番号一三九〇)各供述調書では、昨年一年間の金地金の購入量につき約八トンと答えたのを誤って八〇トンと書かれたので、その後訂正を申し入れた旨供述しているのに対し、同被告人の当公判廷における供述及び同被告人作成の上申書では、約八〇〇キログラムと答えたのを誤って書かれたので、その後訂正を申し入れた結果、数字が訂正された旨(しかも、その新聞の訂正記事では「約八トン」となっている。)供述しており、供述に変遷がみられることに照らすと、同被告人の右供述は措信できない。)、さらに、公開質問状には企業秘密を理由にまともに回答しない一方で、右マスコミの批判に対抗して前記第一部の第一の四の5において認定したとおり、高額賞金作戦等を実施して導入額の増加を図る等全く無反省な態度に終始した。

(3) そして、前記第一部の第一の四の11において認定したとおり、豊田商事では、昭和五八年九、一〇月ころから、財務関係者らが毎夕集まって、翌日の支払予定順位を検討するいわゆる資金ミーティングを開始し、また、同年一一月ころ、同年九月分の社会保険料約八〇〇〇万円を手形を振り出して支払い、さらに、同年一二月ころ、永野が償還業務を担当していた管理本部の本部長であった被告人石松に対し、償還を一か月間全部遅らせるよう指示したうえ、同年一二月二七日付け役員通達第三七号「給与支給日変更の件」を発出して、毎月一五日であった給与支給日を昭和五九年一月から毎月二〇日に変更したが、これらはいずれも豊田商事の資金繰りの悪化を示すものであった。

(4) このような状況を目の当たりにして、副社長の乙野は、前記第一部の第一の四の12において認定したとおり、このままでは豊田商事は早晩倒産し、詐欺罪の共犯で検挙されるに至ることを恐れて退社することを決意し、昭和五八年一二月末に辞表を提出し、また、幹部社員を含む約三〇名も乙野に同調して昭和五八年秋ころから昭和五九年初めにかけて次々と退社するという事態が発生し、被告人らは、旧豊田商事時代から永野を補佐し、同人に次ぐ地位にあった乙野までが退社するという容易ならぬ状況に追い込まれたことを認識するに至った(なお、被告人らは、乙野の退社理由は、右の述べた理由からではなく、永野から冷遇されるようになって嫌気がさしたからである旨供述するところ、なるほど第四回公判調書中の証人乙野二夫の供述部分によれば、同人は、豊田商事退社後、同社と同様金地金に関する取引を行い、刑事事件にもなった会社に関与していることが認められ、このような乙野の退社後の行動をみるとそのような面もなかったとはいえないが、当時の豊田商事の状況に照らせば、主たる理由は、やはり前記認定のとおりと認めるのが相当である。)が、永野が社内の動揺を押えるための体制固めとして発表した新役員構想により、被告人石川及び同藪内の両名は、丙野三夫とともに副社長に昇格して、被告人石川は営業本部及びテレフォン本部を、被告人藪内は総務本部、財務本部、関連事業本部及び海外事業本部をそれぞれ管掌し、被告人山元及び同石松は専務取締役に(被告人山元は財務本部長、被告人石松は管理本部長)、被告人道添は常務取締役(総務本部長)にそれぞれ昇格し、以後被告人五名に永野及び丙野を加えた七名が、七役と称して豊田商事の経営を担うことになった。

(5) 永野は、前記第一部の第一の四の15において認定したとおり、ファミリー商法に対する社会的批判の高まり等により、その限界を察知し、ファミリー商法に見切りをつけてゴルフ会員権の販売に活路を見出そうとし、役員会議等でその構想を発表したが、被告人らも永野の意図を理解して、右永野構想に賛成し、ゴルフ会員権の販売を推進していくことになった。

その一方、ファミリー契約による導入金の拡大を目指して、昭和五九年三月に行った高額歩合作戦では、五年ものファミリーの継続の歩合を新規契約と同率の一五%に引き上げたが、会社への入金のない「継続」にこれだけの歩合を出してまで力を入れるということは、それだけ会社に償還に回せる資金が不足していることを示すものであり、そのことは、事柄の性質上、被告人らも容易に認識することができた。

(6) 一方、永野は、前記第一部の第一の四の16、17及び同五の1において認定したとおり、ファミリー契約の償還のため導入金を運用して収益をあげるべく努力しているように装い、捜査機関等からの追及をかわそうとして、昭和五九年二月から三月ころにかけて、多数のペーパー会社を設立し、さらに同様の目的で社会的批判を浴びている豊田商事を背後に覆い隠すため、その親会社でかつ関連会社全体の統括会社として位置付けた銀河計画を設立したが(銀河計画の場合は、右のとおり、多数になった関連会社を統括指導する目的もあったことは否定できないが、殊更新会社を設立しなくとも、母体である豊田商事が行えば足りることであった。)、これらは、経費を費消するだけで何ら収益を生み出さない会社であるところ、ただでさえ資金繰りの苦しい状況下において、貴重な資金を使ってこれらの会社を設立せざるを得ない程に、永野は捜査機関による追及をおそれていたことの証左というべきであり、当時の豊田商事の置かれていた状況を考えれば、被告人らにおいても、永野の右意図を理解していたものと認めるのが相当である。

(7) 永野は、前記第一部の第一の五の2において認定したとおり、昭和五九年五月ころの役員会議で、ファミリー契約に見切りをつけ、昭和六〇年三月ころまでに廃止して、ゴルフ会員権の販売に切り替えたい旨の意向を表明したところ、被告人石川及び同藪内らは、これに強く反対したが、それは、ゴルフ、レジャー会員権に切り替えるといっても、その準備のためには莫大な費用がかかり、また将来の見通しも立っていなかったため、ファミリー契約を廃止すれば、たちまち倒産することは一目瞭然で、ファミリー契約による自転車操業を続けていくほかない状況にあることを認識していたからであった。

そして、被告人らは、昭和五九年八月末ころの銀河計画の役員会議で、ベルギーダイヤモンドが一八億円もの物品税を滞納するほど資金に困窮していることを知るに至り、最も期待していた同社の経営不振を知って、豊田商事グループの資金源がいよいよ乏しいことを認識せざるを得なかった。

(8) 前記第一部の第一の五の7において認定したとおり、昭和五九年九月に開かれた顧問弁護士会議において、顧問弁護士から決算書類の提出を要請された永野は、豊田商事も関連会社も全部赤字なので、そのような決算書類はどこにも出せない旨回答し、また、事業計画書についても頭の中にあるなどと述べ、右顧問弁護士会議に出席していた被告人らは、右のようなやりとりにより、豊田商事が関連会社も含めて多額の赤字を抱えているうえ、会社経営に必要不可欠な事業計画の策定も全くなされていないことを重ねて認識するに至った。

(9) 豊田商事は、前記経営破綻の要因として述べたこと等により、資金繰りがますます悪化し、前記第一部の第一の五の8において認定したとおり、昭和五九年初めころから慢性的に二か月程度遅延するようになっていたファミリー契約の満期償還が、同年秋ころから一層遅れがひどくなり、そのころには、未償還債務額は一〇〇〇億円程度に達したが、これはファミリー商法に行きづまり、ゴルフ会員権商法に転換するため、その条件を整えなければならず、多数のゴルフ場を手に入れようとして多額の導入金をこれに投下しはじめたためであり、したがって資金繰りが苦しくなるのは必然的というべきものであった。このような満期償還の遅れについては、昭和五九年秋ころからの役員会議の席上で、管理本部長の被告人石松が具体的数字をあげながら、元本償還の遅れについて報告し、また、被告人石川が、償還遅れにより営業がやりづらいとの現場の声を、役員会議の席上で各役員に伝え、さらに、昭和六〇年に入ってからの役員会議において、被告人山元が無計画なゴルフ場買収を牽制する意味で、ファミリー契約の未償還額が一〇〇〇億円以上になっている旨発言したこと等から、被告人らも十分認識していた。

(10) 右のような資金繰りの悪化の影響は、これまで導入金拡大の柱としてきた高額歩合給の支給にまで及び、前記第一部の第一の五の8において認定したとおり、昭和五九年九月の役員会議において、一〇月の導入額が九〇億円に達しなかった場合という条件付きで歩合給の引下げを決定し、結局同年一〇月度の導入額が約七九億円にとどまったことから、同年一一月から営業歩合給を新規、増、継続のすべてにつきそれまでの一五パーセントから一律一二パーセントに引下げたが、歩合給の引下げは、営業社員の士気の低下をもたらし、導入額の落ち込みにつながるおそれが十分考えられるところ、そのようなマイナス面に目をつぶってでも引下げの断行に踏み切らざるを得なかったのは、豊田商事が高額歩合給を支給することの負担に耐えられなくなったことを示すものであった。右の歩合給の引下げは、一見導入額が目標額に達しなかったことのペナルティのような形をとっているが、実際は、資金難でなければこのような措置をとることはないことは、それまでの永野のやり方から見て明らかであった。

被告人らは、以上に摘示して来た諸般の出来事を通じ、遅くともこのころまでには、もはや約定どおりのファミリー契約の償還が不可能になるかも知れないことの認識を有するに至ったことが認められることは、前述したとおりである。

(11) しかるに、被告人らは、右のような認識を有していながら、償還できなくなってもやむを得ないとの意思のもとに、自己らの高額な報酬を得るため、ファミリー商法をやめることなく引き続き導入を続けた結果、別表一四のとおり、昭和六〇年三月、四月には導入額が九〇億円台にまで達したが、次第に追い詰められていき、前記第一部の第一の六の1、2において認定したとおり、昭和六〇年四月に鹿島商事の社員が詐欺で逮捕され、同社が捜索を受けて、帳簿類を押収されたことを知った永野は、いよいよ捜査の手が豊田商事及び銀河計画にも伸びてくることを予期し、その実態が解明されることを防ぐために、財務本部を香港に移転するとともに、豊田商事及び銀河計画の決算を組むのに必要な財務資料だけを香港に送り、その余の証憑書類の大半を廃棄処分にする等の証拠隠滅工作を行った。

さらに、それまで何にもまして最優先に支払うこととしていた給与についても、同年五月二〇日支給の同年四月分の営業社員の給与が遅配となり、また、永野、丙野及び被告人ら五名の役員報酬も、同年四月二〇日支給の同年三月分から支給されなくなる等末期的な症状を呈してきたが、このような状況にかんがみれば、もはやファミリー契約の満期償還が不可能であることを、被告人らも確定的に認識するに至ったものと認めるのが相当である。

(12) そして、前記第一部の第一の六の3において認定したとおり、同年五月二二日、元豊田商事社員らの同社に対する恐喝事件の公判審理で明らかになったとして、豊田商事が第三期末で約四〇〇億円の累積赤字を抱えている旨の新聞報道がなされ、永野らがもっともおそれていた豊田商事の財務内容が外部に明らかとなった結果、解約申し入れや問い合わせが殺到して混乱状態となり、同年六月一〇日ころ、ついにファミリー契約の発売を全面的に取りやめた。次いで同月一五日、銀河計画の財務本部が外国為替管理法違反容疑により、兵庫県警察に捜査され、その後永野自身も同県警の事情聴取を受けるに至り、同月一八日同人は自宅マンションに報道陣が押しかけ、一歩も外に出られないという追い詰められた状況の中で、暴漢に殺害され、豊田商事は一挙に崩壊に向かった。

二  総括

右に述べた諸点のうち、社会保険料を手形を振出して支払ったことや永野が被告人石松に償還を遅らせるよう指示したこと等については、知らない被告人もいたことは窺えるが、その他の諸点は、既に述べたように、被告人らは概ね認識していたものと認められる。

そして、前述したとおり、被告人らは、前記第二で述べた諸点及び第三の一の(1)ないし(10)で述べた諸般の出来事等を通じて、豊田商事及び銀河計画グループの経営がいよいよ破綻を来たし、ファミリー契約の約定どおりの償還や賃借料の支払いが不可能になるかも知れないことを認識するに至ったが、それもやむを得ないとして、遅くとも昭和五九年一一月ころまでには本件詐欺の未必の故意を有するに至ったものと認められるところ、ファミリー契約による導入は、豊田商事の会社組織を通じて行っていたものであるから、永野はもとより各部門の責任者である被告人らの互いの協力がなければ遂行し得ないことは明らかであり、被告人らもそのような認識に基づき、前述のとおり、各担当部門の責任者としてそれぞれ業務を遂行し、最高意思決定機関である役員会議において、会社の経営方針や重要事項を討議、決定する等して、互いに協力して会社を運営することにより、同社の営業社員を介して、ファミリー契約による導入を続けたものであり、おそくとも前記の時期までにおいて、永野及び被告人らは、純金等を約定期限に返還し、また約定どおり賃借料を支払うことが出来なくなるかもしれないが、それもやむを得ないとの意思を暗黙のうちに互に通じたうえ、豊田商事の会社組織を利用して、前記のファミリー商法を継続して行うことにより、本件犯行を遂行する共同意思を形成したものと認めるのが相当である。

第四弁護人ら及び被告人らのその他の主張について

一  永野のワンマン経営及び縦割り組織の主張について

弁護人らは、豊田商事は、創設者である永野のワンマン経営であり、被告人らは永野の指示、命令に従っていただけで、役員会議も形式的なものであるうえ、同社は完全な縦割り組織であったから、役員である被告人らといえども、自己の担当部門以外の会社全体の実態については知らされておらず、永野を補佐しながら豊田商事及び銀河計画の業務全般を掌理していたものではない旨主張する。

そこで、検討するのに、前記認定のとおり、なるほど豊田商事において永野の果たした役割は極めて大きく、たとえば、ファミリー証券の発売(五年ものを含む。)はもとより、高額歩合、ノルマ倍増賞金作戦等の導入拡大のための方策、銀河計画やその他の関連会社の設立、ゴルフ会員権の発売等豊田商事の重要施策はいずれも永野の発案にかかり、また、卓越した経営能力があるかのように装うことにより、その発言力も大きかったことが窺われるが、しかし、これまで述べてきたように、会社の根幹にかかわるような重要施策については、必ず被告人らが構成する役員会議の場に発議し、その承認を求めていたうえ、前記第一部の第一の三の6において認定したとおり、永野が行っていた商品先物取引の追い証金の支払の是非をめぐり、昭和五七年一二月末ころ開かれた緊急役員会議で、最終的には永野の意向どおり追い証を出すことに決定したものの、当初はほとんどの役員が反対して激論がかわされ、なかでも被告人藪内は、乙野とともに強い調子で反対し、被告人石川の説得により不承不承賛成に回ったものであり、また前記第一部の第一の四の2において認定したとおり、昭和五八年六月の五年ものファミリー契約の発売を討議、決定した役員会議においても、反対派の急先鋒であった乙野のほかに、被告人石松は管理部門の担当者としてクレームが増えることをおそれて半年ものを提案し、被告人道添も五年後の純金の値上りを懸念する発言をしていずれも五年ものファミリー契約に反対の意向を示し、被告人山元も財務担当者の立場から高額な賃借料の支払や歩合給の支給に懸念を示す等して、結局、永野が提案した五年ものファミリー契約の新規導入の歩合給を、これまでの倍額の一二パーセントにするという案については、ほとんどの役員の反対で九パーセントにすることが決まったこと、さらに、昭和五九年五月の役員会議において、永野が昭和六〇年三月までにファミリー契約を廃止するとの意向を表明したときも、被告人石川及び同藪内らが強く反対して結局廃止を断念していること、前記第一部の第七の19において認定したとおり毎月多額の赤字を計上していた海外タイムスグループの経営については、被告人石川及び同藪内を始めとして役員の間で反対論が強く、結局広告、販売部門として設立した別会社は、わずか二か月足らずですべて閉鎖したうえ、発行部数も減らして経営を縮小したこと等のほか、関連会社からの稟議の決裁で、永野以下の役員が可と決裁しているのに対し、被告人藪内だけが不可の決裁をし、結局出金されなかったケースが何度かあり、このような関連会社からの資金申請による出金の可否については、むしろ被告人藪内の意見が通ることが多かったこと、そのほか戊島九介の司法警察員に対する昭和六二年六月四日付け供述調書(証拠請求番号三〇二)によれば、永野は、戊島九介に「豊田商事はおれの力だけでここまで太ってきたのではない。石川の営業力と藪内の組織作り、内勤統率力など双方の力があったからだ。今ではこの二人の力が増大してしまって何をするにしても自分の思い通りに出来る状態ではなくなってしまった。」と述懐していたことが認められること等の点にかんがみると、被告人らは、役員会議において自由に発言しており、その結果、永野の意見が通らなかった例もあるうえ、被告人石川と被告人藪内の力は、永野も認めざるを得ない程に社内で大きくなっていたことが窺え、必ずしも永野が絶対的な権限を有してすべて事を処理していたわけではなかったことが認められる。

また、関係証拠によれば、なるほど豊田商事は、各部門別の縦割りの組織になっており、機密保持のため、社員は自己の担当部門以外のことについては分からない仕組みになっていたが、被告人ら役員の場合は、役員会議や関連会社報告会等に出席し、報告を受けたり、意見交換をする中で、自己の担当部門以外の部門についても、その細部についてまでは知らなくとも概略については知っていたものと認められるのであって、このように、被告人らは、それぞれ各分担を有しながら、豊田商事及び銀河計画の役員会議で意見を交換したうえその意思を決定し、右両社の業務全般を掌理していたものと認められるから、弁護人らの右主張は採用できない。

二  顧問弁護士会議の内容について

弁護人らは、被告人らはいずれも豊田商事の顧問弁護士が顧問弁護士会議等で、ファミリー商法は詐欺罪に該当しない旨発言をしたのを聞いて、詐欺罪には該当しないと思って安心して業務を遂行していたのであるから、被告人らに詐欺の犯意はなかった旨主張し、被告人らもそれに沿う供述をする。

そこで検討するのに、甲谷一男の検察官に介する供述調書(証拠請求番号一一二)及び乙川二郎の検察官に対する昭和六二年二月二〇日付け各供述調書(証拠請求番号一一三、一一四)によれば、昭和五八年六月二九日に開催された豊田商事の部課長会議において、顧問弁護士の戊原十郎弁護士が「ファミリー契約が詐欺罪になるかどうかは、預かった純金を運用するかどうかにかかっている。運用すればいいが運用しなければ詐欺罪になる。それと純金を預かるのは消費寄託だと解釈されるが、会社が純金を一本しか置いていないというようなやり方だと問題になるので、ある程度置かなければいけない。純金を一本会社に置いてあるとして、それを一〇人や二〇人位の人に利用するという程度なら問題はないが、一〇〇人や二〇〇人になるということになるとやはり問題だ。そして、何と言っても豊田商事が償還できなくなった時に問題になるのだから、必ず返さないと駄目だ。要するに、純金をある程度置いて、返金をきちんと履行すれば良いのであって、必ずそうしなければ駄目だ。」と説明し、次いで、昭和五九年三月三日に開催された第一回顧問弁護士会議において、戊原弁護士が「詐欺になるかならないかは、期限が到来した時にこれを確実に返還する意思があるかどうか、確実に返還することが出来るかどうかが問題になる。返還の意思と確実な返還の見通しがあれば良い。要するに返還が遅延するような事態になっては駄目だ。」と説明したことが認められる。

右の説明は、その内容からも明らかなように、ファミリー商法が無条件で詐欺罪にならない旨断定したものではなく、詐欺罪になるかどうかは、預かった純金等を運用することにより確実に返還出来るかどうかにかかっており、返還が遅延するような事態になってはいけないというように、場合によっては詐欺罪になることもありうることを明示したものである。そして右戊原弁護士が警告していた償還の遅れは、前述のとおり、昭和五九年初めころから始まり、同年秋ころには一層遅れがひどくなり、未償還債務額が約一〇〇〇億円近くに達したことは、被告人らも十分認識しているところであるから、被告人らは右顧問弁護士の発言を、自分たちの都合のよいように援用しているにすぎないというべきであって、弁護人らの右主張は採用できない。

三  警察庁課長の国会答弁について

豊田商事は、前記第一部の第一の四の9において認定したとおり、弁護士らの公開質問状に対する回答書の中で、昭和五七年七月六日の参議院商工委員会で、警察庁仲村保安課長も犯罪に該当しないと答弁している旨述べて、ファミリー商法は、警察当局のお墨付を得た正当な取引であるかのごとく主張しているが、右仲村保安課長の答弁は、前記第一部の第八の三において認定したとおり、「豊田商事については、大変関心を持っており、現在、会社の実態あるいは個々の行為の態様、中身、内容等について慎重に検討している。豊田商事のやり口等についていろいろ調査をしているが、やり方が非常に巧妙なので、直ちに犯罪に該当するというわけにはいかないというのが実情であり、今後あらゆる法令に該当しないかどうか慎重に検討していきたいと考えている。」というものであり、決して右回答書でいうように犯罪に該当しないと断定しているわけではなく、むしろ重大な関心を持って検討しているというように、豊田商事の行為について否定的な評価をしていたことが窺えるのであるから(その後の警察庁の答弁、対応も右と同様であった。)、右回答書の記載は、前記顧問弁護士の発言と同様、自分たちに殊更有利に要約して引用しているというべきであって、ファミリー商法を正当化する根拠とは到底なり得ないことは多言を要しないところである。

四  被告人らが最後までやめなかった点について

被告人石川ら及び同藪内の各弁護人は、被告人らが最後までやめずに業務の遂行に専念していたこと、被告人石川が自己の親類を関連会社に就職させたことをもって、被告人らに詐欺の犯意がなかったことの証左である旨主張するが、被告人らは、いずれも豊田商事及び銀河計画等の高級役員の地位にあるとともに、極めて高額な役員報酬(裏報酬も含む。)を得ていたのであって、転職したとしてもそのような高給は到底得られないであろうし、とりわけ被告人藪内等は、年齢的なこともあって、再就職できるかどうかも保証の限りではなかったことから、被告人らが最後までやめなかったのは、右のような地位及び報酬等が主たる理由であったと考えられ、また、被告人石川が親類を関連会社に就職させたというのも同様で、とりわけ同被告人の弟は、前記第一部の第七の三の9において認定したとおり、レストラン営業のサンタモニカの代表取締役として経営を任されたことが認められるうえ、これにより同人は、甲沼十介の司法警察員に対する供述調書(証拠請求番号二八一)及び検察事務官作成の昭和六〇年九月一八日付け捜査報告書(証拠請求番号一五六六)によれば、月額一〇〇万円程度の高額な役員報酬を得ていたことが認められることのほか、被告人らは、永野が巧く対処すれば、捜査機関からの追及を免れることもできるのではないかと事態を楽観視していたとも考えられるのであって、いずれにしても弁護人ら主張の右事情は、被告人らに詐欺の犯意があったことの認定を妨げるものではない。

よって、弁護人らの右主張は採用できない。

五  調書の信用性について

弁護人らは、被告人らの捜査官に対する供述調書並びに乙野二夫の捜査段階及び公判廷での供述は、前記第三部の第一において摘示した理由により信用性がない旨主張する。

しかしながら、右被告人らの捜査官に対する供述調書等をまつまでもなく、被告人らの公判供述その他の各証拠を総合すれば、被告人らの本件犯行の証明は十分と考えられるが、被告人らの捜査官に対する供述調書については、その任意性があることはもとより、信用性についても、他の証拠によって認定される客観的な事実等に照らしても、前記認定に沿う部分は信用できるというべきであり、乙野の供述もその点同様である。

よって、弁護人らの右主張は採用できない。

第五結論

以上の次第で、前掲各証拠によれば、判示事実は証明十分であり、これに反する被告人らの公判廷における供述は、前掲各証拠と対比して措信できず、弁護人らの前記各主張はいずれも採用することができない。

第四部法令の適用等

第一確定裁判

一  被告人藪内は、昭和六一年一〇月二三日大阪地方裁判所で強制執行不正免脱罪により懲役一〇月に処せられ、右裁判は同年一一月七日確定したものであって、この事実は検察事務官作成の前科調書(証拠請求番号一三九八)によりこれを認める。

二  被告人山元は、昭和六一年八月一四日大阪高等裁判所で強制執行不正免脱罪により懲役一年に処せられ、右裁判は同年同月二九日確定したものであって、この事実は検察事務官作成の前科調書(証拠請求番号一四一八)によりこれを認める。

第二法令の適用

被告人五名の判示各所為は、各被害者ごとにいずれも刑法六〇条、二四六条一項に該当するが、被告人石川、同石松及び同道添につき以上は同法四五条前段の併合罪であり、被告人藪内及び同山元については以上の各罪と前記確定裁判のあった罪とは同法四五条後段の併合罪であるから、同法五〇条によりまだ裁判を経ていない判示各罪について更に処断することとし、なお、右の各詐欺罪もまた同法四五条前段の併合罪であるから、被告人五名につき、いずれも同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示別紙犯罪事実一覧表1―(三)―6の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人石川及び同藪内を各懲役一三年に、被告人山元及び同石松を各懲役一一年に、被告人道添を懲役一〇年にそれぞれ処し、同法二一条を適用して被告人五名に対し未決勾留日数中各七〇〇日をそれぞれその刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人五名に対しいずれも負担させないこととする。

第三量刑の理由

一  本件は、顧客との間で純金等の売買契約と併せてファミリー契約を締結し、金銭を導入していた豊田商事の主要役員であった被告人らが、同社の創始者であり、かつ、最高責任者であった永野一男と共謀のうえ、純金等の売買代金等名下に、顧客から現金等を騙取した事案であるが、犯行の手段となった豊田商事のファミリー商法は、ファミリー契約による導入金が、実質的には、豊田商事の借入金であることを隠蔽・仮装するために、純金等の売買と賃貸借を巧みに仮装したうえ、契約に見合う現物が存在しないにもかかわらず、存在するように客に印象付けようとして、純金インゴットの実物大の写真入りパンフレットを見せたり、見本用のインゴットを客の手に握らせる等していたものであり、さらに、ファミリー契約の締結に際し、客を各地の一等地の一流ビルに入居している豊田商事の店舗に来店させ、豪華な内装設備や調度品、さらには多数の関連会社名を記載した豪華パンフレットや会社案内ビデオを見せることにより、豊田商事が巨額の赤字を抱え、関連会社も収益をあげていない事実を隠蔽し、同社がいかにも優良、堅実な会社であり、預かった純金を有利に運用して多大な利益をあげているように客に思い込ませて、償還に対する不安感を払拭させていたものであって、まことに巧妙な手口であるといわざるを得ないし、黒字の粉飾決算報告書を作成して民間信用調査機関等に配布していた点は、一般大衆を欺くために、虚偽の事実を流布、宣伝したものであって、甚だ悪質な行為というほかない。

さらに、そのセールス方法は、主として純金等の投資に関する知識に乏しい経済取引の不適格者で社会的弱者である老人や家庭の主婦を狙ったものであるが、このような人達を標的にすること自体卑劣な方法であるうえ、その勧誘方法は強引かつ執拗であり、テレフォン嬢は、見込みのありそうな客については、追客ノートと称する帳面に、住所、氏名、電話番号、電話の内容等を記入し、面談がとれるまで何回も電話をし、客宅を訪れた営業社員は、虚偽又は不正確というべき純金の三大利点を資料を使って言葉巧みに申し向けながら、長時間居座って相手が根負けするまで勧誘を続け(研修等で「五時間粘れ」と指導されていた。)、客が断っても、予め研修等によって教え込まれていた断り文句に対応した応酬話法を活用して断り切れないように持っていき、時には、客の正常な判断力を奪うため、キャッチボールと称する煽りトークを用いる等していたもので、営業社員らは、被告人らが設定した厳しいノルマを達成し、高額な歩合給を獲得するため、悪らつな手段を用いて契約に持ち込んでいたのであった。

二  しかも、本件は、豊田商事がほぼ全国に張りめぐらしていた地方店舗を、通知・通達、各種会議、研修、朝礼、稟議決裁等により統制し、あらかじめ仕込まれた組織力を十二分に利用して、全国的規模で行っていた組織的犯行であった。

すなわち、豊田商事では、顧客と接するテレフォン嬢や営業社員らに対し、入社後一週間ないし一〇日間、ビデオ等の教材を使用し、あるいは講師、同僚を相手に実演練習を行う等して徹底した新入社員研修を行い、研修終了後においても、毎朝の朝礼後に、セールストークの反復練習を行わせる等して、犯行の手段となるセールス方法を徹底的にたたき込んでこれを会得させたうえ、導入金獲得のノルマを課して、これを達成するよう上司が絶えず叱咤激励する一方、管理職も含め成績の良い者には、高額の歩合給、各種賞金・賞品、各種手当等を支給したり、導入額に応じた昇降格制度を設定する等アメとムチを使い分けて導入金の獲得に邁進させ、また、営業部門以外の各部門もそれぞれの立場で各分担の仕事をすることにより、会社全体で有機的、組織的にファミリー商法を推進していたものであり、豊田商事の最高幹部であった被告人らは、このような会社組織をフルに利用して、全国的規模で本件犯行を行ったものである。

三  そして、本件犯行は、北海道から沖縄まで広く全国の一般大衆を対象としており、本件による被害総額は、昭和六〇年一月から同年六月までの約六か月間で、現金一三七億六八六三万九一七一円のほか金地金、株券、社債等を含め合計一三八億〇一五二万八三二〇円相当、被害者数は四〇六三名に達し、その被害の大きさは、いまだ曽つて例をみない空前、未曾有の甚大なものであるうえ、被害者を年代別にみると六割以上が六〇歳以上であり、また、約六割が女性であって、女性と六〇歳以上の男性の合計は約八八パーセントであり、個々の被害の実態をみると次のとおりである。

本件被害者の大多数は、老人、主婦、無職の人で、有職者でも、家業(農業など)の手伝い程度の人が多い。また、目の見えない人や字を書くのも大変な高齢者も少なくなく、下半身付随で寝たきりの人、脳血栓に加え本件でくも膜下出血をおこした人や、老齢で明確には契約内容を理解していないと思われる人も多数含まれている。

また騙取された金は、老後の生活資金や子供の学費(本件により、長男を大学へ行かせてやれなくなった人もいる。)、子供の結婚資金、交通事故で死んだ長男の生命保険金などいずれも被害者にとってかけがえのないものであり、被害者の被った被害は、単に経済的なものにとどまらず、精神的にも大きい打撃を受けた人々が多く、高齢と被害のショックで入院したんや、全財産を失ったショックで寝られず、ついにノイローゼで通院し、他にも被害のショックで心神喪失状態になった人もいるのである。さらに、被害者の会の代表者である証人Fの当公判廷における供述や取調済の新聞記事(証拠請求番号七四四四)によれば、豊田商事と契約した人で命を縮め、中には自殺した人もあり、また本件被害者のなかでも被告人ら豊田商事の社員を恨みながら死んでいった人も出ている。その生前の被害者のメモ(Gの司法警察員に対する供述調書(証拠請求番号一三四九)に添付されている。別紙犯罪事実一覧表一―(四)―95の被害者Hのもの)を見れば、被害者の無念さが察せられるところである。他にも、「八つ裂きにしたい」、「殺してやりたい」、「いまだに腹が立つ」というなど豊田商事の者を恨む被害者は多く、被告人らに対し厳罰を望んでいるところである。

さらに、契約を夫や家族に内緒で行った人も多数あるが、これらの人は未だに被害の事実を家族にも言えず、相談する者もなく、例えば、「自殺も考えた。家族は全く知らない。知られたら生きる元気もない。」と言うなど、これら被害者は、現在も針のむしろに座っているような苦しい生活を送っているのである。

以上のように、被害者の多くは、単なる財産的被害にとどまらず、営々として築きあげた老後の生活資金を根こそぎ奪われるなど生存の基盤にかかわる強烈な精神的打撃を受けており、その被害は極めて深刻であるが、これに対する被害回復は、前記第一部の第一の七において認定したとおり、破産手続による配当により八パーセントの配当がなされたにすぎないというのが現状であり、今後も約一パーセントの上積みが見込まれる程度で被害回復には程遠く、被害者らの被告人らに対する被害感情には到底癒し難い強固なものがあり、被告人らに対し、こぞって厳罰を望んでいるのも至極当然というべきである。

そして、永野、丙野及び被告人ら豊田商事の最高幹部は、顧客から集めた金銭の中から、月額で、被告人石川及び同藪内は、いずれも六二〇万円、被告人山元、同石松、同道添はいずれも五五〇万円という極めて高額な役員報酬のほか、これとほぼ同額の交際費名目による裏報酬を得ていたうえ、被告人石川、同藪内、同石松、同道添は、高級クラブや飲食店等に頻繁に出入りして多額の金銭を遊興費等に費消し、さらに導入金から多額の使い込みをした被告人らもいるほか、営業社員らにも極めて高額の給与、歩合給、各種賞金・賞品等を支給し、導入金の獲得に狂奔させていたもので(前記第一部の第四の四において認定したとおり、手取額年間一二〇〇万円以上の高額歩合給を得ていた営業社員は二七五名の多数に上り、その最高額は約一億二五五〇万円であった。)、それらが導入金に対する経費率を押し上げて一層の経営悪化を招くとともに、被害者らに対し、回復不能の損害を与える一因となったのである。

そのうえ、本件は、組織的、大規模な犯行により一人暮しの老人や女性を中心に多数の被害者を出し、被害額も巨額であったことから、マスコミや国会にも取り上げられ、大きな社会問題となったうえ、この種手口は模倣されやすい性質を有するため、本件を模倣した詐欺商法も跡をたたず、社会的にも極めて重大な影響を及ぼしたものである。

なお、被告人藪内及び同石松の弁護人は、行政や捜査機関の怠慢が本件被害の拡大の一因をなしている旨主張するが、これまで述べてきたように、マスコミや国会、弁護士らにより、ファミリー商法の問題点が追及されてきており、被告人らもその問題性については十分認識していたというべきであるから、そのまま営業を続ければ早晩破綻するであろうことは当然予想できたはずであり、したがって、より早期に被告人らが自ら適切に対処しておれば、このような大規模な被害を出さずにすんだものと考えられ、被告人側の右主張は、まさに責任転嫁といわざるを得ない。

さらに、豊田商事は、もともと投資に関する知識や判断力に乏しい経済的取引の不適格者で社会的弱者とされる老人や家庭の主婦等を狙い、巧妙、執拗かつ強引なセールス方法により、豊田商事を全国的規模の優良な大会社の如く装って契約に持ち込んでいたものであるから、本件被害者らには落度はないというべきである。

四  さらに、昭和六〇年四月、関連会社である鹿島商事が捜索を受けたことにより、豊田商事及び銀河計画にも捜査の手が伸びることを危惧し、豊田商事及び銀河計画の決算作業に必要な帳簿、伝票類を香港に送付し、その他の証憑書類を廃棄処分にするなど、組織的に罪証隠滅工作をしていたのであって、以上の諸点にかんがみると、本件はまことに重大な犯行というべきであり、ファミリー商法推進の中心人物であり、最高責任者であった永野一男の刑事責任は、本件詐欺罪処断刑の最高に価するものというべきである。

五  そこで、以上の諸点を前提として、各被告人につき、個別の情状をみていくこととする。

1 被告人石川は、営業社員として入社後、営業の分野での力量を永野に認められて、めきめき頭角をあらわし、昭和五七年一一月に専務取締役営業本部長に、乙野が退社した後の昭和五九年二月に取締役副社長に昇任し、次いで、同年四月の銀河計画設立と同時に同社の取締役副社長に就任し(兼務)、さらに、昭和六〇年二月一日豊田商事の代表取締役社長に昇任したものであるが、同被告人は、豊田商事の最重要部門である営業部門の最高責任者として、永野の指示、方針に従い、継続ノルマの新設、ノルマ倍増賞金作戦、五年ものファミリー契約の導入、高額賞金作戦、管理職手当の大幅引き上げと高額給与・歩合作戦等導入拡大のための重要施策を中心となって推進し、また、毎日三回、地方店舗の営業成績を報告させたうえ、売上向上を目指して、毎朝、支社長宛にファックスで指示を与え、あるいは支社長、支店長会議等を主催して、檄を飛ばす等まさに陣頭指揮をし、導入金の拡大に狂奔していたもので、本件犯行の中心的役割を果たしていたというべきである。

2 被告人藪内は、被告人らの中では入社歴は最も浅いが、大手の系列会社に勤務していた経歴を永野に買われ、総務課長次いで総務部長に抜擢され、組織作りや店舗展開を任されて力を発揮し、昭和五七年一月取締役総務部長、同年一一月取締役総務本部長、昭和五八年一月常務取締役総務本部長、昭和五九年二月には丙野及び被告人石川と並んで取締役副社長(総務・財務・関連事業・海外事業の各本部を管掌)に昇任し、昭和五九年四月の銀河計画設立と同時に被告人石川とともに同社の取締役副社長に就任した(豊田商事の役員と兼務)が、被告人藪内は総務・財務等の内勤部門の最高責任者として、社内での発言力ないし影響力は大きく、役員会議や関連会社報告会等においても積極的に発言し、被告人ら役員の中では最年長ということもあって、被告人石川とともに主導的立場に立っていたもので、ことに営業部門と並んで重要部門である財務部門においては、その統括者として、特別の事項を除き稟議の最終決定権を持つ等絶大な力を有していたもので、営業部門を牽引した被告人石川とともに、いわば車の両輪として永野を補佐し、本件犯行の中心的役割を担っていたものである。

なお、被告人藪内は、永野の指示によるとはいえ、黒字の粉飾決算書の作成や公表決算書の赤字額の圧縮を指示していることのほか、台湾の愛人のために会社の金約三〇〇〇万円を使い込み、また、豊田商事出入りの内装業者からリベートを取っていた形跡も存する等権限を悪用して会社に損害を与えた不行跡も認められる。

3 被告人山元は、被告人らの中では被告人石松と共に最も早く旧豊田商事の取締役に就任した後、永野の信頼を得て二六歳の若さで大阪豊田商事設立と同時に同社の財務担当の常務取締役や就任し、昭和五七年一一月専務取締役総務本部副本部長(財務担当)、昭和五九年三月大阪・東京両本社の財務本部長に昇任した(昭和五九年四月に就任した銀河計画の専務取締役を兼務)が、被告人山元は、旧豊田商事の幹部として予約取引に代わるファミリー契約証券の企画、発売に関与したほか、役員会議に出席して、前記豊田商事の重要施策の討議、決定にも関与し、また、総務・財務部門管掌の副社長であった被告人藪内の下ではあったが、豊田商事の金庫番的存在として、財務部門の社員を指揮して導入金の管理・保管をし、ことに豊田商事の資金繰りが悪化して以降は、財務部が行ういわゆる資金ミーティングの中心となって資金調整を行い、あるいは、元本償還業務を担当していた管理本部との間で元本償還について打ち合わせる等して、豊田商事の財務破綻が外部に露呈するのを防ぎ、ファミリー商法の継続に財務的な面から大きく寄与したものであって、被告人山元も本件犯行に重要な役割を果たしていたというべきである。

なお、被告人山元も、会社の金約一億六〇〇〇万円を使い込んでおり、同被告人の場合は、暴力団員に脅されたり、その解決を依頼した豊田商事の元社員らに弱みを握られてつけこまれたこと等が主たる原因であったが、しかし、そのような原因を作った発端は、自らの女性関係にあるのであって、そのため顧客から集めた貴重な導入金をひそかに自己のために使い込んだ点は不利な情状といわなければならない。

4 被告人石松は、被告人山元と同様被告人らの中では最も早く旧豊田商事の取締役に就任し、福岡支店長代理、同支店長をした後、昭和五六年一一月に取締役管理部長に就任し、昭和五七年六月常務取締役管理監査部長、昭和五九年二月専務取締役管理本部長に昇任した(昭和五九年四月に就任した銀河計画の専務取締役を兼務)が、被告人石松も、旧豊田商事の幹部として、ファミリー契約証券の企画、発売に関与したほか、役員会議に出席して前記豊田商事の重要施策の討議、決定にも関与し、また、管理部門の最高責任者として、管理部門の社員を指揮して、元本償還、解約、継続、賃借料の支払、苦情処理並びにマスコミ、行政官庁、捜査機関及び裁判所対策等管理部門の各業務を統括し、さらに、前記第一部の第一の三の7において述べたとおり、昭和五八年三月に継続業務が管理部門から営業部門に移管された後も、継続率九〇パーセントを目指すよう通達を発して管理部門の社員に指示する等、主として契約締結後の顧客管理、事務処理等の面からファミリー商法の推進に寄与してきたものであって、右管理部門の業務は、営業や財務部門のそれに比べると目立たない業務ではあったが、反社会的な商法を行っていた豊田商事においては、右のような業務をうまく処理しないと、顧客のトラブルが大きくなり、たちまち社会的な批判を浴びて導入金の減少につながる危険性があったのであるから、被告人石松もまた本件犯行に重要な役割を果たしていたというべきである。

なお、被告人石松の弁護人は、被告人石松は、管理部門の責任者として期限内償還に努力し、永野の商品先物取引や追い証金の支払、さらには五年ものファミリー契約の発売と高額賃借料の支払等期限内償還を困難ならしめる事項については、反対の意思表示をしてきた旨主張するが、期限償還をすることは、ファミリー商法を行うものとしてむしろ当然のことであり、同被告人は、管理部門の責任者として、償還遅れによる苦情が続出し、ひいてはそれによる社会的批判が噴出して豊田商事の経営が破綻することをおそれて右のような言動に及んだものと考えられるうえ、結局最終的には賛成の意思表示をしているのであるから、同被告人の刑責を軽減する事由になるものとはいえない。

5 被告人道添は、永野が個人で営業していたころから同人に雇用され、旧豊田商事では同人の依頼で一時期名目上の代表取締役に就任する等永野との関わりは、被告人らの中では最も古く、その後一旦退社したが、再入社後の昭和五七年一〇月に取締役業務部長に就任し、同年一一月取締役総務本部副本部長(総務・業務担当)、昭和五九年二月常務取締役、同年六月専務取締役総務本部長に昇任した(なお、昭和五九年四月に銀河計画の常務取締役、同年七月に専務取締役に就任し、豊田商事の役員と兼務した。)が、同被告人も昭和五七年一〇月の取締役就任後、常時役員会議に出席するようになって、前記豊田商事の重要施策についての討議、決定に関与し、また、総務・財務部門管掌の副社長であった被告人藪内の下ではあったが、総務・業務・人事部門の責任者として部下の社員を指揮し、主として業務部門の顧客管理、各種集計表の作成、解約、償還等の業務管理を行い、その後内勤社員の人事関係を扱う等いわゆる総務関係の仕事により、ファミリー商法を側面から支えてきたもので、これ又本件犯行に重要な役割を果たしていた。

6 以上のとおり、被告人らは、いずれも豊田商事及び銀河計画の主要役員であり、ことに乙野の退社後は、永野と丙野を加えたこれら七名をいわゆる七役と称し、同人らだけで構成する常務会と称する最高幹部会議を開催したり、役員報酬の面でも右七名以外の役員とは相当大きな開きがある等他の役員とは別格の最高幹部であった。

被告人ら及び弁護人らは、永野の責任を強調するが、本件のような大規模な犯行は、到底永野ひとりでなし得るところではなく、豊田商事の組織力を利用してこそはじめてなし得たものであり、当初においては、永野の力が大きかったものの、豊田商事の会社組織が大きくなってからは、むしろ被告人らの力が集金組織としての豊田商事の機構の中で大きな働きを有していたというべきであり、被告人らは、いずれも豊田商事の最高幹部として、その組織の中で枢要な地位を占めて永野を補佐し、本件犯行にとって必要不可欠の各部門の運営を担当し、自らの高額な報酬等を得るため、組織の中枢にあって、ファミリー商法を推進し、本件犯行を指揮してきたものであって、被告人らの刑事責任は、本件犯行の悪質性及び被害の広範、甚大性に照らして、永野とさほど径庭はなく、極めて重大というべきであるが、被告人らの中でもその地位(役員歴を含む。)、役割、騙取金の分配利益である報酬額等により、おのずからその間の刑責に差異があり、そのような観点からみると、永野に次ぐのが被告人石川及び同藪内であり、次いで被告人山元及び同石松、さらにその次が被告人道添であると認めるのが相当である。

なお、被告人藪内、同石松及び同道添の弁護人らは、永野に次ぐ地位にいたのは乙野及び丙野である旨主張するが、乙野は、昭和五八年一二月末ころ辞表を提出し、退社したものであり、また、丙野はなるほど被告人石川及び同藪内よりも早く取締役に就任し、役員報酬の額も右被告人両名より若干高いことは認められるが、同人は昭和五八年一〇月ころから関連会社のベルギーダイヤモンドの経営をみるようになって、同社の仕事に重点を置くようになり、以後豊田商事の経営については、被告人石川及び藪内の両名が永野を補佐しながらいわば車の両輪として運営してきたものであり、しかも、昭和五九年五月ころをピークに、ベルギーダイヤモンドの業績が低迷するようになってから、丙野の影響力も低下し、前記第一部の五の12において認定したとおり、被告人石川が先輩役員である丙野と対等にやり合っていること等をみると、丙野の責任は、被告人石川及び同藪内のそれを超えるものではないとみるべきであるから、弁護人らの右主張は採用できない。

もっとも、被告人藪内の場合は、営業部門担当の被告人石川のように、第一線に立って陣頭指揮をふるうというような表立った活動はしていなかったため、被告人石川ほどには目立たなかったものの、社内では隠然たる影響力を有していたもので、現に、永野は、永野の直属の部下で、沖縄リゾート開発の取締役もしていた戊島九介に対し、「豊田商事は、俺の力だけでここまできたのではなく、石川の営業力と藪内の組織作り、内勤統率力があったからこそここまで大きくなった。今ではこの二人の力が増大してしまって何をするにつけても自分の思い通りに出来る状態ではなくなってしまった。今後、豊田商事は彼らにやってしまうつもりである。」旨述懐していたことが認められ、永野も被告人石川及び同藪内が実質的に豊田商事を動かしていたことを認めていたことが窺えるところである。

六  他方、被告人らのために斟酌すべき事情として、

1 永野がファミリー商法を始めた動機は、前記のとおり、自己の行っていた商品先物取引の資金集めであったといえるが、その方法、手段等に問題はあったにしても、豊田商事において導入金の運用を行っていたことや現に償還を受けた者もあり、永野を始め被告人らにおいて、当初からファミリー商法による導入金の返済を考えていなかったとは認められず、本件についても主として未必的故意にとどまること、

2 豊田商事における永野一男の存在、役割、影響力等は極めて大きく、ファミリー商法推進の中心人物は永野であって、同人が、非凡な能力の持主であるように思い込んだ被告人らは、永野の言動に追従した面があること、

3 被告人石川については罰金前科が二回あるだけで、被告人石松及び同道添には前科はなく、被告人藪内及び同山元については、前記確定裁判による懲役刑を含む前科があるものの、いずれも本件に関連するものであり、それ以外の前科はないこと(なお、被告人藪内及び同山元の弁護人らは、本件は、前記確定裁判の余罪にあたるから、右裁判の結果は、本件の量刑にあたり斟酌すべきである旨主張するが、右裁判は、本件に関連するとはいえ、全く別個の事実に関するものであるから、本件の量刑にあたり、右の刑につきとくに斟酌減刑すべきものとはいえない。)

4 被告人道添は最終的に自己に法的責任があることを認めたうえで反省悔悟の情を示しており、また、被告人石松は、被害額に比べればまことに微々たるものではあるが、請願作業の賞与金を破産管財人に支払う等して謝罪の意思を示し、その他の被告人らも、大勢の被害者らに多大の精神的、財産的被害を与えたことについて反省の情を示していること、

5 その他各被告人らの経歴、家庭の事情等が認められる。

七  そこで、以上にみてきた被告人らに対する有利、不利一切の情状をそれぞれ総合考慮して、主文のとおり量刑した次第である(求刑 被告人石川及び同藪内につき各懲役一四年、被告人山元及び同石松につき各懲役一三年、被告人道添につき懲役一二年)。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 内匠和彦 裁判官角隆博、同橋本一は、いずれも転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 内匠和彦)

〈以下省略〉

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